日吉駅や綱島街道など「鉄道と道路の歴史」を解説、貴重な講座映像を公開 | 横浜日吉新聞

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日吉や綱島など普段使っている鉄道路線や駅、綱島街道をはじめとした道路など港北区内の交通の歴史を学べる貴重な映像です。今年(2021年)2月に無観客で開かれた「港北地域学」講座(港北区主催、港北ボランティアガイドの会企画)の「港北の交通・物流の移り変わり~川と鉄道と道路から生まれた港北」の映像がこのほど公開されました。

「港北の交通・物流の移り変わり」の講師をつとめた平井誠二さん(港北映像ライブラリの同講座映像より)

この講座は今年2月17日に港北区役所で一般公開が予定されていましたが、緊急事態宣言中となったため無観客で開催。その模様を「港北ふるさとテレビ局」が収録し、約90分間の映像作品として、インターネット上の「港北映像ライブラリ」で公開したものです。

大倉精神文化研究所(大倉山2)の所長で、歴史エッセー書『わがまち港北』(全3冊)の著者でもある平井誠二さんが講師をつとめたこの講座は、港北区の交通と物流に絞って歴史を振り返るという珍しい視点から構成。鉄道や自動車がなかった頃の物流手段であった鶴見川の「舟運(しゅううん)」から説明が始まりました。

鉄道や自動車がない頃、鶴見川の舟運(しゅううん)ではさまざまなものが運ばれた(同)

鶴見川の舟運は、東海道などの街道に近い下流から港北区域などの上流へ向けては建築用の石材や砂利、農業用の下肥(しもごえ)、日用品などを運搬。

港北区などの上流から下流へは農産物や年貢米をはじめ、新吉田や新羽エリアの名産だった「寒中そうめん」、綱島などの天然氷(明治期以降)、温泉水(大正期以降)などを江戸方面へ運んだといいます。

現在、港北区内には12駅あり、東横線沿線の乗降客数が多いが、大正期まで区でもっとも賑わっていたのは小机だった(同)

川とともにあった港北区内の生活を変化させる契機となったのが鉄道網の整備で、1908(明治41)年にJR横浜線、1926(大正15)年には東急東横線が開業し、港北区域にも駅が置かれることにより、街を変貌させることになりました。

講座では、鉄道路線の開業が街に与えた影響をはじめ、大正時代までは区内でもっとも賑わっていた小机駅を皮切りに、JR菊名駅や新幹線とともに生まれた新横浜駅、東横線の日吉駅や綱島駅、大倉山駅、東急菊名駅、妙蓮寺駅など、駅ごとに住宅街の発展経緯などを細かく解説

区内の各駅ごとに歴史や発展の経緯を詳しく解説(同)

たとえば、日吉駅では慶應義塾大学との関係や、下田町の観光イチゴ園計画など、当時の宅地開発と乗客誘致策などを紹介し、綱島駅は温泉との関係を詳しく述べました。

古くから区内にあった横浜線や東横線に加え、1985(昭和60)年に横浜駅方面から新横浜駅まで乗り入れ、1993(平成11)年には新羽駅やセンター北駅、あざみの駅まで延長開業した市営地下鉄ブルーラインにおける港北区内での新駅と車両基地の計画や、2008(平成20)年3月に開業したグリーンラインが地域に与えた影響にも触れています。

また、2022年度下期(2022年10月~2023年3月)に開業を予定する「相鉄・東急直通線」(東急新横浜線・相鉄新横浜線)も取り上げ、計画段階では新綱島と新横浜駅の間に“新大倉山”が設けられそうな話があったことや、綱島駅東口の再開発を紹介しました。

区内の主要道路に関する歴史を紹介(同)

一方、道路網の整備では、神奈川湊(みなと)と内陸部を結んだ江戸時代までの重要道「神奈川道(みち)」をはじめ、“稲毛道”(いなげみち=橘樹郡(たちばなぐん=鶴見区・神奈川区の全域や大綱村、日吉村などが入っていた区域)の稲毛領を結んでいた)と呼ばれた「綱島街道の旧道」(神奈川宿~白幡村~篠原村~綱島村~溝口)と、陸と水上の交通が交わる「綱島河岸(かし)」、綱島東2丁目付近から日吉5丁目付近を経て矢上橋へいたる「大崎道(みち)」(綱島や日吉から川崎・東京方面を結ぶ古い道)などを紹介。

室町時代から存在するといわれる「綱島橋」も取り上げた(同)

室町時代から存在したとされ、現在の大綱橋につながる「綱島橋」についても詳しく解説しています。

自動車の性能が向上していくなかで、東京・品川と横浜をつなぐ目的から、1937(昭和12)年ごろから旧綱島街道を直線化するなどした「綱島街道(新道)」(現在の都道・県道2号「東京丸子横浜線」)の整備が始まりました。綱島駅付近から日吉駅付近まで直線でつながる現在の道は、新道としてこの時代以降に整備されたといいます。

新たな綱島街道の誕生により、「港北区域からの農産物や花(か)きを大田市場で売ることができるようになり、地域の農業に大きな影響を与えた」と平井さん。

綱島温泉の衰退は東海道新幹線の開業が一因とされているが、第三京浜の開通などモータリゼーションによる自動車交通に上手く対応できなかったことも要因と分析した(同)

その後、戦後のモータリゼーションで1965(昭和40)年には「第三京浜道路」(世田谷区~港北IC~保土ヶ谷IC)が開通。平井さんは「都内から港北区が身近になったので、本来は綱島温泉はもっと栄えてもよかったはず」といいます。

「第三京浜の開通により、貸切バスや自家用車で港北インターチェンジから綱島温泉へは行きやすくなったが、実際には途中の道路が狭く、綱島では温泉付近に車が停めづらい。これも衰退要因の一つではないか」と分析しました。

このほか、「港北産業道路」(県道「川崎町田線」の新羽町付近)や「環状2号線」、「宮内新横浜線」、「日吉元石川線(荏田綱島線)」といった主要道路の歴史にも触れています。

明治期以降、首都・東京と開港地・横浜の中間地点として交通網が整備され、農村地帯からベッドタウンへと変化してきた港北区。

現在も身近な存在である交通という視点から、過去100年間ほどにわたって地域の歴史を振り返るには最適な講座となっています。

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【参考リンク】

港北地域学講座 2020年度 第3回「港北の交通・物流の移り変わり」(講師・平井誠二氏)(港北映像ライブラリ)


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