<コラム>自らの利益のため「日吉村」を引き裂いた大都市横浜と川崎の罪

横浜日吉新聞
ひよしコラム

ひよしコラム会社や取引先などに「どこに住んでいますか?」と尋ねられ、「日吉です」と答えるとほぼ8~9割の人が分かってくれます。「慶應の街ですね」とか「地下鉄に座って通勤できるでしょう」(南北線と三田線の始発着駅なので)のほか、「いい所に住んでいますね」といった反応も多く、慶應OB(SFC=藤沢市=出身者を除く塾員)に当たると「あのラーメン屋はどうなった」「中央通りのあの店はまだあるの?」などと、具体的な質問を受けることがあります。

なかには「えっ、日吉ですか!私は普通部の出身なんです」「実は塾高(日吉キャンパス内にある慶應義塾高校)に通っていましてね」と急に過去を明かしてくれる人もいます。日吉の知名度が抜群だと感じる瞬間です。(※慶應大学の学生は、藤沢市にあるSFCなどの学生を除き、医学部生も含め必ず1年間以上は日吉キャンパスへ通います)

ところが、首都圏以外で横浜をよく知る人や慶應関係者を除いて、日吉の地勢を説明する時には少し難しいものがあります。「横浜なんです」と言ってしまえば、「海と港があっておしゃれでいい街ですね」などと、苦笑いするしかないような反応に遭遇することも多数。かといって無理に「川崎です」(1990年代まで日吉は川崎の市外局番でしたが……)とも言い難く、苦心の末に「横浜と東京の真ん中で、一応は横浜の中に入っていますが、川崎や東京に限りなく近い場所です」と煮え切らない言葉を返すしかありません。

日吉を紹介する時にいつも感じるのは、「横浜」とくくられてしまうことへの違和感です。たとえばニュースで「横浜市の慶應大学で」と報じられると、横浜に慶應のキャンパスなんてあったかな、と一瞬考え込んでしまうことがあります。

横浜への違和感と、川崎とも言えない日吉。この複雑な思いは、日吉という街の歴史が影響しているのではないかと考え、80年ほど昔へタイムトリップしてみました。

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慶應の誘致を契機に横浜も川崎も合併を画策

昭和9(1934)年4月に新設された慶應義塾大学日吉キャンパス(神奈川県日吉台大学予科第二校舎落成記念絵葉書、昭和11年6月、横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

昭和9(1934)年4月に新設された慶應義塾大学日吉キャンパス(神奈川県日吉台大学予科第二校舎落成記念絵葉書、昭和11年6月、横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

日吉はもともと明治22(1889)年から昭和12(1937)年3月まで、半世紀近くにわたって「日吉村」という自治体でした。

当時は「神奈川県橘樹(たちばな)郡日吉村」と呼ばれる存在。現在は川崎市幸(さいわい)区側にある「小倉」「鹿島田」「南加瀬」「北加瀬」の4字(あざ=区画)と、横浜市側にある「矢上(矢上川から西側が現在の日吉町、川を境に川崎と横浜に分断された)」「箕輪」「駒林(現在の日吉本町)」「駒ヶ橋(現在の下田町など)」の4字を合わせた8区域となっていました。

明治期の日吉村は米作が盛んで、大正時代になると桃を中心とした果樹や野菜作りに移ったといい、それなりに豊かな村だったようです。日本一の桃の産地であり、まさに桃源郷(とうげんきょう)であったとの思い出話も多く聞かれます。

そんな平和な農村に激震を起こすきっかけとなったのが、昭和9(1934)年4月に慶應義塾大学が日吉キャンパスの開校を決めたことでした。慶應を誘致した当時の東京横浜電鉄(東急電鉄)が横浜市に水道の給水を依頼したことを機に、横浜市が日吉村に合併を持ち掛けてきたのです。

日吉村に横浜市から非公式の合併打診があったのは、日吉キャンパスが開校する1年前の昭和8(1933)年3月で、続いて川崎市からも同様の申し出があったといいます。一方、川崎市側の日吉・北加瀬にある日吉小学校などで使われている児童向けの副教材では、昭和4(1929)年にはすでに川崎市が合併を申し入れていたとの記述も見られます。

当時、日吉村長だった秋本重作氏によると、

・川崎市の税額は横浜と比べて3割高となる

・水道料金は横浜市のほうが安く、ガス代も低廉である

・東急東横線(日吉駅)を利用している村民は6~7割にのぼる。北加瀬方面の住民にとっては、鹿島田駅(JR南武線)が川崎方面への乗降に便利であるが、(合併後は)横浜市営バスによって東横線方面や横浜市方面と結ぶ予定のため不便はない

・日吉村の農作物は横浜市の中央市場や東京神田京橋などの市場に出荷しているので、川崎市とはあまり関係がない

こうした理由により、村議会でもいったんは横浜市との全面合併を決定したのですが、その後、川崎市の巻き返しがあり、大紛糾することになります。

一寒村の日吉村、慶應と操車場で一躍注目を集める

横浜市に合併されるか、川崎市につくかでモメていた当時の記事によると、以下のように伝えています。ちょっと長いのですが、状況を分かりやすく伝えているので引用します。

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昭和8(1933)年当時の日吉村全域図(川崎市幸区ホームページより)

昭和8(1933)年当時の日吉村全域図(川崎市幸区ホームページより)

数カ月前までは一寒村であった日吉村は来春から日吉台に慶応大学が建設されて、一躍学園都市として頭角を現すことになったことに、(※横浜・川崎)両市の合併熱が高潮してきた原因がある。

この裏面には某々有力者の暗躍(※このあたりの背景と根拠は不明)もあるが、村民にとしても税金、水道、瓦斯(ガス)などが2~3割は割合が良いという横浜市は6大都市の1つであって、将来日吉村に区政を敷くというので、横浜側に合併を希望する者が多いのも無理はない。

一方、川崎は東洋のマンチェスターとして飛躍すべき工業都市を看板に村民に呼びかけているが、村としての負担も従来日吉台方面が3割で、矢上川以東が7割なので、今度の合併で矢上川以西の学園街・日吉台を含む4部落が横浜へ合併すれば、日吉とすれば南北加瀬、鹿島田、小倉はほとんど残骸の形ともなり、村の財源にも困るとして、南北加瀬をはじめ4部落の人々のなかには、川崎側への合併に反対し、横浜市への合併を希望している者も相当にある。

かつて東洋一の規模と言われた「新鶴見操車場」は、規模を縮小のうえ格下げされ「新鶴見信号場」という形で名残をとどめている(2016年撮影)

かつて東洋一の規模と言われた「新鶴見操車場」は、1980年代に規模を縮小のうえ「新鶴見信号場」という形に格下げとなったが、今もその名残をとどめている(2016年撮影)

分割合併は村長が多年苦労してきたことが水泡に帰すもので、これを「一つの家」として見ると、離散する場合か没落の際ならともかく、日吉村は操車場(※鹿島田・小倉地域に昭和4年に設けられ、東洋一の規模と言われたが1984年に廃止された新鶴見操車場、現在の新川崎駅周辺)、慶大の開校と旭日昇天(きょくじつしょうてん=きわめて盛んな)の勢いを示している際だけに、全村合併か分割か、横浜か川崎か、日吉村民の帰趨(きすう)はすこぶる注目されている。

(「横浜貿易新報」=現在の神奈川新聞の前身=昭和9年9月26日号記事「日吉村宙に迷う」に読点などを追加し、文意を損なわない形で現代語風に直した。引用は「横浜住民運動集成~昭和戦前編」より)

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この記事では、村としては財政的な負担が少ない日吉台方面の4つ(箕輪、駒林、駒ヶ橋、矢上)が横浜市へ合併されることになると、残された南北加瀬、鹿島田、小倉は「ほとんど残骸の形」とまで言い切っています。当時、東洋一の規模と言われた新鶴見操車場が鹿島田・小倉地区に稼働し始めていたにもかかわらずです。(※操車場が廃止された現在の状況を見ればそう思えなくもないですが、この記事は横浜市側の意をもって書かれた可能性もあるので、すべてが信用できるわけではありません)

こうした状況だからこそ、村長らは日吉村の未来を考え、一括して横浜市へ合併させようとしたのですが、現在の“市境”である矢上川を境にして、真っ二つに割れてしまいます。

既に日吉村は川崎市の都市計画に入っていたはずだ

南北加瀬や鹿島田、小倉などの川崎市側に近い東側地区としては、「東部の川崎側は水田地帯で、二ヶ領用水(にかりょうようすい=現在の川崎市多摩区から川崎区まで約32kmを流れていた用水路)の恩恵を受けていたため川崎市との関係が深かったのに対し、西部の横浜側は多くが丘陵地帯で、東部とは異なる灌漑用水を用いていたため、川崎市との関わりも希薄」(幸区ホームページ「日吉地区とは」より)といった背景もありました。

また、川崎市の主張としては、下記のような文章も残っています。

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昭和9年1月に発行された「川崎市市政叢書第1号~工業都市と遊覧都市:川崎と鎌倉の都市計画」で合併問題に反論

昭和9年1月に発行された「川崎市市政叢書第1号~工業都市と遊覧都市:川崎と鎌倉の都市計画」では、都市計画の観点から日吉村の横浜市による合併に反論

日吉村は昭和4年に川崎都市計画区域決定に関する内務大臣の諮問に対して異議なき答申をしていて、現在においても川崎市都市計画区域に全村が入っているのである。それがどういう関係で横浜市に併合されようとしているのか、川崎横浜の半分づつに分けようとしているのか理由がよくわからない。

(略)自治団体の区域がどうなっても、都市計画的立場から見れば、日吉村が川崎市都市計画区域内にあることが自然であることは地図を開いてみれば明らかである。中原町(現中原区)が川崎市と合併したこと自身が日吉村の合併を前提にしたことであって、日吉村が横浜市になれば、中原町と川崎市をつなぐ府中県道が途中で切られて、いわば川崎の上下はくびられてしまうわけである。

(昭和9年1月発行の「川崎市市政叢書第1号~工業都市と遊覧都市:川崎と鎌倉の都市計画」に読点などを追加し、文意を損なわない形で現代語風に直した。国会図書館近代デジタルライブラリー所蔵)

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都市計画の観点から見ると、日吉村は地勢的にも川崎市の中原区などと一体となって行うべきであり、既に日吉村は同意していたのに、なぜ横浜市が横から口を出してくるのか――。抑制のきいた文章ながら、横浜市の姿勢に疑念を呈しています。

また、川崎市立日吉小学校の創立100年記念誌には下記のような一文が残されています。

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新川崎駅近くにある「川崎市立日吉小学校」は、日吉村時代の1932(昭和7)年に南加瀬高等小学校と鹿島田小学校が統合されて現在地に設けられてた。川崎日吉を代表する小学校

新川崎駅近くにある「川崎市立日吉小学校」は、日吉村時代の1932(昭和7)年に南加瀬高等小学校と鹿島田小学校が統合されて現在地に設けられた。川崎日吉を代表する小学校

日吉村を構成した七ケ村は維新後、それぞれ異なった小区、大区に分割されて成長し、その独自な文化を持っているため、連合村になっても行政面で統一することはなかなか困難だった。いつも利害は対立関係にあり、群雄割拠の有様だった。明治22年町制が施行されるに当たっても、その村名の決定にはなかなかラチがあかなかったらしい。

(川崎市立日吉小学校「創立百年、統合五〇周年記念誌『栄あれ日吉』」、中山貞治氏「日吉の由来」より)

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日吉村として統一した自治体ではあったものの、もともと一つにまとまりづらい村だったとの指摘もあります。

日吉村長「川崎市が狂ったように邪魔したせいで……」

紛糾のさなか、昭和10(1935)年12月に「大横濱(大横浜)」という雑誌に書かれた日吉村長の文章は、横浜側の視点から経緯を簡潔にまとめており、やり切れなさが端々に含まれているという点で、興味深い内容といえます。以下に転載してみましょう。

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「大横浜」昭和10年12月号に掲載された「市合併問題の再検討」と題した神奈川県橘樹郡日吉村村長・秋本重作氏による文章(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

「大横濱」昭和10年12月号に掲載された「市合併問題の再検討」と題した日吉村村長・秋本重作氏による文章(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)※なお、秋重作村長の苗字については、昭和9年12月25日に発行された「大横濱」(第12号)の18ページに掲載された「日吉村々勢概要」には、村の高額納税者の一覧に駒林の「秋重作」との名が見られる

昨年(昭和9年)7、8月ごろは村会の全員、村民の大部分が「横浜合併賛成」で村会は満場一致で決議できた時期があったにもかかわらず、村の重大問題であるので、一応は村民の意向を問うことにした。

この間、川崎市は市の当局、市会議員ならびに日吉村民の縁故関係者、市の元老連など総動員をもって莫大な経費を使い、寝食を忘れて狂奔(きょうほん=狂ったように走り回って)運動したがために、川崎市に接近した部落のなかでは、おいおい川崎合併を主張するものが出てきて、容易に決しがたい状態となった。

神奈川県当局は、矢上川を境に4対4の分割合併が妥当であるとして、川崎市に対し全幅の同情と後援をなし、また村理事者にもこれをすすめた。

(実業之横浜社「大横濱」昭和10年12月号「市村合併問題の再検討」と題した神奈川県橘樹郡日吉村村長・秋本重作氏による文章を文意を損なわない形で現代語風に直した)

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横浜市と関係が深い雑誌に掲載しているためか、「莫大な経費を使い、寝食を忘れて狂奔運動した」など、川崎市側と一派に対する怨念を包み隠さず書いています。

「せっかく横浜市との合併がすんなり決まりかけていたのに、川崎市の野郎、余計な邪魔をしやがって!」と、村長の大きな舌打ちさえ聴こえてきそうな一文です。

横浜合併を提案した村長に“川崎派”が鉄拳の雨

というのも、この合併騒動があまりに紛糾して村議会では暴力事件にまで発展してしまい、村長としてはその時の恨みがあるからではないかとみられます。

暴力事件が起こった村議会の散々な状況については、次のような記事が残っています。

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(略)……傍聴していた二百数十名の村民のうち、議場左隅の塊の中から全村合併反対側の北加瀬区長・高橋清作が議場へ躍り出て、何やら絶叫した瞬間、酒気を帯びて顔を真っ赤に染めた百余名の全村合併反対の村民は、どっと議場になだれ込んで、秋本村長をはじめ全村横浜合併の10村議に鉄拳の雨を降らせ、もみくちゃにし、ついには机、椅子を手に手にとってぶんぶん振り回し、議案書、議席標が乱れ飛んで議場はまったく修羅場と化し……

(中略、「恐怖の嵐の中に議事を再開した」など、議事内容の記載)

……またもや分割合併派の村民百余名は北加瀬区長・高橋清作、同村議・深瀬宇之吉(※深瀬氏は以前、日吉村の村長だった)の両名の命令に従って議場になだれ込んで、村長および全村横浜合併の10村議を殴る蹴る……
(「横浜貿易新報」昭和9年6月27日号記事を文意を損なわない形で現代語に直した、引用は「横浜住民運動集成~昭和戦前編」より)

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矢上川を境に日吉は横浜と川崎に分断されることになった

矢上川を境に日吉は横浜と川崎に分断されることになった

村長としては村の将来を考えて「最善」と思ってやってきたのに、議場では反対派となった村民に“鉄拳の雨”まで降らされたのですから、たまったものではありません。あまりにまとまらない状況に一時は辞意を決意したといいます。

こんな状態ですので、いつまでも双方が相いれることはなく、1937(昭和12)年4月1日に「分割合併」となり、これによって日吉は横浜と川崎に分断されてしまうことになりました。横浜市も川崎市も自らの勢力拡大のために、小さな村をそそのかすがごとく引き裂いたとも言え、実に罪作りな存在です。

日吉村の一部を横浜市へ編入したことを伝える「横浜市公報」

日吉村の一部を横浜市へ編入したことを伝える「横浜市公報」の1937(昭和12)年3月31日号(横浜市立図書館デジタルアーカイブより

横浜と川崎がそれぞれ日吉村を合併して支配下に置いた後は、太平洋戦争があったためか、市の“端っこ”にある日吉の存在など忘れたかのようです。

横浜市は当初約束した「区制」をしないばかりか、慶應や東急に任せっきりで公共施設の整備に熱心ではなく(合併から70年後に地下鉄グリーンラインを作りましたが=最後に追記しました)、川崎市は住所から日吉の名まで消し去る始末(これは住民意思の可能性もあり=最後に追記しました)。日吉村は2つの巨大企業に、いいように飲み込まれた中小企業のような存在となってしまいました。

慶應義塾大学の「新川崎タウンキャンパス(K2キャンパス)」は、産学官連携の拠点として「新鶴見操車場」の跡地を活用して2000年に開設された

慶應義塾大学の「新川崎タウンキャンパス(K2キャンパス)」は、産学官連携の拠点として「新鶴見操車場」の跡地を活用して2000年に開設された

一方、間接的に日吉村分断のきっかけを作ることになった慶應大学はその後、1972(昭和47)年に建設した「矢上キャンパス」(日吉3)は川崎との境界線ぎりぎりの横浜市側に設けたものの、2000年には川崎市と連携して「川崎日吉」の新川崎駅前に「新川崎タウンキャンパス(K2タウンキャンパス)」を新設したのは、せめてもの罪滅ぼしだったのかもしれません。横浜市や川崎市当局よりは、よほど気をつかっているようにも感じます。

横浜と川崎の中間にあり、東京都内からも近かったことから生じてしまった日吉村の悲劇。横浜とも川崎とも言えない複雑な感情は、こうした「ややこしい歴史」を知らず知らずのうちに日吉住民が背負わされていたのか、と今更ながら80年も前の歴史をひも解いて感じた2016年の正月でした。

(※追記1)

「横浜市学校沿革誌」(1957年12月発行)による日吉台小学校の紹介。合併後間もなく校舎を新築したとの記述が見える(横浜市立図書館デジタルライブラリーより)

「横浜市学校沿革誌」(1957年12月発行)による日吉台小学校の紹介。合併後間もない昭和15年に校舎を新築したとの記述が見える(横浜市立図書館デジタルライブラリーより)

横浜市が日吉村の一部を吸収合併後、最初に目に見える形で行ったのが、当時合併した4町内では唯一の学校である「日吉台小学校」(当時の名は「日吉台尋常高等学校」)の校舎を新築したことです。

当時は日本一の木造校舎と呼ばれた、という話もありますので、豪華だったようで、横浜市がまったく公共施設の整備に不熱心だったわけではありません。あくまでも平成時代に住む一住民(筆者)の感想です。(ただ、この日本一の木造校舎は、5年もしないうちにアメリカ軍の空爆で焼かれてしまったので、日吉住民にとっては悲しい「幻の校舎」となりましたが・・・)(2016年5月10日追記)

(※追記2)

当初、川崎市側が「日吉」という町名を消したと書きましたが、その背景を知るヒントとなる一文を見つけましたので、下記にご紹介します。

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この日吉村が二分されたあと、日吉という名称がいつの間にか東横線日吉駅とか日吉町とか日吉仲町とかいって横浜の地域にとられるような傾向になってしまった。川崎側はかろうじて日吉出張所または日吉小学校でその旧名をとどめている。(川崎市立日吉小学校「創立百年、統合五〇周年記念誌『栄あれ日吉』」、中山貞治氏「日吉の由来」より)

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川崎市側に日吉の地名が残らなかった理由の一つとして、「横浜側にとられてしまったから」というのは有力な指摘ではないかとみています。(2016年1月11日追記)

【関連記事】

<コラム>引き裂かれた日吉村、次に来たのは大迷惑な日本海軍とアメリカ軍(続編的な内容、2016年1月10日)

【参考リンク】

日吉地区とは(川崎市幸区ホームページ、分かりやすい歴史概説)

新鶴見操車場について(川崎市幸区ホームページ)


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