今では人口107万人、旧「港北区」を記録した貴重な資料に見る発展前夜 | 横浜日吉新聞

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今では人口100万人を軽く超える横浜の北部4区(港北・青葉・都筑・緑)は半世紀前まで一つの「港北区」でした。そんな“旧港北区”の姿を記録した区制30周年記念の冊子がインターネット上に公開されています。

2022年10月1日現在の北部4区(旧港北区)の人口は107万104人にのぼる(「横浜市人口ニュース」No.1154より)

今年(2022年)10月1日時点で北部4区の人口は、港北区が36万2122人、青葉区は31万490人、都筑区が21万4737人、緑区は18万2755人で4区あわせて107万104人に達しました。

これは千葉の県庁所在地である千葉市(97万8704人=9月現在)よりも多く、東北随一の政令市・仙台市(109万9239人=10月現在)に迫る人口規模です。

東京都内に近い横浜市の人口集中エリアは1969(昭和44)年10月、当時の港北区内で「川和支所」にあった現在の緑区や青葉区を中心とした地域を「旧緑区」として分区するまでは一つの行政区となっていました。

港北区の区制30周年を記念し1969(昭和44)年8月に発行された「区勢要覧」(横浜市立図書館デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」より)

現在の4区が一つの港北区だった時代では最後となる「区勢要覧」が「横浜市立図書館デジタルアーカイブ」としてPDF形式で一般公開され、インターネット上から誰でも見られるようになっています。

青葉区域まで含んだ巨大な港北区

1969(昭和44)年8月に区制30周年を記念して発行されたこの区勢要覧では、「(昭和14年の港北区誕生当時)5万余の人口が現在34万人をこえるにいたり、10区中最高の人口となるにいたりました」とする当時の北見正義区長による「発刊のことば」で始まります。

当時の飛鳥田一雄市長による「お祝いのことば」には乱開発に対する危機感が盛り込まれている(1969年「区勢要覧」より)

続いて当時の飛鳥田一雄市長が「ここ数年来の激しい都市化の波は、良好な自然環境を破壊し、至るところ虫喰い状態に宅地化し、住みにくい地区と変わりつつあります」と現状を危惧したうえで、港北ニュータウンの建設や2区分離による緑区の新設を紹介しています。

この区勢要覧で一番の見どころは、当時の港北区を示した全体図で、日吉駅付近から町田市に接する奈良町(現青葉区、こどもの国付近)までに広がり、現在は保土ヶ谷区にある上菅田(かみすげた)町も“出島”のように含まれていました。

1969(昭和44)年8月時点の「港北区」、現在の港北・緑・青葉・都筑の4区を含んでおり、当時の横浜市域の約3割を占めていた。左側半分は「川和支所」のエリア(同)

各町別の人口や世帯数の一覧も付いており、新横浜駅付近から妙蓮寺駅付近までを含んでいた当時の篠原町(3万1404人)を除けば、日吉本町(2万97人)や日吉町(1万3736人)、太尾町(現大倉山)(1万3319人)、南綱島町(1万1787人)、大曽根町(1万1114人)など東急東横線の沿線に人口が集中。

港北区内の各町における人口や世帯数、面積の一覧、東横線沿線に人が多い。1966(昭和41)年に長津田まで開業したばかりの田園都市線沿線にはまだ人口が少ない(同)

田園都市線の沿線はまだ人が少なく、JR(当時国鉄)の駅があり、区内でもっとも面積の広かった長津田町(1万3825人)の人口規模が目立つ程度でした。

1967(昭和42)年度の港北区内の駅における乗車人員数、日吉と綱島の多さが目立つ。この頃はブルーラインもグリーンラインもまだない(同)

区内に置かれた駅別に見た1967(昭和42)年度の乗車人員数では、日吉(4万2123人)と綱島(3万2729人)の2駅が圧倒的に多く、たまプラーザ駅(1606人)は現在の10分の1にも満たない規模で、港北ニュータウンが未完成だった都筑区エリアにはまだ鉄道路線がありません。

全国から年間6万人弱が区内に流入

もう一つの注目は、1968(昭和43)年中の港北区への転入者を地域別に表した図表です。

首都圏・関東圏をはじめ、全国各地から港北区へ流入していた(同)

1年間で5万9000人超も転入してくるという規模もさることながら、首都圏や関東圏が多くを占めるなかでも全国各地から港北区へ流入していました。

関東圏以外では隣接する「中部」(3099人)がもっとも多かったのですが、その次が「東北」(2200人)となっている点も興味深いところです。

この区勢要覧が刊行から1年半後の1971(昭和46)年1月に発行された「市民生活白書 横浜と私」という市の書籍には、宮城県から就職したという17歳の女性とみられる市民から「市長への手紙」に寄せられた内容を紹介。

1971(昭和46)年に発行された「市民生活白書 横浜と私」では、任意に選んだ1日に寄せられた「市長への手紙」などのなかから選んだ市民の声が掲載されており、港北区の篠原町に住む60歳主婦からは家の横を通る道路の交通公害で「ノイローゼになりそうだ」との訴えも載っている(横浜市立図書館デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」より)

そこには、夢と希望を胸に抱いて「港北区×××町」の会社で働き始めたが、あまりにも苦しみが多すぎ、自分は中学校しか出ていないので会社との話し合いになると負けてしまう、私は横浜を出ます、といった内容がたどたどしい文字で書かれていたといいます。

同書では「集団就職の子だろうか」「このいじらしい少女の欲しかったものを、横浜という都市は、ついにあたえることができなかったのだろうか」との見方を書き残していました。

区内では、事業所の有無にかかわらず近年まで日吉エリアを中心に企業の社員寮や社宅が集中しており、遠方からの就職者向けの住居には都心に近い港北区が適していたものとみられます。

1939(昭和14)年4月から1969(昭和44)年4月まで30年間にわたる年表も付いており、港北区の誕生に始まり、緑区の分区準備と港北高校の開校まで、区内の出来事をまとめている(1969年「区勢要覧」より)

このほか、区勢要覧では港北区が誕生した1939(昭和14)年4月から1969(昭和44)年4月まで30年間の年表が掲載されており、「昭和20年4月15日 空襲により日吉駅前約100戸、同宮前の大半が罹災した」「昭和36年2月18日 政治と鶴見川改修に生涯をかけた港北区の元老飯田助夫翁が永眠した」など行政内外の出来事を追っています。

かつて「片田舎同様の寂しさ」(同要覧)だったという港北区に首都圏や全国から人が流れ込んで人口が急増した結果、4つの区に分割されることになる“前夜”の記録は、一部地域への人口集中とインフラ不足に加え、高齢化に伴う課題にも対応が迫られる旧港北4区の未来を考えるうえで貴重な地域資料といえます。

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【参考リンク】

港北区制30周年記念「1969年版 区勢概要」(横浜市立図書館デジタルアーカイブ、PDF版のダウンロード可能)

1971(昭和46)年1月発行「市民生活白書 横浜と私」(横浜市立図書館デジタルアーカイブ、PDF版のダウンロード可能)

横浜市立図書館デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」(各種資料の検索が可能)


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