日吉に描いた「理想のキャンパス」、未完だから語り継げる歴史 | 横浜日吉新聞

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【講演レポート】日吉キャンパスは開設から90年近く経った今も“未完”といえるのかもしれません。「港北地域学」の第3回講座「慶応義塾と日吉」が今月(2022年)2月5日に港北区役所で開かれ、慶應義塾大学が日吉にキャンパスを設けた経緯や、今も残る苦難の跡について解き明かされました。

港北地域学講座「慶応義塾と日吉」の講師をつとめた都倉さん

今回の講座は、慶應義塾福澤研究センターの准教授で、昨年(2021年)7月に三田キャンパス内に新設された「福澤諭吉記念慶應義塾史展示館」では副館長に就任した都倉武之(とくらたけゆき)さんが講師をつとめました。

1934(昭和9)年に慶應義塾が日吉にキャンパスを設けた経緯について、都倉さんは「大学の医学部(信濃町)以外、すべての機能が三田キャンパスにあって密集していた」ことが大きいといい、三田は研究拠点に特化し、新キャンパスを教育の場としたい意図があったと説明します。

大正期に三田キャンパスが密集していたことが新キャンパスの計画につながった

特に1923(大正12)年に関東大震災が発生したことがきっかけで“郊外”に注目が集まり、慶應義塾内でも新しい校舎を求める機運が高まっていたといいます。

日吉誘致の背後に“私鉄の始祖”

当初、慶應義塾は新校舎の建設地として、神奈川駅(現在の横浜駅付近)と下高井戸(世田谷区)の周辺で候補地を検討し、その後には小田急から相模原(神奈川県)、箱根土地(現西武鉄道系)からは小金井(東京都郊外)の土地提供の申し出があったなかで、最終的に日吉に決まったのはなぜなのか。

慶應の新キャンパスの設置は関東大震災をきっかけに機運が高まった

日吉への誘致に重要な役割を果たしたのが、私鉄の経営モデルを作ったといわれる小林一三(いちぞう、阪急グループの創業者)でした。

関西の私鉄事業者だった小林一三ですが、東急電鉄(当時は東京横浜電鉄の経営にも一部携わっており、「慶應義塾の卒業生で評議員もつとめていたので、学校側が何を求めているかを知っていた」(都倉さん)という縁も奏功し、東急電鉄が誘致を進めた日吉台にキャンパス新設が決まります。

小林一三は、長期にわたって定期的に乗客を獲得できる教育機関は私鉄経営に重要だと考えており、自ら創業した阪急電鉄沿線でも大阪大学(豊中キャンパス)や関西学院大学(西宮上ケ原キャンパス)などを誘致していました。

キャンパスに「門」がない理由

キャンパスができる前の日吉は駅以外に何もない丘だった

慶應義塾は1930(昭和5)年、東急電鉄から提供された7万2000坪の土地に加え、追加の買収分も含め計13万坪に日吉キャンパスの開設を決定。

翌1931(昭和6)年には日吉台で遺跡発掘調査を行い、この調査では当時最大といわれた弥生式竪穴(たてあな)住居址(あと)などを発見しており、その後の調査で見つかった住居跡の一部は現在も保存されています。

日吉キャンパスは教育の場として“理想的学園”を建設するとの目標を掲げ、各種建設プランが作られた形跡はあるものの、その審議過程や経緯に関する資料が残っていないといいます。

都倉さん自身も慶應高校時代は「第一校舎」で学び、あまりの広さに端から端の教室へ移動すると休み時間内に戻ることが難しいほどだったという

それらのプランは、すべて中央部に直線道路が貫き、周囲に校舎を配置する形となっており、「グラウンドなど体育施設を重視しているのも特徴的」(都倉さん)でした。

1934(昭和9)年には、鉄筋コンクリート4階建ての「第一校舎」(現在は慶應高校が使用)と、3000人収容可能な陸上競技場や柔剣道場などの体育会施設が完成し、文系の大学予科(戦前の大学教養課程=3年間)の学生が通う日吉キャンパスがスタート。同年夏には、現在まで残る銀杏(いちょう)の木1万2000本の植樹も始まりました。

医学部予科(3年間)用として1936(昭和11)年に完成した第二校舎は、その名残で今も自然科学系の一般教養科目の教室となっている

続いて鉄筋コンクリート3階建ての「第二校舎」(現在は自然科学系の一般教養科目教室)が1936(昭和11)年に完成し、医学部予科(3年間)の学生も移り、これで大学予科の日吉移転が完了します。

赤屋根食堂」(戦後の米軍占領時代に焼失)や、“東洋一”とうたわれた「寄宿舎」(学生寮=箕輪町1丁目に現存)も設けられ、キャンパスの機能も次々と揃いました。

現在まで続く日吉キャンパスの特徴として、都倉さんは「開設以来“門”というものがなく、新型コロナ禍のなかでもキャンパスを閉ざしていない。これは慶應の開放的な精神の反映と捉えられている」と解説します。

キャンパス内に「藤原工業大学」

“理想的な学園”の建設に向けて着々と歩みを進めていた日吉キャンパスでしたが、これ以降は「現在にいたるまで、傷跡を引きずり続けているといっても過言ではない」(同)というほど、計画が狂わされることになります。

日吉キャンパス内に設立された「藤原工業大学」の経緯を説明する都倉さん。なお、現在の日吉キャンパス協生館にある「藤原洋記念ホール」は苗字が同じだが関連性はない

まず、工科大学の開設時にそれが現れます。慶應では「工科」を作る構想が長年あったものの実現できていませんでした。そんななか、福沢諭吉の門下生で、王子製紙の社長として“製紙王”と呼ばれた藤原銀次郎が持つ「私財で工業大学を作りたい」という思いと合致。

将来的には慶應に大学を寄付する意向だったため、慶應は日吉キャンパス内の敷地を提供し、1939(昭和14)年に「藤原工業大学」(現在の理工学部)が開校しました。

ただ、この藤原工業大学は矢上台(日吉3、現「矢上キャンパス」)に建設する予定だったのですが、物資の不足で実現せず、仮設として木造校舎を設けたものでした。

製紙王の大学、合併を急いだ背景

藤原工業大学は矢上の丘(現矢上キャンパス)に校舎を建てる計画だったが、資材不足で断念した

藤原工業大学を設立した藤原銀次郎は、何期かの卒業生を出したうえで慶應に寄付する意向を持っていましたが、戦況の悪化により、「国は学生を多く軍隊に取りたいという意識のなかで、不要不急の大学を減らそうと学校の理念など関係なく合併を命令するようになった」(都倉さん)

そのため、藤原工業大学は第1期生の卒業を9月に控えた1944(昭和19)年8月、慶應に吸収合併されます。「他の大学と合併させられる懸念から慶應への合流となったが、藤原自身は残念な思いからか、慶應の卒業証書とは別に自筆の私製卒業証書を配っている」(同)

そんな切迫した状況下にある日吉キャンパスへやってきたのが海軍でした。

学生は兵役に、キャンパスには軍隊

学生が軍隊にとられ、日吉キャンパス内には海軍がやってきた

藤原工業大学が急きょ合併することになった1944(昭和19)年の秋、日吉キャンパスの教室では海軍の連合艦隊司令部や人事局などさまざまな部署に貸し出され、移転してくることになります。

「学生が軍隊にとられて学費の収入が減り教室を無人のままにしておいてはいけないという事情もあった。三田キャンパスでは空襲で焼け出された民間企業にも貸している」(都倉さん)

戦況がさらに悪化するなかで、海軍は日吉キャンパスや箕輪町3丁目に数キロにおよぶ地下壕の掘削を開始。施設の貸出時には想定されていなかったことでした。

1945(昭和20)年の4月には日吉の街が空襲を受け、日吉キャンパスでは旧藤原工業大学だった木造校舎の7割が焼かれるなど、「全国の大学のなかで最大の空襲被災校と言われる被害となった。キャンパスの開設からわずか10年、予期しない出来事だった」(同)

米軍占領時代の日吉キャンパスの写真も公開された。当時米軍だった人から慶應に連絡があったことをきっかけに提供してもらったという

1945年8月の敗戦後は、海軍と入れ替わって米軍が日吉キャンパスを占拠。「三田も被害を受け、ただでさえ校舎がなかったのに日吉を取られてしまった。旧藤原工業大学の工学部は目黒や溝の口、登戸など各地の施設を間借りして転々とすることになった」(同)

米軍占領下の日吉キャンパスでは、銀杏並木の正面に米軍のゲートが設けられ、キャンパス内には車の整備学校や料理学校といった軍の訓練学校が置かれていたといいます。

戦前校舎が残り、戦後の建物は老朽化

1949(昭和24)年10月に米軍から日吉キャンパスを取り戻したものの、仮設的な校舎で再スタートとなった

米軍から日吉キャンパスを取り戻せたのは1949(昭和24)年10月のこと。4年にわたる米軍占領で、キャンパス内にはカマボコ形状の兵舎が林立し、赤屋根食堂は失火で焼け、東洋一と呼ばれた学生用の寄宿舎は将校が使用し、自慢の大型浴室「ローマ風呂」を破壊。バーやダンスホールとして使われていました。

ここから日吉キャンパスの“戦後復興”は始まりましたが、「トタン屋根のバラック校舎は、雨になればまったく授業は聞こえず、床は泥という劣悪な環境だった。当時学生だったOBからは『慶應のイメージとあまりに違う環境に驚いた』という話を聞く」(都倉さん)

1958(昭和33)年に建てられた(旧)日吉記念館は耐震補強しながら2017年まで使われていた

1958(昭和33)年に慶應義塾が創立100周年を迎えたことを機に、大規模な募金活動によって日吉キャンパスには鉄筋コンクリートの大講堂・体育館「日吉記念館」(初代)が完成します。

日吉キャンパスの戦後復興を象徴する建物でしたが、「昭和33年ごろは高度経済成長に向かっていくところで、資材の質はあまり良くなかった」(同)といいます。

そのため、戦前の「第一校舎」と「第二校舎」は現在まで残る一方、戦後建築の「日吉記念館」は老朽化が進み、2017(平成29)年10月に解体。2020年3月に「新・日吉記念館」に建て替えられています。

「ばらばら感」が語る苦難の歴史

矢上の丘へのキャンパス開設は戦前の藤原工業大学時代からの悲願だった

1973(昭和48)年には、校舎を焼かれて転々としていた工学部が、戦前から構想のあった矢上の丘にキャンパスを建設し「悲願の日吉復帰」(同)を果たします。

現在の日吉キャンパス(各学部の主に1・2年生)と矢上キャンパス(理工学部の3・4年生)という日吉における2キャンパス体制がスタートしました。

2020年に建てられた(新)日吉記念館の右手には戦前の日吉キャンパスを代表する「第一校舎」と、左手には「第二校舎」が現在も現役で残る

都倉さんは日吉キャンパスについて、「校舎は戦前から現代まで建築時期が異なっており、はっきり言ってばらばらで、まだらだ」と述べます。

一方で「苦難の道を表す無秩序や、無計画のように見えるばらばら感というのが日吉キャンパスの価値ではないか。だからこそ語れる歴史がある」と話し、講演を締めくくりました。

今回の講演会は映像に収録されたほか、ケーブルテレビ「イッツコム」も取材に訪れていた

今回の講演会は、25人の聴講者募集に対して110人が応募するなど注目を集めましたが、「まん延防止措置」が適用されたため無観客での開催となりました。講演の様子は映像に収められており、後日応募者には当日の映像が公開される予定です。

なお、6月18日(土)には大倉山記念館で、「藤原銀次郎と福澤諭吉の『実学』~慶應義塾大学理工学部誕生への道」(大倉精神文化研究所主催)と題した都倉さんによる講演も予定されており、藤原工業大学の設立経緯などが詳しく語られる予定です。

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慶應日吉キャンパスの「日吉記念館」は11月7日に閉鎖、2020年3月まで建替工事(2017年7月15日)

【参考リンク】

三田評論2011年4月号「慶應義塾史跡めぐり第56回~日吉台地下壕」(都倉武之著)(慶應義塾大学出版会、都倉さんによる日吉台地下壕と戦中戦後の解説)

大倉精神文化研究所「大倉山講演会」の案内ページ(2022年6月18日に都倉さんも登壇予定)

港北地域学講座「第3回 慶應義塾と日吉」(講師:都倉武之氏、2022年2月7日無観客開催)の講演映像(港北映像ライブラリ)リンク追記


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