【講演レポート】綱島温泉が始まったのは樽町だったのに、戦後に温泉旅館街が発展しなかったのはなぜなのか――。温泉街の歴史を振り返りつつ、新たな調査によってそんな疑問を解き明かす講演となりました。
今月(2022年)3月11日、「港北地域学」の第4回講座「東京大空襲と綱島温泉」が港北区役所内で開かれ、横浜都市発展記念館の吉田律人さん(日本近現代史研究者)が講演し、1945(昭和20)年3月の東京大空襲が綱島温泉に与えた大きな影響を分析しました。
前回に続き「まん延防止措置」の期間が延長されたため、今回も無観客で映像収録のみを行い、参加申込者には後日映像が公開される予定となっています。
新型コロナウイルス禍により、当日聴講を予定していた全員が参加できないことになったため、講座の要旨と資料の概要を以下に紹介します。
港北地域学講座「東京大空襲と綱島温泉」の講演要旨
(※)当日の資料から引用した当時の新聞記事などは適宜「改行」を加えた。引用のうち「飯田日記」とは、綱島の名士として知られる飯田助夫氏(1878<明治11>年~1961<昭和36>年、衆院議員、神奈川県議会議員、大綱村長、飯田家12代当主)が残した日記で、「飯田助夫日記」とも呼ばれる貴重な郷土史料
本日の講演では、1945(昭和20)年3月10日に発生した「東京大空襲」と綱島温泉は関係があった、という内容を述べていきたい。
現在の綱島を見ると、かつて温泉地であった痕跡が急速に失われており、樽町にある“ラジウム温泉碑”が綱島温泉を示すほぼ唯一のものとなりつつある。
まず、1928(昭和3)年、栗原清一によって書かれた「横浜の史蹟と名勝」(横浜市郷土史研究会)にある「桃の名所綱島温泉」から、昭和初期の綱島温泉の様子を振り返ってみたい。
■栗原清一「横浜の史蹟と名勝」(桃の名所綱島温泉)
(横浜市郷土史研究会、1928<昭和3>年、82頁)
横浜駅から金弐拾(20)銭を奮発して東京横浜電車(現東急東横線)に乗れば、僅か十五分で綱嶋(原文ママ)温泉に連れて行つてくれる。
綱嶋の地は聞ゆる桃の名所、期節(季節)になれば広野見渡す限り桃の花毛壇、其の間を点々と黄色い菜の花が彩って居るさまを駅附近の高台諏訪の森から眺める光景は、中々筆紙に尽しがたいものである。此(こ)の桃樹は明治廿七八(27~28)年頃から栽培して年々四万箱以上も産出するといふことである。
此の地は昭和二年から横浜市に仲間入りするやうになり、ラヂウム鉱泉地として名高く、大小の温泉宿は日々幾十組かの客人に其(そ)の手厚きもてなしを喜ばれてゐ(い)る。
さして高いといふ程ではないが、附近の連山重峰が延々と其所此所(そこここ)に起伏しているさまは、一幅の絵の様、家族連れで一日の行楽には絶好の地であり、確かに新横浜の一名所とする価値のある所である。
この栗原氏の文章を要約すると、東京の奥座敷であり、桃や菜の花など自然の植物園のようにも感じるということで、これが戦前の綱島のイメージだった。
昭和10年頃は3エリアに44の旅館
1935(昭和10)年頃の綱島温泉を描いた地図には、以下のように44軒の旅館が記載されている。
- 樽町エリア(大綱橋南側):孔雀荘/琵琶圃(びわはた)/長楽/大綱館/静香園/楽園/永命館/可祝/綱島園/松島園/中丸園/鳴子園/末広(計13施設)
- 綱島東エリア(現新綱島駅付近など):来楽/桃月庵/春日家/静岡家/へちま/文化温泉/入船/電鉄直営浴場(計8施設)
- 綱島西エリア(現イトーヨーカドー付近):熱海園/旭家/興花園/弥生/里の家/辰芳/田中家/東京園/桃花園別館/桔梗/甲子園/嬉野/梅島/しょ福/綱島ホテル/桃花園/水明楼/大和/綱島荘/福住/桃山/常盤/洗心楼(計23施設)
綱島温泉は「樽」「綱島東」「綱島西」と発展していき、大きくは3つの地域に分けられるが、1935(昭和10)年頃の綱島温泉で最大となっているエリアは綱島西だった。
温泉旅館の歴史は「樽」地域から始まったのだが、戦後1960(昭和35)年の「職業別電話番号簿」から綱島温泉の旅館80軒をまとめてみると、樽町にはわずか5軒、大曽根・太尾を含めても計13軒しか載っていない。
樽地域から始まった温泉旅館がなぜ戦後に減っているのか、ずっと謎だった。今日はこの謎を解き明かしていく。
石碑に刻んで残した温泉の歴史
最初に綱島温泉の歴史を振り返ってみたい。「港北区史」(1986年刊)では温泉の始まりは“大正前期”とぼんやりとしか書かれていないが、その根拠となっているのが現在も樽町にある「ラヂウム霊泉湧出記念碑」である。
碑の裏面には、ラジウム鉱泉がいつできたのか、誰がこれを調査したのかといった情報が書かれている。
ここには、鉱泉を検査したのは「東京衛生試験所」で大正3年7月31日に検定し8月8日に分析したとあり、ラジウム鉱泉の発見時期が「1914(大正3)年」ということがわかる。
この石碑は1933(昭和8)年に建てられたものだが、現在の神奈川新聞の前身にあたる「横浜貿易新報」の政治部長だった記者が石碑の建立と同時に綱島を訪れて取材し、下記のような記事を残している。
■「桃と桜と湯の町 綱島を訪ふ記」(横浜貿易新報1933<昭和8>年4月14日)
綱島にゆく間に、飯田氏からラヂーム温泉発見の話を聞く―これが発見される、きのう迄、煙と草に埋もれ閑寂幽朴(かんじゃくゆうぼく=ひっそりと人里離れた)の地であった綱島は、一度発見されるや玉楼金台(ぎょくろうきんだい=金で飾った美しい御殿)にも似た温泉旅館は、ホテルなど連延として建てつづき、蓮の中の虫の声もあでやかな絃歌(三味線の歌)のさざめきに変わった。
この動機は大正三年、内務省衛生試験所で此地の温泉用水にラジームが含有し、全国三位と折紙を付けられているからだ。現在、樽町となってゐ(い)る綱島の加藤順三氏が此の分析出願をしたものであるが、飯田氏亡父助太夫氏が本県天水採氷組合長をしてゐる頃、県の多田技師(当時技手)が検査一官として出張した折も此井戸水にラジームを含んでゐたのであった。
そこで小島孝次郎氏が奉仕的に温浴室を建てた所、効能があるといふので、近年東京方面より湯治客が押しかけ、最初入船と永命館だけだったが、今日四五十軒に増す発展となった。
この1933(昭和8)年4月の記事には、石碑建立の裏話や綱島がどういう形で発展してきたのかということが詳しく書かれている。記事内にある小島孝次郎氏は、樽町の温泉旅館「永命館」をつくった人物である。
記事にあるように、温泉街化は大正期に樽町から始まり、「永命館」の近くには「琵琶圃(びわはた)」や「大綱館」などの旅館ができてくる。
ただ、当時は交通の便が悪く、温泉旅館街の主(あるじ)たちがその改善を考え、実行したのが琵琶圃の経営者だった嶋村鐘(しょう)という人物だった。
嶋村家は1918(大正7)年にバス会社「神奈川自動車合名会社」を創業し、「東神奈川~篠原仲手原~菊名~樽」「東神奈川~都田村川和」の路線を開業したが、それでも輸送に限界はあり、温泉旅館街がすぐに発展したわけではなかった。温泉が賑わうには、1923(大正12)年の「関東大震災」が終わった後くらいまで時間を要した。
大震災後に「郊外重視」の風潮に乗る
綱島温泉が大きく変わるきっかけとなったのは、1926(大正15)年の「東京横浜電鉄(現「東急東横線」)」の開業だった。当時の記事を次に紹介したい。
■「おらが村にも電車が敷けた」(「横浜毎朝新報」1926<大正15>年2月15日)
鶴見川を越したすぐの停車場綱島温泉は中枢であるだけに村の青年団軍人団などが野外に盛宴を張って祝ってゐ(い)た。
こゝ(こ)は遊園地の計画あり労々田園都市の目ろみもあつて田園都市会社(現東急系列)が広汎に渉(わた)つて土地を買占めてゐる風光のいゝ(い)ところだ。
この記事からは、関東大震災後に郊外へ居住地を移す風潮のなかで、これから都市開発が行われることが予見される。
温泉街もこうした風潮に乗っかっていった。鉄道開業後すぐの1926(大正15)年4月3日に「横浜貿易新報」で掲載された当時の化粧品会社の広告には、綱島に客を誘致するキャンペーンを行っている様子も見られる。4月は花の時期で綱島の観光シーズンだった。
広告に掲載されていた旅館は「入船亭、永命館、琵琶圃、楽園、大綱館」で、この時にはまだ樽町を中心としたこれだけの旅館しかなかったことになる。
その後、東京横浜電鉄も温泉街の開発に乗り出して、1927(昭和2)年には綱島東に直営の温泉浴場を開業し、ここから綱島東口エリアにも旅館街が形成されていった。
当時、綱島温泉を訪れた人の記録として、次の1931(昭和6)年の旅行記を紹介したい。
■ 江副浦郎「綱島温泉吟行記(一)」(「筑波」第40号、1931<昭和6>年6月)
綱島に着いて駅長某氏に吾々(われわれ)の宿を尋ねる。駅前の桃仙閣とのことで、禾刀氏先立って、何等の逡巡もなく進行、あとに四人がぞろぞろとつゞ(づ)く。
半丁も歩まぬ内に早や桃仙閣だ。電車区間が三十分、徒歩が半丁、是(これ)では途上吟も矚目(しょくもく=目に触れたものを吟じる)感も起るべきチャンスに乏しい。
此処(ここ)は東横指定の旅館で、門の入口左方には直営の共同湯や児童園がある。玄関までの間には躑躅(つつじ)と八重桜、右には牡丹が見事に咲いてゐる。
(中略)漸(ようや)く湯が沸きました、との知らせに盗難除けの禁厭(きんよう=まじない)と云ふ意識的の理由からでもなかったが、半舷(半数ずつ)交替式で階下の湯殿に行く。三助の話にはラヂウム含有日本一の折紙付きとの事あれど、何だか自分の体躯をソース漬けにする心持ちである。幾分の甘味があると云ふが嘗めても見なかった。黒褐色の冷鉱泉を沸かすのださうな。
この旅行記では、宿泊したのが“東横指定の旅館”で、門の左には直営の共同湯や児童園があると書かれている。当時の直営共同浴場のパンフレットとつき合わせると、旅行記と同じように児童園があることがわかる。
また、綱島温泉は普通の無色透明の温泉と違って「黒湯」となっていたが、この旅行記にも“身体をソースに漬けたようだ”とある。また、定休日は月に1回、毎月30日だけとなっており、非常に繁盛していたようだ。
別の旅行記には、「入浴料10銭という廉価で1日温泉気分に浸れる」や「別棟の料亭に入って一献」と書かれており、今でいう“スーパー銭湯”という感じの施設だった。“桃などの花を見て、温泉に入って楽しむ”ということが書かれており、まさに冒頭で紹介した栗原氏の文章「横浜の史蹟と名勝」のイメージといえる。
最後に発展した西口では大型旅館化
ここまで「樽町」と「綱島東口」の温泉街を見てきたが、のちに最大となった「西口」はどうだったのか。
先ほどの新聞記事、「おらが村にも電車が敷けた」(横浜毎朝新報1926年2月15日)に“田園都市株式会社が土地を買占めて”といった内容が書いてあるが、このエリアは、現在でいう東急系列の会社が地主の人から土地を買って区画整理し、町を作っていくことを実戦している場所だった。
上に示した写真のように1930(昭和5)年前後になると西口に温泉街ができてくる。樽町や綱島東口は小規模な旅館が多かったが、西口では旅館「水明楼」の絵葉書を見ても分かるが、大規模な旅館が相次いで登場した。旅館の大規模化は、区画整理によって大規模な土地が存在したことが背景にある。
なかでも二大旅館と言われていたのが、「水明楼」と「梅島館」だった。梅島館を紹介した1936(昭和11)年の記事を以下に転載する。
■「綱島温泉トピック 魅力の宿 梅島館」(「市政春秋」第18号、1936<昭和11>年10月)
忘れられぬ家
桃の里、湯の町としての「つなしま」は、その名次第にひろまって、今や関八州に於ける大きな存在となりつゝ(つ)ある。鶴見川の片ほとり、蜿蜒(えんえん)数里に連る桃畑に囲まれて、仮寝の床あたたかい湯の宿が四十数軒、その装備を誇り気に軒をつらねてゐ(い)る。
その数ある宿の中で、一度でもその門をくぐった者に、忘られぬ思ひ出を残すのは、西口側にその名も高い梅島館である。
旧館、新館、別館と数十の室があり、設備の完全さは言ふまでもないが、とりわけ客扱ひのまことに行届いた親切さと実費以上は決して請求せぬ、まじめさとから、来た客のどんな人にも、安心と親しみを覚えさせ、「梅島の一夜」が遂に忘れられぬものとなって、再びこの門をくぐらせるに至るのである。
梅島の客の大部分は二度三度と馴染を重ねた人々であるといふことが、この点を雄弁に證拠(しょうこ)立てゝ(て)いる。
誰しもが、綱島と言へばすぐ梅島と一口に決めてしまふ程の魅力が、そこから生まれてゐる。これ程の信用と魅力とはそも何処から生まれたのであらう?梅島館の今日ある実に先代打越うめ女の努力の結晶に外ならない。
先代の努力
打越うめ女は茨城県水戸の産、幼くして実父母に別れ、養家逆境の中に人となり、妙齢の頃東京に出で、吉原に小料理を始め、長年に亘る粒々辛苦(りゅうりゅうしんく)の努力は遂に報いられて産をなし、綱島の将来に着眼して、初めて温泉旅館梅島館を開いたのが昭和五年二月九日であった。
その頃は未だ綱島に旅館らしきものは僅に数軒、殊に西口側には只一軒あるに過ぎなかった。爾来(じらい)経営に全力を傾倒、着々功を収め、翌年新館を八年別館を増築、物見遊山一つせず、只管(ひたすら)商売大事に精進努力し、遂に僅か数年にして今日の繁栄と信用を築き上げたのである。
40数軒の旅館があるなかで、“一度訪れると忘れられない、非常に有名”となっているのが「梅島館」だと書かれており、新館を作って別館を作ってと急速に発展していったことが分かる。
梅島館をつくったのは、「打越うめ」さんという茨城県出身の女性であり、苦労しながら先見性を見て綱島へやってきた。5年ほどの間に拡大しており、綱島温泉が急速に発展していった一端が見てとれる。
綱島には地元の人だけでなく、梅島館のように新しく旅館を経営しようという人がやってきた。また、東京横浜電鉄もさらに資本を投下していった。
1933(昭和8)年には、これまで東口にしかなかった改札口を西口にも新設し、1934(昭和9)年には樽町に「菖蒲(しょうぶ)園」を開園する。同年から夏には温泉組合や飯田家とともに花火大会も行うなど、一年間を通して綱島への観光客誘致を図った。
ネオン街に芸者組合、綱島の光と影
このように東京横浜電鉄も温泉組合も「健全な温泉観光地」を目指していたのだが、そうはならず、別の側面も見えるようになった。
当時の様子を伝える1934(昭和9)年の新聞記事には、以下のように書かれている。
■「発展する綱島に消防施設を設けんとするの案」(「横浜貿易新報」1934<昭和9>年9月3日)
神奈川区綱島町(※当時=港北区の分離独立は1939<昭和14>年)が温泉地として異常な発展振りには全く驚かされてゐ(い)る。
既に旅館の大建物が櫛比(しっぴ=隙間なく並び)し其(その)間には住宅街もネオン街も軒を並べてゐる。
草葉消防署長は近く綱島温泉の有力者と膝を突き合わせ隔意ない意見の交換をした上適当な消防施設をしたいと言ってゐ(い)る。殊に日吉台の発展に対しても至急消防署の必要を痛感されてゐる訳である。
(※)記事中にある綱島の消防出張所はその後、9年近く経った1943<昭和18>年5月に落成している
記事を見ると、この頃には“大きな旅館もでき、ネオンの街もできている”とある、つまり温泉街だけでなく「歓楽街」も形成されていた。同時に芸妓(げいぎ)組合もでき、芸者遊びをする温泉客も増えてきた。
「市政春秋」に出ていた「綱島温泉芸妓組合」の広告には20近くの「置屋」が載っており、最盛期には200人くらいの芸者がいたと言われている。
また、綱島温泉が“夜の街”化していく背景には、旅館の建物の構造にもあった。
一つの例として、「市政春秋」に掲載されていた旅館「興花園(こうかえん)」の広告を見ると、「離れ部屋」があり、各浴室にシャワーの設備があると書かれている。
いわば、「離れ」が男女密会の場になっていく。この時代は心中事件も多発した。綱島の光と影で言えば、影の部分といえる。ただ、こうしたことも原動力となって綱島温泉が発展してきた面もあった。
“宝塚化”の一大構想も、戦争に突入
一方、旅館経営者らの間には“花と温泉だけでは人が来ない、何とか変えていかなければ”という意識が出てきた。1935(昭和10)年ごろに温泉組合では「綱島を宝塚のように一大エンタテインメントの地にしていこう」といった構想も打ち出している。
この構想は、東京横浜電鉄とともに、綱島だけでなく日吉や樽、大曽根にいたるエリアで遊園地や運動場、劇場などを整備していく大規模なものだった。
しかし、1937(昭和12)年に日中戦争が始まり、1938(昭和13)年6月30日には鶴見川の大洪水に見舞われ、温泉街は大打撃を受けることになった。
さらに1943(昭和17)年ごろからは戦争が悪化して食料や燃料が不足。旅館では酒を出せず、黒湯を沸かすための石炭も不自由な状態となり、さらに追い打ちをかけるように、従業員が兵隊にとられていくことになった。
戦局悪化で温泉旅館の灯が消える
戦時体制に入りつつあった綱島温泉の様子を伝える1941(昭和16)年と1943(昭和18)年の記事を以下に紹介する。
■ 「享楽客閉め出し」(「横浜貿易新報」1941<昭和16>年8月7日)
綱島温泉、観光地綱島が遊客本位の歓楽境としての伝統をかなぐり棄て健全保養地、工業都市の住宅地として敢然新秩序を打ち樹てる――
港都横浜を控え帝都と一葦帯水(いちいたいすい=隔たりが狭い)の綱島は便利な温泉地としてまた有名な桃の名所として逐年異常の発展を遂げて来たが、交通至便の足場の良さから次第に都人士の享楽場と化し綱島温泉といふ名称にさへ何かしら不健全なものを感じさせるといふ状態にあったが、聖戦三周年の昨年あたりから綱島旅館業者団に時局即応の新秩序樹立の声が暫次さかんとなり(中略)終に芸妓組合とは完全に絶縁、湯治客や所謂連れ込みは断然謝絶といふ思い切つた改革を実行したのである。
斯くして綱島の全旅館挙げて純然たる下宿旅館へ転向しつゝ(つ)あり、真の湯治客の増加と共に時局に歩調を揃へ力強い転換の足歩を踏み出すに至つた。
■ 「綱島温泉も悲鳴」(「横浜貿易新報」1943<昭和18>年2月21日)
『桃の綱島』として昔は知られてゐ(い)た健康地帯だけにアパート等は産業戦士の宿舎が考慮されてゐる、右に関し一業者は語る。
綱島温泉であつたこの街も昔の綱島へ還ることになりそうです。酒がなければ芸妓を呼ぶお客さんもありません。料理なして飛んでもない話で家族や従業員等の喰ふだけが、やつとです。綱島温泉と言っても石炭が御存知の通りで仮りにあつたとしても運搬が出来ず、温泉を沸かすのさへ不自由勝(がち)です。大体こんな商売は早く廃めて何とかもう少し肩身のひろい商売へ転向したいです
1943(昭和18)年になると、夏から秋にかけて、温泉旅館を工場や企業が買収するという話が多数出てくる。同年10月になると一斉に温泉旅館を廃業し、工場で働く人の寄宿舎になっていった。
翌1944(昭和19)年には駅名も「綱島温泉」から「綱島」に変わった。戦時体制によって温泉旅館街の灯が消えていった。
「クリスマス空襲」を受けた温泉旅館
第二次世界大戦の戦況は、1944(昭和19)年になると日本は南方諸島を米軍に奪われ、戦略爆撃機「B29」が南方諸島から日本に爆撃を加えて戻れるようになった。
そのため、1944(昭和19)年末から日本本土への戦略爆撃が一気に進んできて、12月25日のクリスマスに綱島温泉が初めて空襲を受けた。
この時は2機の「B29」が綱島や樽の上空にやってきて、焼夷弾218発を落としていった。空襲を受けたのは綱島で最初の旅館「入船亭」(現在、新綱島駅の28階建て再開発ビルが建てられている付近)で火災が起きている。
当時の「飯田日記」には下記のように書かれている。
■「飯田助夫日記」(1944<昭和19>年12月25日)
今晩二時半空襲アリ。綱島方面焼夷弾投下、入船料理店ヲ中心ニ桐谷電気店、蒲団店、桶(おけ)屋、万(よろず)屋等罹災(りさい)其ノ内電気蒲団両店火災焼失ス
また、この時は神奈川県における初の夜間攻撃だったこともあり、新聞にも状況が大きく報じられた。
次の朝日新聞の記事には「入船亭」の主人だった池谷(いけたに)昇さん家族のことが詳しく書かれている。
■「親子四人が協力 見事に叩き消す 十歳の有璽君も活躍」(「朝日新聞」1944<昭和19>年12月26日)
被爆地域では落下した十三発の焼夷弾を親子四人で獅子奮迅の活躍により初期防火の功を奏して見事に消し止めた。
この殊勲者は旅館入船亭こと池谷昇(五三)、妻のぶさん(四六)、可君(一八)、有璽君(一〇)の親子四人での大殊勲が附近の絶賛を浴びると同時に初期防火に努めれば焼夷弾は大したものではないことを教へてゐ(い)る。
同家へは本館へ九発、別館の庭へ四発落下し一面火の海となったが防空服装に身を固めて待機してゐた昇氏は素早くぬれ漣や砂、蒲団等でもみ消してゐるところへ長男可君が応援に駆け付けた。
同君は県立二中生で火薬工場へ勤労作業に出てゐる経験を活かし上衣を池にぬらして火叩きとともに燃え上がる焼夷弾や飛び散る火の粉を払ひ落とし、のぶさんは池に半水浸しとなって注水、また有璽君は延焼する焼夷弾や火の粉に砂を力一ぱい叩きつけ足で“こん畜生、こん畜生”と踏むやら蹴るやらして親子努力家屋への延焼を護ったのだ。
池谷可君談
〇時半頃でした。敵機が房総半島から京浜地区へ侵入したとの報道があった途端、高射砲が鳴り、やがて真上に赤い火がパラパラ落ち始めヒュルヒュルボカンとした音が聞え、辺一面が八方火の海となり、油脂性のガソリン臭い臭ひで一ぱいでそれは大変だと上衣を池の水に浸し火の粉の中に飛び込み濡れた上衣を燃える焼夷弾の上へかぶせ、また砂をかぶせると火勢が衰へ火叩きや足で踏みつける火の粉はすぐ消えました。
この経験で焼夷弾は発見が早く初期防火もやれば決して恐れることはないと痛感しました。火叩きはほうきのやうなものより雑巾のやうな幅の広い方が消し易ひと思ひました。
なぜここまで報じられたかというと、「これだけ降ってきた焼夷弾を家族みんなで見事に消し止めた、焼夷弾など怖くない」ということを伝えたかったのではないか。
「焼夷弾は早く発見し初期防火もやれば決して恐れることはない」ということを伝えるプロパガンダとしては良かったのだろう。当時の国の方針では“空襲から逃げずに火を消すべし”と言われていた。
東京大空襲で樽町の温泉街が焼失
綱島への空襲からから数カ月後に起こったのが翌1945(昭和20)年3月10日の「東京大空襲」だった。
夜中に東京方面に300機以上の「B29」が飛来し、下町を絨毯爆撃をして焼き払い、10万人以上の方が一夜にして亡くなった。関東大震災と同じ規模の死者が発生している。
この時に飛来した300機のなかから3機が港北区の方面へ飛んできて、樽町の上空で深夜0時15分から2時35分の間に焼夷弾949発を落としており、その様子を「飯田日記」は下記のように記している。
■「飯田助夫日記」(1945<昭和20>年3月10日)
昨夜B29百三十位十時頃ヨリ三時頃迄主トシテ帝都空襲焼夷弾投下各所火災ヲ生シタルモノゝ(ノ)如ク、一時頃樽町清光園、大綱館、堂森外一軒二十三棟位焼失。折柄烈風大事に至ラス喰止ム。此ノ投下ハ鶴見方面高射ノ為メ傷キタル敵機ガ搭載弾ヲ全部投下十発位ニ依ル
鶴見方面から入ってきた「B29」が鶴見にあった高射砲から逃れ、樽町までやってきたようで、樽町の温泉旅館である「静香園(せいこうえん=飯田日記では漢字表記が異なる)」や「大綱館」などが焼かれたと書かれており、樽町の温泉街の中心部がみな焼かれてしまったということが分かる。
前年12月26日の空襲では「入船亭」は消し止めて助かったが、今回は焼夷弾の数が違った。ほとんどの旅館がこの空襲で焼かれてしまった。
今回、なぜすぐに火を消せなかったか、ということだが、東京が空襲を受けるなかで通信網がずたずたになってしまっていた。電話ができず被害状況がつかめないなかで、「どうも樽町で火災が起きている」と綱島の消防出張所でもつかんでいたようだが、連絡が取れないために指揮系統も崩れてしまった。
この空襲によって、綱島温泉の始祖である樽町の温泉旅館街が消えてしまうことになった。
「B29」がなぜ樽町を狙ったかということだが、あくまでも日本側の推測だが、一つは今も樽町に残る「鉄塔」を狙ったのではないかとも言われている。
戦後は「家族連れが楽しめる温泉街」目指す
そして1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎えた。戦後の綱島温泉は、日本(横浜)貿易博覧会の公式の指定旅館街になるなど、復活を始めた。
1950(昭和25)年の新聞記事には次のように書かれている。
■「戦後の繁栄に還る」(「神奈川新聞」1950<昭和25>年11月2日)(旅館組合宣伝部長・芝田弁慶氏談)
人気が出るとともに経営者が増え、昭和十五、六年ごろの全盛期には旅館五十軒、芸者二百を抱える大所帯に発展、紅燈ゆらぎ、弦歌さざめく色街に発展したものでした。戦時中は見るかげなくさびれてしまいましたが、今はなみにコギつけました。
色街で育った温泉ですが今後は御家族連れの温泉場にしてどなたでも親しめるものに育てたいと思っております。そのつもりで会社組織で最高四千人を収容出来るホールの建設を計画しています。
ここには、戦前と同じように“色街と健全な温泉街”との狭間で葛藤が見られる。「家族連れが楽しめるように」と考えられたのが温泉ホールをつくることで、それが綱島西で1952(昭和27)年に開業し、全国にその名が知られたと言われる大型温泉レジャー施設「行楽園」(1973<昭和48>年閉館、現「ニックハイム綱島第1」付近)だった。
戦前に構想され、大洪水や戦争で実現できなかった温泉街の“大観光地化構想”の一端が戦後になって動き始めたといえる。
この先、綱島温泉は高度経済成長期の少し前くらいまで“黄金時代”を迎えることになっていくのだが、今回の講演はここまでにしたい。
<講演の要旨は以上です>
【関連記事】
・<開港資料館>綱島温泉を発見したのは誰か、戦前までを振り返る研究を発表(2018年3月19日、吉田氏による4年前の講演)
・綱島温泉の名残を求め歴史散策、開港資料館のツアーに定員の4倍が応募(2018年4月9日、旅館跡地についての詳しい解説も)
・綱島温泉で最古の旅館跡「入船亭」が解体、新綱島駅の再開発準備が本格化(2018年10月23日、最初に空襲を受けた旅館)
・「綱島温泉」での貴重な行状記、太宰治の墓前で絶命した退廃作家が遺す(2019年8月14日、“色街”であったことの一端が記されている)
【参考リンク】
・港北地域学講座「第4回 東京大空襲と綱島温泉」(講師:吉田律人氏、2022年3月11日無観客開催)の講演映像(港北映像ライブラリ)※リンク追記