日吉駅の付近は何もない山の中だった――。東急東横線も慶應義塾大学の日吉キャンパスもない90年ほど前、今では信じられないほど、何もない場所であった日吉の中心部。そんな時代を感じられるサイトを見つけました。「今昔マップ on the web」は、明治末期から大正、昭和、平成とこの100年間にわたる古地図を現在の地図と照らし合わせながら見ることができるユニークなサイトです。
今昔マップは、埼玉大学教育学部の谷謙二准教授の研究室が制作しているサイトで、首都圏など全国11地域の2500枚超にわたる古地図を収集。古地図の位置を動かすと、現在地をグーグルマップで表示してくれるため、その変遷を容易に知ることができます。
日吉や綱島、高田などの一帯は首都圏版に含まれており、下記の時代の古地図が収集されています。
明治42(1909)年/大正14(1925)年/昭和7(1932)年/昭和22(1947)年/昭和42(1967)年/昭和53(1978)年/昭和62(1987)年/平成6(1994)年/平成11(1999)年
特に面白いのが日吉駅周辺の変遷で、明治42年や大正時代の地図を見ると、ひたすら山、山、山……。ここに今のような街ができるとは想像さえできません。もちろん、綱島街道も影も形もありません。
唯一、目印らしいものといえば、旧「日吉台学生ハイツ」が建つ前の「箕輪大池」や寺社仏閣、かすかに見える「文」マークの日吉台小学校くらい(明治42年版にはなし)。日吉がこの1世紀で急速に発展した街であることがわかるはずです。
ところが昭和7(1932)年版を見ると、東急東横線の日吉駅ができ、現在の放射状の街が突如現れます。綱島駅の周辺(バス通りの「子母口綱島」線の鶴見川寄り=その後温泉街となる場所)も区画整理が行われています。山と田んぼと畑しかなかったような所だったのに、わずか10年ほどの間に急変させてしまった東急電鉄(当時は「東京横浜電鉄」)のすごさを思い知らされます。
クネクネ曲がっていた矢上川がいつ今のように「真っ直ぐ」になったのか、いつ綱島街道ができたのか――。綱島街道ができる前は、矢上小学校入口の信号から、日大高校・中学校の前や綱島東小学校裏門前を通り、綱島交差点へ至る道路が唯一の“街道”であったことなど、古地図からは色んな歴史が見えてきます。
また、自分が住んでいた場所は100年前、何があって、どう変遷してきたのか、時間のあるゴールデンウィーク中に、ぜひ各時期の地図を見比べてみてください。
なお、スマートフォンでも閲覧は可能ですが、画面が狭くかなり苦しいので、パソコンかタブレット端末で見ることをお薦めします。
【関連記事】
・ネット上の古地図や写真で日吉の街をバーチャルタイムスリップしてみませんか?(2015年8月29日)
・<コラム>自らの利益のため「日吉村」を引き裂いた大都市横浜と川崎の罪(2016年01月3日)
【参考リンク】
・今昔マップ on the web(埼玉大学教育学部・谷謙二研究室)
・明治時代の日吉駅の周辺(画面左側から各時代の地図に変更/拡大・縮小できます)
・明治時代の日吉本町駅の周辺(画面左側から各時代の地図に変更/拡大・縮小できます)
・明治時代の綱島駅の周辺(画面左側から各時代の地図に変更&拡大/縮小できます)
・明治時代の高田駅の周辺(画面左側から各時代の地図に変更&拡大/縮小できます)