日吉村にあった巨大貨物拠点、「新鶴見操車場」に焦点を当てた企画展 | 横浜日吉新聞

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なぜ当時の「日吉村」に京浜間を代表する巨大な操車場が置かれることになったのでしょうか。

川崎駅前のミューザ川崎シンフォニーホールで今月(2022年)2月16日(水)まで開かれている企画展「鉄道操車場物語~新鶴見から塩浜へ」(川崎市市民ミュージアム主催)では、これまでほとんど取り上げられたことのない「新鶴見操車場」(新川崎駅の周辺)に焦点を当て、その誕生から終焉までの歴史に迫っています。

新川崎駅のホームからは今も貨物用の機関車が置かれる機関区や信号所が見える

現在も新川崎駅に隣接して残る貨物拠点の「新鶴見信号場」は、“東洋一”と称された新鶴見操車場の名残で、かつて全長5キロ、24万坪(約80ヘクタール)の面積を持つ貨物の一大拠点となっていました。

大正時代は品川に置かれていた貨物拠点が逼迫し、東京の南の玄関口として当時の鉄道省(旧国鉄)が目を付けたのが、横浜と東京の真ん中付近にあり、一面の田畑が広がっていた日吉村の鹿島田・小倉地区でした。

1957(昭和32)年の地図では新鶴見操車場の線路表示が埋め尽くしている、右側に南武線が通り、右上が鹿島田駅、右横が矢向駅。地図の上部、操車場の端に現在の新川崎駅が1980(昭和55)年に置かれた(横浜市建築局「横浜市三千分一地形図・矢向」より)

1929(昭和4)年に完成した新鶴見操車場では、東海道沿線など全国から集まった貨物列車の貨車をいったん切り離し、東北方面などの行先別に組み替えるという作業を24時間体制で実施。

昭和30年には1日平均6000両以上の貨物を取り扱い、1000人前後の職員が働いていたと言われ、周辺の北加瀬地区などには職員の住宅が設けられるなど、周辺は“鉄道の街”として栄えました。

今回の企画展「鉄道操車場物語~新鶴見から塩浜へ」では、新鶴見操車場の最盛期前後から1984(昭和59)年にその役割を終えるまでの写真や資料を展示するとともに、設置されるまでの経緯にも迫る内容となっています。

気が遠くなりそうなほどの線路が敷き詰められ、無数の機関車と貨車が集まる様子や、操車場の廃止が決まって廃車される大量の貨車で埋め尽くされる光景など、新鶴見操車場が歩んだ半世紀余を振り返ることができます。

2月16日(水)まで開かれている企画展「鉄道操車場物語~新鶴見から塩浜へ」の案内チラシ(公式ページより)

また、展示では見ることはできませんが、会場で販売されている図録には、今回の展示会を担当した川崎市市民ミュージアム(中原区等々力)の学芸員・鈴木勇一郎さんが新鶴見操車場の設置背景を考察する文章を掲載。

そこでは、川崎市が自らの勢力圏に置いていた日吉村との間が分断されることから操車場建設に反発したものの、日吉村の住民は反対することなく、できるだけ良い条件で移転できるよう鉄道省と交渉し、川崎市の動きは「迷惑」としてけん制していたことなど、興味深い調査分析も盛り込まれています。

当時の日吉村は、現在の川崎市側に新鶴見操車場横浜市側には慶應大学が進出を模索し、「旭日昇天(きょくじつしょうてん=きわめて盛んな)の勢い」があると言われた時代。操車場建設の動きを通じて日吉村の歴史を振り返ることもできそうです。

企画展は、川崎駅西口の「ミューザ川崎シンフォニーホール」の4階にある企画展示室で2月16日(水)まで、毎日9時から17時30分まで開催しており、入場は無料

現在の貨物列車はコンテナが中心となっている(新川崎駅付近)

このほか、企画展の公式案内ページには「川崎の鉄道操車場~今昔めぐり」と題した約40分間の動画も期間中に公開し、新鶴見操車場や貨物駅の痕跡を追って新川崎駅の周辺などを調査する様子を見ることができます。

今年は新橋と横浜間に日本で初めての鉄道が誕生してから節目となる150年。人を運ぶ列車だけでなく、見えないところで生活を支える貨物列車にもあらためて注目したいところです。

【関連記事】

「横浜の鉄道150年」を網羅、歴史博物館や都市発展記念館で特別展(新横浜新聞~しんよこ新聞、2022年3月23日)リンク追記

<コラム>自らの利益のため「日吉村」を引き裂いた大都市横浜と川崎の罪(2016年1月3日、日吉村の歴史について)

鉄道のまち・新川崎をめぐる「スタンプラリー」、10/10(土)から1カ月超(2020年10月7日、新川崎駅周辺の鉄道スポットについて)

【参考リンク】

2022年2月3日~2月16日開催「鉄道操車場物語~新鶴見から塩浜へ」の案内ページ(川崎市市民ミュージアム)

新鶴見操車場の紹介ページ(川崎市幸区)


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