日吉が生んだ母思いの横綱「武蔵山」に迫る、綱島諏訪神社の草相撲で力育む

横浜日吉新聞

没後から半世紀、日吉が生んだ母親思いの横綱の素顔に迫る講演に多くの人が詰め掛けました。日吉出身で神奈川県では唯一の横綱となった武蔵山の軌跡をたどる講演会「第33代横綱 武蔵山~日吉の孝行息子」が今月(2019年3月)10日に港北図書館で開かれ、戦前の大相撲を代表する横綱像に加え、地域でのエピソードも紹介されました。

港北図書館の1階では展示会「第33代横綱 武蔵山展~日吉から大相撲の頂点へ」が3月24日(日)まで開かれている

大倉精神文化研究所が主催した今回の講演会には、港北区の歴史を紹介するなかで武蔵山についても幾度か取り上げてきた同研究所所長の平井誠二さんが登壇。半年ほどかけて新たに調査した内容も盛り込まれました。当日は会場定員の50人でいっぱいになるほどで、開催前までに参加申し込みが締め切られました。

平井さんが今回特に力を入れたのは、武蔵山が大相撲の出羽海(でわのうみ)部屋に入門することになった“きっかけ”が何であったのかという点の解明です。

20年以上続けた港北区発行の情報紙「楽・遊・学」における平井さんの連載「わがまち港北」では、綱島諏訪神社(綱島東2)の“草相撲(祭相撲)”で認められたという説と、現在の国体(国民体育大会)のような位置付けの「明治神宮競技大会」の第1回大会で神奈川県代表となったことから相撲界の目に止まったという2つの説を2001年に提示しています。

この2説はインターネット上の百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」の武蔵山の項目に掲載されるなど、世間の“定説”となりつつあることから、「この機会にどちらが本当なのか調べたかった」(平井さん)と再度調査に着手。

講演する平井さん

明治神宮競技大会の記録を調べたり、明治神宮に問い合わせたり、当時の資料に当たったりしたものの記録がなく、「どちらの説も間違いでないことを証明するのが難しかった」との結論。また、武蔵山の後援会が発行した機関誌には橘樹(たちばな)郡(日吉村や鶴見区、神奈川区、川崎市中原区や幸区、多摩区にいたる全域が区域)の青年団による競技会に出たことがきっかけだったとの記載も見つかっているといいます。

平井さんは「いろいろな説があったということしか言えない」とする一方で、「綱島諏訪神社に『力石(ちからいし)』が今もあり、草相撲をとっていた武蔵山が持ち上げていたことは違いないと思っている」と話していました。

今回の講演のもととなった資料類は、港北図書館の1階で「第33代横綱 武蔵山展~日吉から大相撲の頂点へ」(入場無料、3月18日は休館)と題して展示を行っており、3月24日(日)まで見ることが可能です。

平井誠二氏の講演会「第33代横綱 武蔵山~日吉の孝行息子」要旨

2019年3月10日(土)に港北図書館で行われた大倉精神文化研究所・平井誠二所長による約90分間の講演「第33代横綱 武蔵山~日吉の孝行息子」について、日吉や綱島など周辺地域との関わりの部分を中心に要旨として以下にまとめました。


今回、港北図書館で行っている武蔵山に関する展示会と講演会は、(公益財団法人)大倉精神文化研究所が主催した。当研究所は「人間とは何か、どうあるべきか」といった精神文化を研究しているが、事業の一つとして「地域社会との連携」も目的としており、今回は(研究所が位置する地域が輩出した)武蔵山の生き方を学ぶために企画した

武蔵山の等身大パネルの前に立つ平井さん、武蔵山は身長が186センチあり、昭和10年ごろの平均身長が164センチだったことを考えると、相当な大きさだった。後方のスクリーンには、平井さんが一番好きだという笑顔で写る珍しい武蔵山の写真

武蔵山の本名は「横山武(たけし)」といい、1909(明治42)年12月5日に橘樹(たちばな)郡日吉村字駒林(あざこまばやし、現在の日吉本町)で横山家の長男として生まれた。今年は没後50年で生誕110年となるため、秋にもイベントを行いたいと考えている。

生家は「赤門坂」の下にあり、江戸時代の横山家は、周辺3カ村の仲買人のような立場だったとみられ、米穀商を営み、名主(なぬし=村長)並みの旧家であると記載している資料もある。武(武蔵山)が生まれた時は裕福な農家だったようだ

しかし、武(武蔵山)が9歳(満年齢)の頃、父親が事業に失敗してカラフト(樺太=現在のロシア・サハリン)へ渡ったため、残された母と5人の兄弟は苦しい生活となる。母親思いの武(武蔵山)は母親のすゞ(ず)さんを助け続けた

武(武蔵山)は小学校6年生の頃、すでに身長が173センチもあり、「大人(おとな)」とあだ名されるほどだった。今も急な坂で知られる赤門坂では、荷車を引いた子牛でも上り切れなかったことがあったが、その時、武(武蔵山)が子牛から荷車を離して自分で引き上げたというエピソードが残るほど、怪力の持主だった

武(武蔵山)は日吉や綱島の周辺で開かれる“草相撲”に度々出ていたが、それは、苦しい生活を助けるため、賞品を狙うという面もあったのではないか。こうした草相撲で活躍していたことは、のちの相撲部屋入門につながった

港北図書館の展示では日吉での少年時代から横綱時代、引退後まで振り返ることができる内容となっている

1926(大正14)年10月、武(武蔵山)が15歳の時に出羽海(でわのうみ)部屋へ正式入門する

きっかけとなったのは「綱島諏訪神社の草相撲で認められた」という説と、現在の国民体育大会のような「明治神宮競技大会」で代表となって目に止まったとの2説を2001年に連載「わがまち港北」で提示したら、インターネットの百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」に誰かが書き込んだ。この機会にはっきりさせようと今回あらためて調査した

明治神宮競技大会は、武(武蔵山)が入門する前年の1924(大正13)年に第1回が開かれており、出場できるとすればこの時しかない。1935(昭和10)年の東京朝日新聞には、神奈川県代表として相撲と砲丸投げに出場したのが入門のきっかけであったと書かれてある。「相撲」という雑誌の1969(昭和44)年6月号にも「神奈川代表の青年部に横山武という怪童がいる」という思い出を記している

そのため、第1回明治神宮競技大会の公式記録だけでなく、念のため第2回大会も含め調べてみたが、どこを探しても武(武蔵山)が出場した形跡は見つけられなかった。出場したというのは「ほぼ間違い」ではないかと思っているが、間違いであること自体を証明するのは難しい

綱島東2丁目にある綱島諏訪神社

綱島諏訪神社の鳥居の手前には(持ち上げて力くらべに使われたとみられる)「力石(ちからいし)」があり、武(武蔵山)が草相撲に出ていたらしいので、これを持ち上げたに違いないと思っている。ただ、(草相撲だったこともあり)記録は残っていない

一方で武蔵山後援会「武蔵山会」が1931(昭和6)年5月に発行した機関誌「武蔵山」には、部屋入門直前の1925(大正14)年4月に橘樹(たちばな)郡連合青年団の競技会に相撲の部で出場したのがきっかけで中原町長(現在の中原区)が出羽海部屋に紹介したとも書かれているが、この説はあまり使われていない。入門のきっかけはさまざまな説があるとしか言えない

出羽海部屋の武隈親方(元小結・両国)が武(武蔵山)を勧誘するため、1925(大正14)年に横山家を尋ねた時の思い出話が残されている。最初の訪問時は「家を見付けるのが大変で、たどり着けず諦めて帰った」とのエピソードが残っている。当時の日吉は鉄道(東急東横線)が通じておらず、2回目は雨のなか人力車で行ったらしい。母親や祖母は、当初部屋入りには反対でなかなか会えなかった

出羽海部屋の武熊親方以外の親方もスカウトに来ていたようだが、「すぐにも横綱になれる」という話で勧誘する他の部屋に比べ、武熊親方は「素質だけではなれない、努力すれば横綱になれる」と言われたことから出羽海部屋に決めたという。武(武蔵山)は「お母さんを幸せにしたいから」と入門理由を語っている

日吉台小学校卒業生の思い出や当時の写真も展示されている

入門翌年の1926(大正15)年1月、初土俵へ挑む際には「多摩川」のしこ名を名乗っていたという説もあるが、当時の情報が少なく分からない

出羽海部屋へ入門した武蔵山は、1929(昭和4)年5月、19歳の時に初入幕を果たす。新入幕時に神奈川県武蔵山後援会が贈った化粧回しは、北綱島の俳画家である飯田九一(くいち、飯田家11代目・助大夫快三の三男で後援会の有力メンバー、1892年~1970年)の筆による雲竜図が描かれていた。現在は白黒写真しか残っていないのが残念だ

昭和の初期は、昭和恐慌などで暗い世相だったが、武蔵山は1929(昭和4)年の天覧試合で2度の優勝を果たすなど広く人気を集めた

それは、武蔵山の母校である日吉台小学校(当時は尋常駒林小学校の名)を1930(昭和5)年に卒業した松田玄一さんの思い出話からもうかがえる。武蔵山が赤門坂の下にある生家に帰ってくる際は、現在と同様に日吉台小学校校庭の横を通ることになるが、校舎から武蔵山を見付けた子どもが大騒ぎになり、生徒全員が窓辺から手を振って見送り、日吉駅でも自然と「万歳」の声が轟いていたという

横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)の1935(昭和10)年5月29日号記事には、「横浜合併問題では真っ二つに割れた日吉村も『おらが村さの横綱武さん』のためには、何もかも一切を超越して村長以下全村会議員が合同の発起人となり、村中の各有力者もまた過去のことは忘れて、喜んで(祝賀会に)出るという和やかさぶり」といった内容や、神奈川県武蔵山後援会長の飯田助夫氏(大綱村長や衆院議員をつとめた飯田家12代目、化粧回しに雲竜図を描いた飯田九一氏の兄)も世話役の一人として出席する、との記載も見える(展示より)

地元だから人気があったというわけではなく、河出書房新社の「わが世代 大正10年生まれ」(1979年)という本には、「子供たちの一番の人気者は武蔵山であった。それはもう、颯爽たる大豪力士で、男っぷりもよく、前頭から幕内、三役へと勢いよくぐんぐん登っていくさまは、まるで飛龍を見るような思いだった」との証言も残されている

また、当時の世界的なスターが武蔵山に会っており、1930(昭和5)年にハリウッドで活躍した国際的映画俳優の早川雪洲(せっしゅう)と、1932(昭和7)年には喜劇王と呼ばれたチャップリンと一緒に写った写真がそれぞれ残っている

1934(昭和9)年に武蔵山は、人手に渡っていた日吉の横山家の土地を買い戻し、母親のために1000坪の敷地を持つ家を新築した。母すゞさんは「着物は送る珍しい地方のものは送って来る、取られていた地所は買い戻してくれる、家も新築する、もったいないくらい幸せです」という言葉を残している

家を新築した翌年の1935(昭和10)年5月には第33代横綱へ昇進する。日吉村では5月29日に村長らが発起人となり、綱島温泉の旅館「水明楼(すいめいろう)」(戦前に綱島温泉の二大旅館と言われたうちの1館)にある100畳の大広間がぎっしり埋まるほど盛大に祝賀会が行われた

(その後、古傷もあって横綱在位中は成績が振るわず)武蔵山は1940(昭和15)年1月に引退し、年寄「出来山(できやま)」を名乗る(幕内在位28場所、幕内成績は174勝69敗2分71休だった)。勝負審判などをやり、のちに年寄「不知火(しらぬい)」に変更した

1934(昭和9)年に建てた新居の前で家族とともに写る写真も(展示より)

しかし、第二次世界大戦後の1945(昭和20)年11月、35歳時に相撲協会を離れ、廃業する。その理由として、相撲協会の現職のまま、終戦直前に日新兵器という会社を手伝ったことを挙げ、「二足のわらじをはいたものはやめるべき、という考えから辞表を出したのです」と語っている。

戦後は幾つかの職に就き、事業も成功しなかったが、昭和40年ごろには日吉の生地に戻り、アパート経営などを行う不動産屋として、静かな余生を過ごしていたようだ。(1969=昭和44=年3月15日、心筋梗塞のため59歳で死去する)

昨年、港北区内で武蔵山を題材にした紙芝居「港北区の横綱『武蔵山』」(近藤陽子作、コンコンズ絵)が完成した。ときどき上演の機会があるので、ぜひ見てほしい

講演要旨は以上です。

【関連記事】

日吉が生んだ横綱「武蔵山」、没後半世紀で3/10(日)に平井誠二さんが講演(2019年3月1日)

<コラム>自らの利益のため「日吉村」を引き裂いた大都市横浜と川崎の罪(2016年1月3日、武蔵山が横綱に昇進した当時の日吉の様子)

【参考リンク】

港北図書館の公式サイト(下部に展示会の情報)

悲劇の横綱 武蔵山(2001年12月、シリーズわがまち港北 第36回、平井誠二さんの連載)

悲運の横綱「武蔵山」の生涯(昭和57年1月1日号などの「とうよこ沿線」復刻版)


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