【法人サポーター会員による提供記事です】再開発が続く箕輪町で、明治時代から継承する老舗があるのをご存知でしょうか。箕輪町で1888(明治21)年に屋号「角屋」として創業してからちょうど130年の歴史を重ねてきた現在の角屋商事株式会社(箕輪町3)代表取締役の飯山清志さんは、同店の4代目。
開発が進む日吉・箕輪町エリアで、貴重な商業の歴史を継いできた飯山さんは、現在、箕輪町にある企業・商店主らで活動している箕輪町商工会(事務局:同社内)の3代目会長として知られるほか、日吉台中学校(日吉本町4)を拠点に活動している「剣道同好会 摂心館(せっしんかん)」の館長としても活躍しています。
“地域をつなぐ”会社や商工会の「顔」としての飯山さん、特に、「生涯の生きがい」だという剣道の普及・後進の育成に日々邁進する姿に迫り、これからの箕輪町が迎える変化の時代に向けた想いについて話を聞きました。
「お米の角屋」は130年ののれん守る老舗、産地直送米の販売に強み
箕輪町の「住宅街の中にある、小さな小さなお米屋さん」(同社サイト)として地域の人に知られる角屋商事。屋号を「角屋」として創業したのは、初代・飯山林次郎氏。創業時は肥料や雑貨の販売を行い、二代目・飯山繁太郎氏の時代、1928(昭和3)年から今と同じ米穀販売を始めたとされています。
1945(昭和20)年の第二次世界大戦時の空襲で工場を失い、終戦の翌年から木工所を設立し、木工家具の製造もはじめたものの、1952(昭和27)年に米穀小売販売の許可を取得。燃料灯油なども扱うなど事業を拡大し、1963(昭和38)年に株式会社として三代目の飯山登氏が社長に就任。
一時期は多店舗化や大量販売を志向し、大型精米工場を建設、おにぎりやお弁当の販売なども手掛けるなどして売上を伸ばしたものの、時代の流れにも合わせて現在では事業規模を縮小、1994年からは、飯山清志さんが社長に就任し、産地直送の米穀販売を中心に事業を行っています。
「おいしいお米を届けたい。ただその一心で商売を続けています」と飯山さん。産地の農家とのパイプを活かした、生産者直送のお米の販売は現在も好評を博しているといい、「秋田、山形、茨城の農家からも玄米を仕入れています。新米の時期には、地元・箕輪町の田んぼで取れたお米も販売しているのですよ」と、地元・箕輪町に長く根差した角屋商事ならではの“商売”についても言及します。
箕輪町商工会のリーダーも務める飯山さん、“学び合える”会合を毎月開催
箕輪町に根差し事業を続ける「角屋」らしく、1986(昭和61)年に設立された同町の事業主らが中心となって設立した「箕輪町商工会」(当初は箕輪町商店会)にも参画。当時は「大規模なスーパーと対峙(たいじ)せねばならない世の中の流れもありました」と、中小の商店が大型店に対抗するためにも、結束を深めなければならない時代があったと当時を振り返ります。
箕輪町には、いわゆる「商店街(モール)」と言えるような場所は存在しないこともあり、共同での売り出しや販売促進の活動は当初から行うことはなく、「会員相互の親睦(しんぼく)や、情報交換、地域貢献などが主な活動になっています」と飯山さん。
会員資格は、箕輪町や近隣で事業を営む、もしくは事業経営者で箕輪町在住の人となっていますが、「親睦団体としての色合いが強いので、参加希望者は基本的に受け入れています」と、近年、会員の“高齢化”も進み、新しい会員希望者も積極的に受け入れていきたいと、今後の新規会員の受け入れ方針についても言及します。
著名人や文化人を招いた講演会や学習会の企画、地域イベントの開催など、まさに「人と人、地域と人をつなぐ」同商工会の3代目会長として、2006年からメンバーを引っ張ってきた飯山さんは、これからも「身近な方を講師に招いての勉強会といった企画を頻繁に行っていきたいと思っています」と、これからも、会員間の“学び合い”を大切に、商工会活動を通じて箕輪町をより盛り上げていきたいと意気込みを語ります。
“生きがい”の剣道で「摂心館」を設立、母校の日吉台中に感謝の想い
飯山さんが、「生きがい」と感じているのが、1987(昭和62)年に設立した「剣道同好会 摂心館」での時間。小学校5年生、10歳の頃から剣道を始めたという飯山さんは、当時、箕輪町から高田町の興禅寺(こうぜんじ)内にある自彊館(じきょうかん)武道場まで通っていたといいます。
日吉台中学校に進学した飯山さんは剣道部に入部。キャプテンを務めるも「あまり強いほうではありませんでした」と、立派な格技場がある現在と異なり、建てつけも悪いプレハブ倉庫を剣道場として借りて練習していたという当時を想い起こします。
中学卒業後、早稲田実業学校高等部(東京・国分寺市)、大学は早稲田大学教育学部(同・新宿区)に進学した飯山さんは、いずれも剣道部に入部。剣道の強豪校としていずれも知られていたことから、「だいぶ鍛えられたと思います」と、自身はやはりあまり強くなかったと当時を振り返りながらも、大学4年時には、関東学生剣道連盟の幹事長としても活躍し、運営する側として剣道の世界を学ぶことができたと学生時代を懐かしみます。
大学卒業後も「しばらくは就職もせず、大学時代からのつながりで、ドイツに剣道の指導で半年間滞在したこともありました」と、剣道を通じてドイツ北西部の都市・ハノーバーに滞在。現在もそのつながりから、ドイツ剣道連盟の会長が毎年来日する際には、交流も行っているとのこと。
帰国後に社会人経験も経て、実家である角屋商事に入社するも、「生きがい」となっていた剣道を続け、日吉消防出張所(箕輪町1)の職員が、箕輪町の子供たちを対象に剣道を教えていたのを引き継ぐ形で「摂心館」を設立。
出身校である日吉台中学校の格技場は、自身の時代とは異なる立派な建屋に生まれ変わっており、「今も、このような立派な設備を使用させていただけていることに、心から感謝しています」と、懐かしい自身の学生時代も振り返りながら、しみじみと今の道場を運営する環境についての感謝の想いを語ります。
世代越え70人超がつながる場に、世界をつなぐ道場は国際交流にも積極的
館名は、箕輪町にある寺院・大聖院(箕輪町3)の当時の住職・多田孝文氏が「摂心館」と名付けたとのこと。「摂心」とは、「座禅を修して、精神を一つの対象に集中させ散乱されないこと」。剣道の理念は「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」(全日本剣道連盟)というように、まさに武道を修業する上で、最も基本的で欠かすことができない心構えを意味していると飯山さんは説明します。
設立当時は14、15人だったという小学生たちは、今はもう40代に。昨年(2017年)には創立30周年を迎えた同館の館長として運営してきた飯山さんの指導や人柄は評判を呼び、現在は社会人の参加も増え、現在は小学校1年生から70代後半の大人まで、全体で70人以上の幅広い年代層が参加しています。
飯山さんのドイツでの剣道指導経験から変わらぬ「国際化」「国際交流」の想いも強く、来日する国際チームとの交流も積極的に行い、2007年には韓国遠征、2015年には日本武道館での世界大会開催を控えたマレーシア代表チームも来訪、交歓試合や稽古、懇親会も行ったといいます。
同館の指導方針は、稽古を通じて「感謝」や「思いやり」の心を学ぶという基本を維持しながら、“師弟同行の生涯剣道”を目指して、大人も子どもも、基本に重点を置きながら、同じ時間帯で稽古を行い、会員相互が協力することにあると、飯山さんは道場で世代を越えて「交流できる」同館の魅力についても熱く語ります。
対戦相手にも「感謝の想い」、人と人つなぐ剣道を“地域で”これからも
飯山さんは、剣道人なら誰でもが知っている言葉として「交剣知愛(こうけんちあい)」という言葉を挙げています。
「剣を交えて愛(おしむ)を知る」という意味とのことで、「剣道修行の神髄(しんずい)を表していて、私も常に意識している言葉です。単純に“愛を知る”と考えても良いのかもしれませんが、稽古をすることによって対戦相手を理解し、また対戦をしてほしい。それだけ相手を大事に思ってもらいたいと願っています。優しく言えば“感謝”と“思いやり”ということですが、修行を重ねていくと不思議とそういう気持ちが起こってくるのです」と飯山さん。
飯山さんの唱える“剣道”を通じて人と交わる理念に共感してか、現在も約15名所属している小学生ほか、親世代に至るまで、「摂心館」の門を叩き、稽古を重ねています。
週3回、日吉や綱島、高田、東京都内からも通う人がいるという稽古場には、10年、20年のブランクを経て復活したという社会人や、子どもがはじめたのに「自分がはまってしまった」という40代のサラリーマン、子育てママの姿も。格技場には、一糸乱れぬ老若男女の声が響く“緊張感”がほとばしります。
「基本的には、楽しいというよりは“修業”。生涯修業、生涯引退はない」と唱える飯山さんと、師範の影山好一郎さん(日吉在住)ら指導者を慕い、つながりを求め、多くの地域内外の“剣士”が集う時間が広がります。
歴史継ぐ老舗での仕事、商工会、そして「生きがい」の剣道。
各方面で活躍する、飯山さんの、ひたすらなまでに「人をつなぐ」生き様に、劇的な“超”少子高齢化を控えた昨今の日吉周辺エリアでの共感がますます広がっていきそうです。
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・箕輪町の交流支えたギャラリー池田、11月末で23年間の役割終え閉鎖(2017年11月24日)※箕輪町商工会の設立に参画
【参考リンク】
・「お米のかどや」公式サイト(角屋商事株式会社)
・港北区剣道連盟のサイト ※飯山さんは理事を務めている
(法人サポーター会員:箕輪町商工会 提供)