<樽町で初講演>綱島温泉碑、制作者は「綱島の左官」と「大豆戸町の石材店」

横浜日吉新聞

綱島温泉の石碑を制作したのは綱島など港北区の人でした。先月(2019年2月)15日に大綱橋至近の樽町2丁目に移設された「ラヂウム霊泉(温泉)湧出記念碑」は、移設前までは隠れて見えなかった記載内容新たに解読できたことで、石碑の制作者が綱島の左官と大豆戸町の石材店だったことが判明し、今月9日に樽町地域ケアプラザ(樽町1)で行われた講演会で発表されました。

2月15日に大綱橋至近の樽町2丁目に移設された「ラヂウム霊泉(温泉)湧出記念碑」

樽地区社会福祉協議会が主催した今回の講演会は、綱島温泉の研究家である横浜開港資料館(中区)調査研究員の吉田律人さんを招き、「綱島温泉の半世紀~ラジウム霊泉湧出記念碑を中心に」と題して行われたものです。

移設前は土に埋まって見えなかった裏面欄外の小さな文字を吉田さんが解読したところ、新たに判明したのは「綱島左官 小島喜三郎」「大豆戸町 石林刻(いしりんこく)」と彫られていたといいます。

石碑を移設したことにともない、「綱島左官 小島喜三郎」と「大豆戸町 石林刻(いしりんこく)」と刻まれていたことが新たに分かった(吉田さんの講演スライドより)

ここに書かれた名について、港北区の歴史を長年研究してきた大倉精神文化研究所(大倉山2)所長の平井誠二さんの協力で調べたところ、「綱島左官 小島喜三郎」は綱島で「ヤマキ」の屋号で左官業を営んでいた人の可能性が高く、「大豆戸町 石林刻」は、大豆戸町で1927(昭和2)年に創業した漆原石材店の先祖である漆原林蔵氏の名を示していることが分かったとのことです。

1933(昭和8)年3月に設置されたラヂウム霊泉(温泉)湧出記念碑は、「仙台石」と呼ばれる宮城県石巻産の石が使われていますが、碑の設置を主導した加藤順三氏(樽町の菓子商)や北綱島村(現綱島西)の名主(なぬし=村の長)である飯田家(飯田助太夫氏)をはじめ、碑の制作に携わっていたのも“近所の人”だったことになります。

今回の講演では、樽町の温泉街化についての項目も盛り込まれ、初期の温泉旅館である「琵琶圃(びわはた)」や「大綱館」が創業した頃は、東急東横線(東京横浜電鉄)の開通前で不便な地であったことや、琵琶圃の創業者である嶋村鐘(しょう)氏(樽町の嶋村公=ただし=県議の先祖)が大綱村(現在の綱島から南側の港北区一帯)の交通手段として、1918(大正7)年に乗合馬車の「神奈川自動車合名会社」を設立していたことなども紹介されました。

樽地区社会福祉協議会が開いた講演会「綱島温泉の半世紀~ラジウム霊泉湧出記念碑を中心に」には約50人が詰め掛けた

また、吉田さんが新たに調査した戦後の温泉旅館80館の一覧表も資料として配布され、綱島温泉がもっとも繁栄したとされる戦後の研究が徐々に進みつつあることを伺わせました。

綱島温泉の歴史をテーマとした講演会は、昨年3月に吉田さんが市内中心部にある横浜開港資料館で初めて行い、綱島の関係者を中心に多くの人が訪れていましたが、温泉の地元である樽町で開かれたのは初めて。そのためか、会場の樽町地域ケアプラザには約50人が詰め掛け、空席が見つけづらいほどの盛況ぶりを見せていました。

【関連記事】

大綱橋近くに「綱島温泉の石碑」が復活、樽町の町内会が奔走し、綱島の有志も協力(2019年2月18日、今回の移設も地元・樽町の事業者が担当)

<開港資料館>綱島温泉を発見したのは誰か、戦前までを振り返る研究を発表(2018年3月19日、吉田さんの講演内容)

【参考リンク】

綱島温泉の痕跡-ラヂウム霊泉湧出記念碑(2018年4月27日発行「開港のひろば」第140号、石碑設置の経緯など)

乗合馬車発着所跡について(つなしまピーチネット、「大正に入って嶋村鐘と池谷長十郎は、ここから東神奈川まで乗合馬車を走らせた」との記述も)

大正時代の綱島、池谷光朗家の画像Ⅱ~東横線開通前の綱島の情景(とうよこ沿線、綱島東の入船旅館前に設けられた「大正11年、乗合馬車の発着所」の写真も)


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