<旧港北区>地域屈指の「豪商」が伝える川和の繁栄、3年ぶりに公開された旧家 | 横浜日吉新聞

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【沿線レポート】旧港北区域(港北・緑・都筑・青葉)の豪商として、また「菊」の一大名所として首都圏一円に広く知れ渡っていた都筑区川和町の「中山恒三郎(つねさぶろう)家」が3年ぶりに一般公開され、680人超が旧家の約200年にわたる歴史や川和の懐かしい風景に触れました。

川和町駅から鴨居方面へ続く道の先に緑の丘が見え、そこに中山恒三郎家がある

中山恒三郎家は、市営地下鉄グリーンライン・川和町駅から鴨居駅方面へ伸びるバス通りの一本道「横浜上麻生線」を歩いて10分ほど、緑に囲まれた丘に位置する横浜市認定の歴史的建造物です。

横浜市ふるさと歴史財団(開港資料館・歴史博物館・都市発展記念館などを運営)が所有者である中山家と地域の協力を得て、2017(平成29)年4月に一般公開を初めて実施。

3年ぶりの公開を伝える横浜市ふるさと歴史財団の案内チラシ(公式案内ページより)

その後も定期的に開かれてきましたが、2019年以降は新型コロナウイルス禍の影響で中断し、先月(2022年)11月26日・27日に3年ぶりとなる公開が実現したものです。

明治期から栄え続けた川和の豪商

2008(平成20)年3月にグリーンラインの駅が開業し、数年前から始まった駅前再開発によって大きく変化しつつある川和町で、明治期から昭和後期にわたる街の繁栄をしのばせる中山恒三郎家。

丘のなかにある中山恒三郎家の出入口付近、市認定歴史的建造物の店蔵も見える

昭和後期以降の川和は、横浜線の駅が設けられた中山駅(現緑区)の周辺に中心部が移ったため、現在は以前のような繁栄は見られませんが、かつて12の村から成る「都筑(つづき)郡」の中心地として明治期から栄え続けてきました。

役場や裁判所、警察署、郵便局といった行政機関が置かれたほか、1939(昭和14)年の横浜市による合併で当時の港北区(旧港北区)に合流してからも区の出張所や支所が設けられ、1962(昭和37)年には区内初の公立高校として川和高校も開校。同校は地域有数の知名度を誇ります。

2008年にグリーンラインが開業するまでは川和町に鉄道の駅は無かった

最盛期には約100店が出店した「川和の市(いち)」が1960年代まで開かれるなど、経済面でも旧港北区の重要な街となっており、なかでも県下最大の酒問屋だったといわれる中山恒三郎家と系列の「山王屋」は地域を代表する名士として、また“豪商”としてその名を轟かせました。

膨大な資料が眠っていた邸宅

そんな中山恒三郎家の存在が再び広く知られるきっかけとなったのが今から7年前の2015(平成27)年10月。

現当主六代目となる中山健さんが敷地の一部に近所の保育園を移転誘致するにあたり、横浜開港資料館に調査の相談を寄せたことでした。

現在の「書院・松林庵」(左)と店蔵、書院は現在の場所に移築されている

連絡を受けて上司とともに駆けつけた同館(当時)の吉田律人さん(現・都市発展記念館調査研究員)は、「当時の敷地内には母屋や蔵などの建物がひしめき、そこには大量の古い資料・文書類が保管されていました。重要性と量から見て、とても2人で対応できるようなレベルのものではなく、ふるさと歴史財団全体で調査に取り組むことになりました」と話します。

中山恒三郎家は明治期から「戸長(こちょう=行政の責任者)」として川和周辺の村政に深く関わっていたことに加え、菊の栽培酒類・呉服類の販売、醤油醸造、製糸業などを営んでおり、古い商業関連の資料も多く残されていたといいます。

蔵には酒問屋時代の備品なども多く残されている

同家が代々経営していた酒問屋の「中山恒三郎商店」は1980年代中ごろまでに事業を停止し、その後は邸宅や蔵などの設備が使われていなかったこともあり、「初めて調査に訪れた7年前の敷地内は、まるで時が止まっているかのような空間でした」(吉田さん)と振り返ります。

皇族も訪れた「菊」の一大名所

明治期以降、旧港北区と周辺地域の中心部となった川和で街の発展に大きな役割を果たしてきた中山恒三郎家ですが、もっとも広く知れ渡っていたのは、江戸時代後期から行われてきた菊花の栽培でした。

大正時代の松林圃(しょうりんぽ)、観菊会の場には当時の著名人が多数訪れた(展示写真より)

明治期には宮内省(現・宮内庁)に菊を献上するまでになり、邸宅の敷地内には「松林圃(しょうりんぽ)」と名付けた庭園を設け、毎年秋には観菊会を開催。当時の皇族や政治家、文人、著名人が訪れた記録が多数残ります。

皇族が観菊に訪れた際、明治期の川和に適した宿泊場所がなかったことから、1890(明治23)年には同家敷地内に「書院・松林庵」が建てられ、現在も横浜市認定歴史的建造物として保存されています。

書院・松林庵の縁側からは美しい紅葉が眺められる

また、戦前までは旧港北区の名所として、庭園は子どもらの遠足場所にもなっていたと伝わります。

旧港北区域の歴史を伝え続ける

2015年以降、中山恒三郎家が所蔵していた数万点におよぶ膨大な古文書や品物類の資料は、ふるさと歴史財団が保管・調査の作業を実施。また、中山家では邸宅敷地内の再整備事業を開始します。

ふるさと歴史財団による古文書や品物類の整理・保存作業は現在も続いている

老朽化が進んでいた母屋や一部の蔵を解体する一方、皇族が泊まったといわれる「書院・松林庵」や、戦前は商店の本店として使われていた店蔵(市認定歴史的建造物)など5つの建物・旧事業設備などを補修して保存

かつて観菊会も開かれた邸宅敷地の一部は保育園として活用されている

2018(平成30)年には、古くから同家と縁のあった「川和保育園」(1942年創立)が同家敷地内へ移転を完了しました。

大手企業を早期退職して建物などの保存や公開に取り組んできた現当主(六代目)の中山さんは、「この場所は私が継いだことになってはいますが、先祖から一時的に預かっているものに過ぎません。次の世代になっても無理なく維持できる方法を考えていきたい」と話します。

見学者を案内する六代目当主の中山さん(右)

近い将来に風景が大きく変化することになる川和の街で歴史を伝え続ける重要な史跡としてはもちろん、古い風景がほとんど残されていない旧港北区域では、“区民の拠り所”といえる存在であり、次に公開された際には一度は尋ねてみたい場所です。

■ 旧港北区(港北・緑・都筑・青葉)の歴史

  • 1939(昭和14)年4月:当時の「神奈川区」から現在は港北・緑・都筑・青葉となっている4区区域と、現在は保土ケ谷区となっている上菅田町・新井町の区域を分区して「(旧)港北区」が発足
  • 1969(昭和44)年10月:人口増により現在の緑区と青葉区の区域を分区し「(旧)緑区」が発足、当初は川和に区役所が置かれ、その後に中山駅南口近くへ移転。なお、上菅田町・新井町は保土ヶ谷区へ編入
  • 1994(平成6)年11月:港北ニュータウンのまちびらき(旧港北区)や東急田園都市線沿線(旧緑区)の人口増により、旧港北区と旧緑区を4区に再編。新たに「都筑区」(港北ニュータウン、川和など)と「青葉区」(田園都市線沿線など)が発足し、現在の4区に分かれた

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【参考リンク】

川和町「中山松林甫(しょうりんぽ)」(歴史や概要、通常は非公開)

「都筑区川和町の中山家の観菊会」について(2017年4月発行、横浜開港資料館「開港のひろば」)

横浜市認定歴史的建造物「中山恒三郎家店蔵及び書院」の案内(横浜市都市整備局)


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