<開港資料館>綱島温泉を発見したのは誰か、戦前までを振り返る研究を発表

横浜日吉新聞

綱島温泉が発見されるまでの過程で新たな事実がわかりました。今月(2018年3月)17日に「横浜開港資料館」で講演会「綱島温泉の誕生」が開かれ、同館調査研究員の吉田律人さんが綱島温泉が大正初期に発見されてから戦前にいたるまでの歴史研究を発表したものです。

横浜開港資料館で行われた講演会には会場がぎっしり埋まるほどの聴講者が詰め掛けた

綱島温泉は、樽(現樽町)で菓子商「杵屋」を営んでいた加藤順三氏が1914(大正3)年に自宅の井戸を掘った際に赤い水を発見し、国に分析を申請したことがきっかけだと言われています。

一方、樽町2丁目に今も残る「ラヂウム霊泉(温泉)湧出記念碑」には、北綱島の名主である飯田助大夫氏(すけだゆう=飯田家11代当主で大綱村村長、県議会議員などをつとめ大正14年10月死去、本名は飯田助大夫快三<かいぞう>)が「発見者」として名が刻まれ加藤順三氏は「発見所有者」となっています。

樽町2丁目に残る「ラヂウム霊泉(温泉)湧出記念碑」の裏面には「発見者」と「発見所有者」がそれぞれ刻み込まれている

この謎について吉田さんは、飯田家の日記や当時の新聞記事などから解明に挑んだところ、加藤順三氏が赤い水を発見する少し前に、県の天水採氷組合長でもあった飯田助大夫快三氏が県の技師に井戸水の検査を依頼し、その際に温泉の素であるラジウムを含んでいたことを発見していたことがわかったといいます。

つまり、綱島に温泉が湧出していることは飯田家が発見し、加藤順三氏の申請によって温泉として認識されたことになり、そのため記念碑にも「発見者」と「発見所有者」と2氏の名が刻まれていることになったとみられます。

また、綱島温泉の旅館としての元祖は、大綱橋に近い樽町で1917(大正6)年に小島孝次郎氏が開業した「永命(えいめい)館」であるとされているものの、開港資料館が所蔵する飯田家日記によると、前年の大正5年には大綱村農会を開いていたことが記されており、「永命館ができたのは大正6年より早い時期だったはず」と分析します。

また、永命館よりも綱島東の「入船(いりふね)亭」(大正2年8月開業)のほうが先に開業していたものの、「当初は温泉をひかない割烹旅館だったのではないか」との見方を示しました。

その後、樽町エリアに「琵琶圃(びわはた)」や「大綱館」といった旅館が相次いで開業し、「樽町エリアの温泉街化はこの時期から始まり、綱島が大きく変わっていくきっかけになった」と述べます。

30分以上前から聴講希望者が列を作っていた

今回の講演は、「(2015年に閉館した綱島温泉の日帰り施設)『東京園』の温泉が好きで5年ほど前から綱島に住んでいる」という吉田さんが“地元民”の研究者として特に力を込めて調査してきたたテーマ。

当日は日本大通り駅近くにある開港資料館に聴講希望者が列を成し、会場となった同館講堂の80席がぎっしり埋まるほどの人気ぶりで、聴講者のなかには古くから綱島に住む人の姿も目立っていました。

横浜開港資料館の講演会「綱島温泉の誕生」の要旨

2018年3月17日(土)に横浜開港資料館で行われた吉田律人調査研究員による約90分の講演を要旨として以下にまとめました。

………………

吉田さんは「東京園」の温泉が大好きで5年ほど前から綱島に住み始めたと話す

現在の綱島は東京・横浜のベッドタウンとして温泉地の面影は見られないが、綱島西のマンション名に「水明」などかつての温泉旅館名が冠されていたり、綱島東の「入船亭」や樽町の大綱橋近くにある「長楽」のように、建物が何とか残っていたりするところもある

綱島温泉の歴史研究について代表的なものを挙げると、「港北区史」(1986年)をはじめ、大倉精神文化研究所の平井誠二所長による「わがまち港北」(2009年)で基礎的な研究が行われており、ここが歴史を語るうえでの水準点である。最近では和光大学の長尾洋子准教授が2011年にまとめた研究「昭和戦前期におけるレジャーのかたち」で綱島温泉や綱島の歴史に触れている

  • 編注:長尾洋子さんの研究は、江戸期に鉄砲洲と呼ばれた東京都中央区湊で貸地・貸家業を営んできた商家・福井家が残した「福井家文書」をもとに、同家が北綱島町(現在の綱島台付近)に約1.5ヘクタールの土地を購入した経緯や、同地に別荘を設け、どのように過ごしていたのかなどをまとめ、戦前におけるレジャーのあり方を論じた内容

こうした優れた研究は行われているが、戦後の様子も分かっておらず、歴史学的に見た体系的な研究は行われていない状況であり、ここを埋めていきたい思いがある

綱島温泉が生まれたきっかけは、飯田家11代当主である飯田助大夫快三(すけだゆうかいぞう)が神奈川県に井戸水の水質調査を依頼したところ、ラジウムを含んでいたことが発見されたことに始まる。少し後に樽(現樽町)で菓子商「杵屋」を営んでいた加藤順三が1914(大正3)年に自宅井戸の赤水を内務省の東京衛生試験場に検査を依頼したことがきっかけで温泉として認識された。加藤の井戸水の検査結果は日本で第3位のラジウム含有量だったらしい

温泉旅館の誕生時期についても新たに考察が加えられた

温泉旅館は大正5年ごろに樽村(樽町)で小島孝次郎による「永命(えいめい)館」が誕生したのを皮切りに「琵琶圃(びわはた)」や「大綱館」が開業するなど、樽町地区から温泉街(主に旧綱島街道沿い=大綱橋たもとから大曽根商店街へ続く道)が発展し、綱島東地区でも割烹旅館だった「入船(いりふね)亭」が温泉旅館となっている

一方、大正期の樽町や綱島は、東急東横線(東京横浜電鉄)の開通前で交通アクセスが不便であり、1926(大正15)年1月の「琵琶圃(びわはた)」による広告では、国鉄(現JR)東海道線・神奈川駅(現横浜駅の東京寄りに置かれていた駅)から「自動車の便あり」との記載も見られる

1926(大正15)年2月14日に東急東横線の前身である東京横浜電鉄が開通し、東急(東京横浜電鉄)が綱島の開発に乗り出したことで綱島駅(当時は綱島温泉駅)の西側エリア(現在イトーヨーカドーがある付近)にも1930(昭和5)年ごろから温泉街が形成されていった。つまり、綱島の温泉街は大綱橋近くの樽町綱島東綱島西の順に形作られたことになる

東急(東京横浜電鉄)の開通により電鉄が綱島に資本を投下し始め、綱島東には直営の温泉施設も設けられた。中庭に遊園地的なものも設けられるほど大きな施設だったようだ

東急(東京横浜電鉄)は綱島東に直営の温泉施設を設け、後に樽町で「菖蒲(しょうぶ)園」を開園するなどさまざまな観光開発に乗り出しており、関西の阪急電鉄が開発した宝塚のようにしたかったのではないか

1926(大正15)年4月に東急(東京横浜電鉄)と化粧品会社のホーカーなどが行った綱島温泉の旅客誘致キャンペーンの広告では、「温泉とお花見 五十銭で一日遊べる」「目黒(省線駅前)より僅々三十分 桃花満開 綱島温泉」「お子さん方の為衛生上危険な市中の雑踏に行くよりも新鮮な郊外へお出かけください」との表記や、期間中の無料休憩所として「入船亭」「永命館」「琵琶圃(びわはた)」「楽園」「大綱館」の温泉旅館と、「桐屋商店(※2017年1月に閉店した大綱橋に近い綱島東の老舗酒店=現まいばすけっと大綱橋店)」「新杵」の名が見られる

その後、1933(昭和8)年の駅西口開設(開業当初は東口のみだった)や、1934(昭和9)年6月の「菖蒲(しょうぶ)園」(樽町)開園、同年からは温泉組合が主催し、東急(東京横浜電鉄)と飯田家が後援する花火大会も始まった。綱島温泉芸妓(げいこ=芸者)組合も発足し、花街化し始めた。戦前における綱島温泉の最盛期は昭和10年から昭和12年ごろだったのではないか

講演会の参加者には横浜開港資料館が所蔵する昭和10年ごろの綱島温泉案内地図のコピーが参考資料として配られた

昭和10年ごろに発行されたとみられる温泉の案内図によると、以下の旅館名が見られた

  • 綱島西エリア(現イトーヨーカドー付近):熱海園、旭家、興花園、弥生、里の家、辰芳、田中家、東京園、桃花園別館、桔梗、甲子園、嬉野、梅島、しょ福、綱島ホテル、桃花園、水明楼、大和、綱島荘、福住、常盤、洗心楼(計23施設)
  • 綱島東エリア(新綱島駅の建設地付近):来楽、桃月庵、春日家、静岡家、へちま、文化温泉、入船、電鉄直営浴場(計8施設)
  • 樽町エリア(大綱橋南側):孔雀荘、琵琶圃、長楽、大綱館、静香園、永命館、可祝、綱島園、松島園、中九園、鳴子園、末広(計13施設)

このなかでは、綱島西エリアの「梅島」と「水明楼」が二大巨大旅館と言われていた。また、綱島の旅館の特徴として“離れ家”が設けられている点があった

吉田さんは戦前における綱島温泉の最盛期は昭和10年から12年ごろだとみている

東急(東京横浜電鉄)は綱島の桃や桜などの自然を売りに、綱島温泉を郊外の明るい健全なイメージを作りだそうと努力していたが、プライベート性が保たれる“離れ家”があるという温泉旅館の特徴から、いわゆる“連れ込み宿”として男女の密会にも使われるようになってきた。これは宝塚でも同様であった

1932(昭和7)年に神奈川県大磯町の坂田山で、慶應義塾大学の男子学生と静岡県の財産家に生まれた女性による「坂田山心中事件」が起き、親の結婚反対にもかかわらず「純愛を貫いた」との背景から映画化されるなど大きな話題となった。この流れが綱島温泉にも飛び火し、各旅館の離れ家では、無理心中を図るカップルが続発した

綱島温泉が「第二の坂田山化している」といった新聞報道も見られ、温泉組合が啓発講演会を開くなどの対策を行ったが、抜本的な解決には至らなかった。そんな問題が起きつつも温泉街は発展し続け1934(昭和9)年12月の記事には、温泉客で超満員状態で、忘年会の予約も殺到しており「約50軒の温泉旅館はここ連日満員という盛況とは驚く」といった内容も残っている

1937(昭和12)年には新たな大綱橋が完成し、鉄道だけでなく、車でのアクセス向上も図られたが、同年7月には日中戦争が勃発1938(昭和13)年には鶴見川が氾濫する大水害が起き、綱島の街一帯が水没し、観光資源でもあった桃も大きな被害を受けてしまった

一方、同時期には戦争の影響から綱島周辺の工業地帯化が始まる。工場は水を使うため川の近くが適地とされており、鶴見川と早淵川のある綱島は最適であった。このため、労働者が集まるようになってきた

戦況の悪化で「温泉を沸かすことさえ不自由」という状況に陥り、昭和18年10月には温泉旅館が一斉廃業に踏み切り、工場労働者の下宿として転用されることになった。スライドの文章は綱島温泉の窮状を伝えた記事の一部

戦争の進展に合わせる形で、1941(昭和16)年には、温泉旅館は「労働者の健康増進のための施設になるべき」との方針を温泉組合が打ち出し、「同伴歓迎」の温泉旅館から脱却することと、芸妓(げいこ=芸者)組合との絶縁も決断した

日米開戦により戦局が悪化したことで、1943(昭和18)年ごろには物資不足が深刻化。温泉旅館の経営がままならなくなる。食料や酒の不足はもちろん、石炭がなく冷泉さえ沸かせない状況で、経営者も兵役に取られ始めた

こうした状況下で、1943(昭和18)年10月には温泉旅館が一斉廃業に踏み切る。工場労働者の下宿として転用され、綱島温泉の灯がいったん消えることになった。1年後には駅名からも「温泉」が外されている

戦前に温泉の灯は一度消えたが、戦後の1949(昭和24)年に横浜で「日本貿易博覧会」が行われ、綱島温泉が指定旅館街となったことをきっかけに、戦後はさらなる発展を遂げることになる。温泉街の拠点となる大型温泉レジャー施設「行楽園」が完成するなど綱島温泉は昭和30年代に最盛期を迎える

今回は戦前までの研究を行ったが、戦後の綱島温泉については、今後もさらに調査を続け、歴史を明らかにしていきたい

なお、今回の研究成果については、季刊誌「横濱」や開港資料館の館報「開港のひろば」でも発表する予定になっているとのことです。

【関連記事】

綱島温泉の歴史に光、開港資料館の企画展「銭湯と横浜」で繁栄振り返る展示や講演も(2018年1月24日)

【参考リンク】

横浜開港資料館の企画展「銭湯と横浜-“ゆ”をめぐる人びと」(4月22日まで開催中、月曜日は休館)


グーグルからの配信による広告

カテゴリ別記事一覧