<コラム>引き裂かれた日吉村、次に来たのは大迷惑な日本海軍とアメリカ軍

横浜日吉新聞
ひよしコラム

ひよしコラム横浜と呼ぶには違和感があり、川崎であるとも言えない複雑な感情をきっかけにひも解き始めた日吉の歴史。今から80年ほど昔に日吉村が大都市の横浜市と川崎市に引き裂かれ、それぞれの大都市に“吸収合併”されてしまったことを前回書きましたが、横浜と川崎、東京の3大都市にいずれも近いという地勢は、交通の利便性が高いというメリットがある一方で、分割騒動のような騒動が起こりました。そして、日吉の歴史上でもっとも“最悪”な状況を招いてしまったのが第二次世界大戦(太平洋戦争)です。

日吉村の分断から4年半後、日本では1941(昭和16)年12月のハワイ真珠湾攻撃を機に太平洋戦争が始まります。当初は優位に進めていた日本軍ですが、次第に圧倒的な戦力を持つ米軍を前に敗北を重ねつつありました。

特に海軍(帝国海軍)は1942(昭和17)年のミッドウェー海戦(ハワイ諸島)とガダルカナル攻防(ソロモン諸島)で、山本五十六(いそろく)海軍大将が戦死するなど手痛い敗北を喫し、続く1944(昭和19)年のマリアナ諸島(グアム・サイパン・テニアン島など)における戦いでは多くの主力空母を失うだけでなく、米軍に日本本土へ空襲を行ったり、広島や長崎へ原爆を投下したりするための出撃拠点を与えることになってしまいます。

日本本土に米軍による空襲が迫るなか、海軍は東京霞が関からの移転先を模索しており、その場所として狙いを付けられたのが日吉でした。敗色が濃厚となりつつあった1944(昭和19)年2月のことです。

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「交通の便がよかった」日吉に帝国海軍が集結

日吉キャンパス内にある「第一校舎」が慶應高校のメイン校舎となっている

日吉キャンパス内にある「第一校舎」は慶應高校のメイン校舎となっている

日吉が選ばれたのは、慶應義塾大学の存在があります。文部省からは空き校舎を国に貸すようにとの指示も出ていました。1934(昭和9)年に開設された日吉キャンパスには、この頃すでに、第1校舎(現在は慶應高校が使用)や第2校舎(現存)といった鉄筋コンクリート製の屈強な校舎が建てられていたのです。

強い建物と、地下壕(ごう)を掘るための広大な敷地があり、かつ無線の送受信に適した高台に位置しているとの条件が好まれ、まずは海軍の作戦指揮を統括する軍令部がやってきます。

これに続き、日吉へやってきたのが海軍「連合艦隊」の司令部です。艦隊ですから本来は司令用の戦艦から指揮を執(と)るのが通常なのですが、すでに戦艦の多くが撃沈されていて、そんな余裕さえなかったためと言われています。

連合艦隊が司令部を置く候補としては、大倉山の高台にある精神文化研究所や町田市の「玉川学園」なども挙げられていたようですが、最終的に日吉が選ばれてしまいます。

その背景には、

日吉は東京・霞ヶ関と横須賀軍港の中間にあるので交通の便が良い

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箕輪3丁目から見た「夕日山」(日吉の丘公園)。終戦間際に無数の地下壕が掘られた

との理由があったといいます。またしても日吉の利便性がマイナスに動いた瞬間です。

その後も続々と海軍関連の部署が慶應大学に集結してきます。大学内だけでなく、日吉台小学校(当時は日吉台国民学校との名)でも、子どもたちが疎開したのをいいことに、海軍省の功績調査部という部署に使われることになりました。

“招かれざる客”が大量に来てしまった日吉の街は、これ以降、日本軍と米軍という二つの巨大な“迷惑組織”に蹂躙(じゅうりん)され続けることになってしまいます。

米軍へ最後の抵抗を試み、慶應と箕輪に巨大地下壕

2006年に刊行された「フィールドワーク 日吉・帝国海軍大地下壕」(白井厚監修、日吉台地下壕保存の会編集、648円)は戦時下の日吉の歴史を知るには格好の一冊で、今もアマゾンなどで手に入る。本稿も本書の内容に大きく頼っている

2006年に刊行された「フィールドワーク 日吉・帝国海軍大地下壕」(白井厚監修、日吉台地下壕保存の会編集、648円)は戦時下の日吉の歴史を知るには格好の一冊で、今もアマゾンなどで手に入れることができる。本稿も本書の内容に大きく頼った

日吉へ来た日本海軍は、直ちに「日吉地下壕」を掘ることに着手します。攻撃を避けるための地下本部を築き、米軍との本土決戦に備えるとの計画でしたが、日吉の住民にしてはきわめて迷惑な話だったことでしょう。

地下壕は1944(昭和19)年7月に慶應大学日吉キャンパスの第1校舎付近から掘り始め、その奥地にある「マムシ谷」と呼ばれる山の中なども含め、総延長2.6kmにのぼる巨大地下壕が設けられました

さらに、敗戦の年である1945(昭和20)年に入ると、今度は箕輪町と日吉本町の間にある「夕日山」(現在「日吉の丘公園」がある山)にも総延長2キロ以上にのぼる地下壕建設を始めます。工事に邪魔だとの理由から付近の家が強制的に移転させられたといいます。にもかかわらず、この巨大地下壕は、完成翌日に敗戦を迎えたため何の役にも立たず終わりました

「時々食料を求めて地下壕掘削の労働者が民家を訪ねてくることもあり、彼らは北海道や東北の出身者、あるいは朝鮮の人が多かったといわれる。落盤事故による死者もいたと伝わるが、正確な記録はない」(三田評論2011年4月号「慶應義塾史跡めぐり第56回」都倉武之著=本稿全文はインターネット上で公開されており、地下壕の場所を示した詳細地図を見ることができる)

米国との“最後の一戦”に備え、海軍が労働者を酷使して日吉の地下にひたすら穴を掘り続ける一方、米軍は日本から奪ったマリアナ諸島(グアム・サイパン・テニアン島など)から爆撃機を飛ばし、日本各地に爆弾の雨を降らせ、住民に大きな被害を与えていました

米軍の爆撃で校舎を焼かれた慶應大学と日吉台小

慶應義塾の「塾」2016年冬号の特集「戦中、戦後の義塾をめぐって」に掲載されていた戦中の日吉キャンパスで軍事教練を行われる姿をとらえた写真(同特集の全文はPDFで見ることができる)

慶應義塾の季刊冊子「塾」2016年冬号の特集「戦中、戦後の義塾をめぐって」より、戦中の日吉キャンパスで軍事教練が行われる姿をとらえた写真(同特集の全文はPDFで見ることができる

昭和19年末に綱島や樽町が初めて空襲を受け、翌年の昭和20年4月には日吉や綱島を含めた一帯で攻撃が始まります

4月2日の深夜、米軍の大型爆撃機「B29」240機による川崎と横浜の工業地帯を中心とした爆撃が行われ、日吉宮前地区(日吉町の熊野神社がある付近)と箕輪町の約50戸が焼かれ、日吉だけで10人以上の死者を出したと言われています。

続く4月15日の夜には「B29」300機が東京南部や川崎、鶴見などへ大量の爆弾と焼夷(しょうい)弾をまき散らします。日吉では駅前一帯が集中的に狙われ、日吉台小学校が焼失し、慶應大学の工学部(当時は藤原工業大学)の木造校舎の80%が失われるなど、まさに「日吉大空襲」といえるほどの被害を受けました。

これは「川崎大空襲」と呼ばれる大攻撃の一部として日吉が狙われたもので、「横浜大空襲」(5月29日)が行われる1カ月以上前のことでした。

この空襲については、日吉台小学校(当時は日吉台国民学校)の職員だった石川ハナさんによる生々しい文章が残っています。

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15日の晩は警報が鳴ると、日吉町の裏山の防空壕へ逃げ込みました。誰一人声も出せず、しんとした真暗な中でどこかのおばあさんのよみ上げる般若経だか観音経だかの声がちぎれそうにひびいて、この世の終わりかと思う惨状です。ズドーンと爆弾の落ちる音。(略)

しばらく爆音が遠のいて、外に出た男の人の、もう大丈夫という声に、ああ助かったのだと我に返った途端、学校はどうかしらと、いつもの近道を夢中で走って校門までかけつけてみますと、校舎は影も形もなく、運動場には赤く焼けた焼夷(しょうい)弾が雨後の筍(たけのこ)のように立って、厚いコンクリートの土台だけが残っています。

(1973年「日吉台小学校百周年記念誌」、文意を損なわない形で句点とふりがなを追加した)

(※この文章を残した石川ハナさんは、「とうよこ沿線」によると、日吉駅前浜銀通りで「石川薬局」を経営しながら、日吉台小の教員と横浜市会議員もやっていたといいます。詳細はこちら

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当時の日吉台小学校は、横浜市へ合併したことによる“恩恵”なのか、日本一とさえ呼ばれた立派な木造校舎が建てられていたというのに、一瞬のうちに灰となってしまいました。日吉キャンパス内に工業大学を作ったばかりの慶應も甚大な被害を受けています。

この空襲については、海軍がいたから日吉のなかでも慶應大学と日吉台小学校が狙われた、という指摘が今も根強く残っています。諸説があるものの、古くからの日吉住民には海軍の存在が米軍の攻撃をひき寄せたとの考え方が一般的です。

慶應と岡本工場の接収想定、あえて攻撃を控える

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慶應義塾大学による日吉キャンパスの歴史と題した特設ページには、米軍接収当時の「第二校舎」の貴重な写真が掲載されている

この一連の日吉空襲では、なぜか日吉キャンパス内でも第1校舎や第2校舎は狙われておらず、箕輪町にあった岡本工作機械製作所(アピタ日吉店などがある場所)の軍需工場も、ほとんど被害は出ませんでした。その理由は、1945(昭和20)年8月15日の敗戦後に明らかになります。

敗戦から1カ月も経たない9月7日に、即座に米軍が日吉キャンパスへやってきたのです。

「九月七日、海軍からの校舎引き渡しを準備していた義塾に無情にも突きつけられたのは、米軍からの接収通告で、キャンパス全体が翌日から四年先まで戻ってこなかった。寄宿舎(現在の日吉寄宿舎)はさらに荒らされ、ローマ風呂は浴槽を埋め立ててバーラウンジに変貌(へんぼう)した。数か所の地下壕入口は爆破され、壕内に残された什器や鉄製品は付近の住民が残らず持ち去った」(三田評論2011年4月号「慶應義塾史跡めぐり第56回」都倉武之著)

勝利を確信していた米軍は、占領後に自ら使うことを想定していたために、慶應と日吉台小の木造校舎だけを攻撃して海軍や住民に恐怖感を与え、コンクリート製で利用価値の高い第1・第2校舎にはあえて攻撃を行わず“温存”していたとの疑いが濃厚です。

被害を与えなかった岡本工作機械製作所の工場にも米軍はすぐにやってきて、9月9日から「ウイレイ・B・ブルークス兵舎」という名に変えられ1957(昭和32)年3月22日まで、12年近くにわたって、アメリカ軍兵士の宿舎として接収されてしまいました。これも米軍の予定通りだったのでしょう。

「日吉は米兵を相手にする女性が街角に立つなど風紀も治安も悪化、すさんだ風景をさらすこととなった」(同上)。

街中に穴を掘りまくったうえに空襲まで招いた日本海軍。そんな迷惑な存在がようやくいなくなったと思ったら、今度はアメリカ軍が駐留して土地を荒らす……。昭和10年ごろから20年までの10年間、横浜市と川崎市を手始めに、日吉はことごとく大きな組織に翻弄され続けてしまったことになり、不幸としか言いようがありません。

戦災で自分の家が消え、台小はあまりに惨めな姿

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1947(昭和22)年に横浜市が作成した日吉台の地図、米軍に焼かれた日吉台国民学校(左側)や藤原工業大学(右上の日吉キャンパス内)の記載が見える

日吉に欠かせない存在であった慶應大学と岡本工作機械製作所が米軍に奪われたうえ、住民は焦土のなかから新しい街づくりを始めなければなりませんでした

終戦時の思いについては、箕輪町の農家・小嶋英佑(えいすけ)さんが下記のような一文を書き残しています。小嶋さんは、日吉周辺に数多く見られる「小島」や「小嶋」姓のルーツや街の歴史を長年調べ続け、1997年に自ら著書を出版しています。

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昭和二〇年九月三〇日、敗戦を迎えて私が復員した時、懐かしい我が家は戦災によって全焼し、悉(ことごと)く灰燼(はいじん)に帰していた。戦後の苦しい生活の中で、何かに急かされるように、過去帳の作り直しにかかった。(略)

これに没頭することが、「滅私奉公(めっしほうこう)」と死を覚悟で出征したものの敗戦に生きて還(かえ)り、戦死者への申し訳無さと、家も焼かれて虚脱状態になっていた私の心の無上の支えとなってくれたのである。

(1997年「箕輪のあゆみ」小嶋英佑著)

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この時期、米軍駐留下の焦土と化した日吉で立ち上がった多くの大人は、まさに虚脱状態のなかから生き抜いてきたのでしょう。小嶋さん(1925年=大正14年生まれ)と同時代の住民には、こうした声が多く残されています。

そして、子どもたちにとっても環境は厳しいものがありました。横浜・日吉で唯一の存在だった日吉台小学校が米軍による爆弾で焼失していました。終戦直後に赴任した教師が次のような文章を書き残しています。

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2015年現在の日吉台小学校

日吉台小は、わたくしが教員になり最初に勤務した学校で、五年間在任して、白幡小に転任、三年半後に再び故郷の思いがする日吉台小に戻ってきた。それは昭和二〇年、つまり終戦の年の九月三〇日であった。「日吉台国民学校訓導ヲ命ズ」の辞令を持って日吉駅に降りたが、何処(どこ)にあるか分からず戸惑った。校舎が戦災で焼かれ、学校には焼け跡だけで何もなく、校長先生のいる職員室といおうか、学校の本部に当たる所を捜さなければならなかった。

暫(しばら)くのことで見つけた本部は、矢上の公会堂の一室であった。飯田校長先生に赴任のあいさつを終え、一休みしたものの、あまりにもみじめな学校の様子を知り、張りつめた気持ちもゆるみ、何をしてよいのかわからず、暫く放心状態であったことを覚えている。

(1973年「日吉台小学校百周年記念誌」、中野正雄さんによる「終戦直後の日吉台小学校」より)

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日本中が焼け野原からのスタートだったとはいえ、日吉の場合は巨大都市の狭間に存在したがゆえに、招いてもいない組織がやってきて、被害が増大してしまったともいえます。

戦後の日吉は、その利便性を強みに大きく発展していくことになるのですが、合併騒動から戦中戦後の日吉の歴史をひも解けなひも解くほど、横浜とも川崎とも言いたくはないし、一つの街としてそっとしておいてほしい――、そんな思いばかりが募ってきました。

※日吉の空襲被害については、横浜の空襲を記録する会による書籍「伝えたい街が燃えた日々を」(2012年、手塚尚編集)を参照しました。

【関連記事】
<コラム>自らの利益のため「日吉村」を引き裂いた大都市横浜と川崎の罪(2016年1月3日)

【参考リンク】

三田評論2011年4月号「慶應義塾史跡めぐり第56回」(都倉武之著)

慶應義塾大学日吉キャンパスの歴史


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