<日吉台小学校>慶應日吉キャンパス内で米進駐軍と“同居”していた意外な歴史 | 横浜日吉新聞

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日吉台小学校(日吉本町1)は一時期、慶應義塾大学日吉キャンパスの敷地内に置かれていたことがある――。そんな一文が日吉の歴史を伝える市民団体「日吉台地下壕(ちかごう)保存の会」の最新会報に掲載されています。港北区内で最古の小学校に何があったのでしょうか。

日吉台地下壕保存の会の会報(130号)に掲載された「慶應義塾の運動部部室は日吉台小学校の仮教室になる」と題した報告

先月(2017年4月)27日に発行された第130号となる同会会報では、「慶應義塾の運動部部室は日吉台小学校の仮教室になる」との内容で、同会副会長の亀岡敦子さんが昨年11月に偶然知り合った女性から聞いた話として、「日吉台国民学校(当時)生徒は、1945年4月15日の空襲で校舎が全焼したため、戦後の数年間を、慶應義塾日吉校地マムシ谷の運動部の建物を教室として勉強していた、というのです」と報告しています。

日吉台小は、“日吉”の地名の元となった金蔵寺(日吉本町2)で開かれていた寺子屋「清林学舎」を前身とし、1873(明治6)年に「駒林学舎」として創立。1909(明治42)年から現在の日吉本町1丁目へ移転しています。当時の「日吉村」が横浜市へ分割合併したことの引き換えか、1940(昭和15)年には市が木造2階建て17教室をようする新校舎を建てており、「日本一の木造校舎」とさえ言われていたといいます。

ところが「川崎大空襲」と呼ばれる米軍による無差別攻撃で、わずか5年後の1945(昭和20)年に校舎が焼失。敗戦後は金蔵寺などを借りて授業を再開したとの記録が残されていますが、慶應大学内を借用していたことは広く知られていません。

現在の日吉台小の校舎は1962(昭和37)年に建設されたもの

同原稿には、「校舎焼失後は近隣の寺社が教室となり、46(昭和21)年からは、連合軍に接収されて、荒れほうだいだった(慶應義塾大の)運動部部室が全学年の教室となりました。お腹を空かしながらも子どもたちは元気に、慶應の山を駆け回って遊んでいたそうです。職員室は保福寺(日吉4=日吉キャンパスの裏手)の本堂が当てられていたそうで、新校舎が完成するまでの数年間、小学生たちはアメリカ軍と日吉キャンパスで同居していたのです。稀有な体験と言えるでしょう」と記しています。

なお、今から40年以上前の1973(昭和48)年6月に発行された日吉台小の「創立百周年記念誌」には、戦後に赴任した教員らの思い出話が残されています。

日吉台小に戦前からあると言われる二宮金次郎像

これによると、「(校舎の)やけ跡にカボチャを栽培していた」とのエピソードをはじめ、「当時の(慶應)大学の本館は、進駐軍が使用していたので、構内には一歩も入ることができなかったが、矢上の保福寺寄りにあったテニスコート等の運動場付近は自由に出入りできた」と報告。

加えて、「この谷間にあるいくつかの建物は、ボクシング・相撲・柔剣道・卓球・庭球等の運動部の施設で、これを仮設教室にすることにしたが、戦中戦後にすっかり荒れ果ててしまい、窓という窓には戸が一枚もなく、風は吹き抜け、雨漏りもする文字通りのあばら屋であった」と記録されています。

同会会報の原稿を書いた亀岡さんは、「戦争を通して日吉の歴史を見ていたつもりでしたが、そこにいた一人ひとりがどのような状態に置かれ、何をしていたのか、特に子どもたちへの視点が欠けていたことに気が付きました。大きな反省点です。これから、聞き取りを手始めに、何とか日吉の市民の歴史に近づいていきたいと思っています」と結んでいました。

日吉台地下壕保存の会による会報は、PDF版として同会サイトで公開されています。

【関連記事】

慶應や日吉台小が焼かれた「川崎大空襲」、元住吉の平和館で5/8(日)まで記録展(2016年3月7日)

<コラム>引き裂かれた日吉村、次に来たのは大迷惑な日本海軍とアメリカ軍(2016年1月10日、戦時中の日吉台小は海軍省に使用された)

【参考リンク】

日吉台地下壕保存の会「会報」バックナンバー紹介(PDFで公開)

わがまち港北「第92回 終戦秘話9 国民学校と学童疎開」(2006年8月、大倉山精神文化研究所、港北区内の小学校でなぜか日吉台小だけが「疎開」させられていたとの内容も)


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