そうだったのか!「日吉・綱島」の古地図から見えてきた7つの意外な発見

横浜日吉新聞
ひよしコラム 日吉コラム

ひよしコラム先日(2016年5月4日)「日吉駅周辺は何もない山の中!自分の住んでいる場所の100年間が見える面白地図サイト」という記事でご紹介した「今昔マップ on the web」を使って、このゴールデンウィーク中に、明治から大正、昭和期までの日吉や綱島の古地図を一通り眺めてみました

この100年ほどの急速な変化を見ていると、古地図から色んな疑問が見えてきたり、そうだったのか!と驚かされることがあったりしましたので、そんな7つの発見をご紹介します。

1,単純ですが、綱島はその名の通り「島」だった?

明治期の綱島駅周辺、なんだか「島」に見えませんか?

明治期の綱島駅周辺、なんだか「島」に見えませんか?(「今昔マップ on the web(埼玉大学教育学部・谷謙二研究室)」より)

今となっては当たり前のように「綱島」と呼んでいますが、そうか「島」だったのか、と気づかされたのが明治から大正期にかけての古地図です。田んぼばかりのエリアに家々が点在している綱島公園の山がぽっかり浮かんでいるように見えます。

綱島の古老からは「綱島は昔、海の底だった」とよく聞きますが(昔と言っても縄文時代ですが・・・)、古地図を見ていると、確かにそうだったのかも、と少し理解させられました。

ちなみに綱島の地名の由来は「津(船着き場や湿地)」の「島」という説があるそうです。

2,矢上~宮前~日大高前~綱島東を結ぶ「名無しの道路」に敬意

明治期の日吉村を貫く道路は1本だけ(「今昔マップ on the web(埼玉大学教育学部・谷謙二研究室)」より)

明治期の日吉村を貫く道路は1本だけ(「今昔マップ on the web(埼玉大学教育学部・谷謙二研究室)」より)

現在、日吉と綱島の街に欠かせない大動脈の「綱島街道(県道2号東京丸子横浜線)」ですが、明治期や大正期の地図にはその痕跡さえ見えません。綱島街道の綱島~日吉~中原区の間は、昭和11年頃から工事が始まったようで、それまでは綱島駅西口のバス通りとなっている「綱島子母口(しぼくち)線」が横浜と川崎や東京をつなぐメインルートでした。

そこで、当時の人々が日吉と綱島の行き来に使っていたのが、矢上の矢上小学校入口交差点=信号(日吉3)から、熊野神社のある「日吉宮前地区」を通り、日大高校の横を抜けて、綱島東小学校の諏訪神社側の校門付近に至る「名無し」の道路です。

日大高校の周辺はバスの通り道にもなっている

日大高校(箕輪町2)の周辺はバスの通り道にもなっている

矢上小学校入口の信号付近にはかつて「日吉村」の役場があり、この道が日吉村民や綱島住民(大綱村民)のメインルートであったことがうかがえます。

現在、コンビニの「セブンイレブン日吉宮前店」がある道ではなく、当時は山に近い側の道が使われていたようですが、その部分以外は、今ある道路とほぼ同じルートとなっています。

名もなき“横浜市道”(※書類上では「夢見ヶ﨑3号線」「箕輪229号線」「箕輪306号線」などの名が付いていますが、そう呼んでいる人を見たことはありません)となってしまった道路ですが、実際に歩いてみると、古くからの大きな屋敷が目立ち、沿線には熊野神社や諏訪神社(綱島)もあって、どこか古道の風格を感じさせてくれます。

なお、この道路は都市計画道路「綱島日吉線」として拡幅して整備する構想も古くからありますので、もしかしたら綱島日吉線と呼ぶのが適切なのかもしれません。

3,日吉になぜ「中原区」の飛び地ができたのか?

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戦後の地図では横浜と川崎の境界線は入り組んでいるようにも見える(「今昔マップ on the web(埼玉大学教育学部・谷謙二研究室)」より)

横浜日吉と川崎市中原区の境界は、矢上川で区切られていますが、綱島街道の付近には、横浜側なのに、なぜか住所が中原区となっている家が何軒かあります。一番有名なのが、仲の谷交差点の川崎寄りにある「ミニストップ木月新矢上橋店」で、ここは矢上川の日吉側にあるのに、住所は川崎市中原区です。

昭和22年発行の古地図を見ると、もともと矢上川が境界ではなく、今の日吉神社や慶應義塾大学矢上キャンパス、矢上小学校のある一帯が「川崎市」であったような境界線が見えます。

その後、矢上キャンパスの山一帯が横浜市に帰属したものの、平地にあった家々だけは、そのまま川崎市に残ったのではないか、と想像していますが、確証がありませんし、そうした記録も見つかりません。

矢上川の横浜側を歩いているのに、突如、川崎市中原区の住所表示が現れる

矢上川の横浜側を歩いているのに、突如、川崎市中原区の住所表示が現れる

かつて日吉で発行されていたタウン誌「とうよこ沿線」の1980年5月に掲載された特集「心に残る沿線のむかし」の座談会(インターネット版)に、下記のような記述を見つけました。

・・・・

司会:では、どこを境界にして日吉村を分割?

板垣:はい、いまの“矢上川”です。当時あの川はもっと曲がりくねってたわけですよ。それを私のおじいさんが中心になって河川改修をやったわけです。そこで、矢上川の向こう側の土地は川崎市、こちら側が横浜市に……。
それが、こっち側の横浜市の地域に川崎市が細くなが-くあるんですよ。戸数にして7~8軒が川崎市としてこっち側に残っています。水は川崎市、ガスは横浜市のこっちから引いている家が……。(略)

・・・・

これは日吉に16代つづく旧家の当主である板垣大助さん(日吉2丁目)の話ですので、大きなヒントになります。

ただ、なぜ「横浜」に「川崎」が残ってしまったのかが、まだ理由が分かりませんので、もう少し調べなければならないと、古地図をきっかけに思わされました。

4,クネクネ曲がっていた矢上川の変化に驚き

明治期の矢上川は今では考えられないくらいクネクネと蛇行している(「今昔マップ on the web(埼玉大学教育学部・谷謙二研究室)」より)

明治期の矢上川は今では考えられないくらいクネクネと蛇行している(「今昔マップ on the web(埼玉大学教育学部・谷謙二研究室)」より)

先ほど、日吉の旧家・板垣さんの話のなかで、矢上川の河川改修の話が出てきましたが、古地図には、かつての矢上川の姿が克明に記録されています。

もっとも古い明治42(1909)年がおそらく「原型」に近いようで、大正期以降は、地図を切り替える度に、川の流れが真っ直ぐに近づいてくる変化が楽しめます。

戦後すぐの昭和22(1947)年の地図では、日吉5~6丁目周辺に川を真っ直ぐに直した後に残った元の川(いわゆる「三日月湖」という存在です)がまだ残っていて、“流れのない川”を何に使っていたのだろうか、と想像をかきたてられました。

なお、横浜市が公開している昭和18年の地図では、矢上川の改修後に残った「三日月湖」の姿をさらに鮮明に見ることができます。また、川崎市幸区の日吉地区のページに矢上川に関する記載があり、九十九曲がりといわれるほど曲がりくねっていた矢上川は度々洪水を引き起こし、大正時代に改修された、などの一文が掲載されています。

5,あの立派な道路は川の上に作られていたのか

戦後の地図に突如、北綱島交差点付近に現れた川(水路?)(「今昔マップ on the web(埼玉大学教育学部・谷謙二研究室)」より)

戦後の地図に突如、北綱島交差点付近に現れた川(水路?)(「今昔マップ on the web(埼玉大学教育学部・谷謙二研究室)」より)

もう一つ川のお話です。昭和42(1967)年の地図に、北綱島交差点あたりに川(水路?)を見つけました。その近くにはパナソニックの工場(当時は松下通信工業)のマークも確認できます。

この川、現在の地図と照らし合わせてみると、「日吉元石川線(正式名は荏田綱島線)」のルートそのものです。今、綱島街道よりも立派な四車線道路として整備されている日吉元石川線は、実は川の上に作られていたようです。

にしても、この川は何のためにあったのでしょうか。戦前の地図には記載が見えませんので、農業用ではなく、工業用の水路だったのでしょうか。日吉町側は鶴見川とつながっているので、舟運に使われていたのでしょうか。これも調べなければと思います。

なお、横浜市が公開している昭和22年の地図にもこの水路を見ることができます。なぜ、日吉本町周辺の途中でプツリと止まっているのか、ますます謎が深まります。なにより、日吉と綱島が川で区切られていた歴史があったことも初耳でした。

6,現在の日吉6丁目付近に存在した「旭村」の謎

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現在の日吉6丁目に突如「旭村」の名が!(「今昔マップ on the web(埼玉大学教育学部・谷謙二研究室)」より)

現在、日吉6丁目の「日吉自動車学校」の先、市営「さかえ住宅」の付近を明治期の地図で見ると、「旭村」という表記に出会います。この旭村は、明治22(1889)年から昭和2(1927)年まで存在した村で、鶴見区の駒岡や末吉などの一帯から成っていたようです。

今と川の流れ方が違っていて境界線が見えづらいのですが、現在の地図と照らし合わせると、日吉の一部と綱島東のごく一部が旭村に含まれているように見えます。ということは、今の日吉は、日吉村だけではなく、旭村の一部も含んでいたということになります。一体、どういう経緯があったのか、これもよく調べなければと思いました。

7,元住吉駅の由来と地元の思いを感じる

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明治期の地図には「住吉村」の記載が残る(「今昔マップ on the web(埼玉大学教育学部・谷謙二研究室)」より)

こちらは日吉と綱島ではありませんが、大正期の「元住吉駅」周辺です。住吉村となっていますが、昭和7(1932)年の地図になると、住吉村の名は消え、「橘樹(たちばな)郡中原町」に変わっています。そして、東横線の駅には「もとすみよし」の名が。

元は住吉村だったから、元住吉駅。なんだか単純ですが、住吉村であったことの記憶を駅名にとどめているのが素晴らしいなと感じさせられました。

以上、古地図を見て感じた謎と驚きの報告です。これからも時折、タイムトリップを楽しんで、こちらで発見を報告していきたいと思います。

【関連記事】

日吉駅周辺は何もない山の中!自分の住んでいる場所の100年間が見える面白地図サイト(2016年5月4日)

ネット上の古地図や写真で日吉の街をバーチャルタイムスリップしてみませんか?(2015年8月29日)

【参考リンク】

今昔マップ on the web

横浜市「三千分一地形図」(昭和初期と30年代の地形図を公開)


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