<日吉本・綱島本紹介>慶應時代に日吉で過ごした“裕次郎”を描いた石原慎太郎作品 | 横浜日吉新聞

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日吉本・綱島本ブックレビュー

日吉本・綱島本ブックレビュー」は、日吉や綱島とその周辺が舞台となっていたり、ゆかりのある人が出ていたりする書籍や雑誌などを、ジャンルを問わずに紹介していこうという「不定期連載」です。

日吉本・綱島本ブックレビュー日吉では、1934(昭和9)年に慶應義塾大学が駅前にキャンパスを設け、綱島では大正期に樽町で発見された温泉によって駅周辺一帯に旅館街が形作られたことにより、首都圏で著名な存在となっていった両地は、幾つかの文芸作品の舞台としても登場することになります。

過去の日吉や綱島の風景を追想したり、知らない時代を想像できるような作品、あるいは最近の両地が描かれた著作を探し出し、この連載で紹介していきます。

1954(昭和29)年:石原慎太郎『灰色の教室』

連載の第1回は、今から60年以上前の1954(昭和29)年12月に発表された『灰色の教室』を取り上げました。作家・石原慎太郎の処女作として知られ、今も文庫本の『太陽の季節』(新潮文庫)内に、表題作の次に掲載されている短編作品です。

昭和30年代前半に芥川賞を受賞し、映画化されて“太陽族”という言葉が社会的な現象にまでなった『太陽の季節』と比べ、マイナーな感はありますが、『灰色の教室』で書かれたエピソードの一部は、『太陽の季節』でも生かされているため、著名作を生み出すための源流となった作品といえます。だからこそ、文庫本でも『太陽の季節』の次に収録されているのでしょう。

そんな作品は次のような描写で始まります。

K学園のハイスクールは、T河辺辺りのなだらかな丘の上にあった。駅の陸橋を渡って改札口から真直(まっす)ぐ校舎に至るぺイヴメントの両側には、絵葉書でよく見る外国(あちら)の何処(どこ)かの風景を、何とはなし想(おも)い起さこさせるような心持ちよい並木がつづいている。

冒頭にこう描かれた場所が舞台ですが、K学園を「慶應義塾」、T河辺を「鶴見川」と読みかえると、理解しやすいかもしれません。そして、主人公は、湘南の避暑地の海岸寄りに住んでいるという「石井義久」。

太陽の季節 灰色の教室

『灰色の教室』は新潮文庫版の『太陽の季節』に収録されている

作者の石原慎太郎は、2015年に刊行された『歴史の十字路に立って:戦後七十年の回顧』という本のなかで、この『灰色の教室』について

弟の放蕩の所産ともいうべき四方山(よもやま)話をもとに、私たちの大学とはだいぶ違った慶應という学校を想定し、いろいろ印象的な挿話を綾なして一種の青春群像を描いた」

と明かしていますので、主人公の「石井義久」は慎太郎の弟である「石原裕次郎」のこととみて間違いなさそうです。

石原裕次郎が創設した芸能事務所「石原プロモーション(石原軍団)」の公式年譜にも、1950(昭和25)年に「慶應義塾高校に入学 父からプレゼントされたトレンチコートを着て、横須賀線で通学する姿が女子高生の憧れの的となる」とあります。

神奈川県立の湘南高校を経て、国立の一橋大学に進学した作者の慎太郎にとって、弟・裕次郎の通う私立の慶應高校(塾高)は相当な異世界に見えたのか、『灰色の教室』では、学校やそこでの生活を事細かに描写しており、当時の慶應高校や日吉を知るうえで、非常に重要な資料ともいえます。

戦時中にほどこされた、黒いダンダラのカモフラージュが、未(ま)だ塗りつぶされずにはげかかって残っているところは、確かにK学園の洗練された無感覚さであり、このやたらに大きなコンクリートの建物は、成り金の勝手口に見かける、馬鹿気(ばかげ)て大きなセメントの芥溜(ごみた)めの大きさであった。

数年前に米軍の接収からようやく取り戻し、慶應高校として使われ始めた「第一校舎」を皮肉を交えてこのように評します。

空襲を避けるためなのか米軍の都合なのかで付けられた「黒いダンダラのカモフラージュ」がどのようなものかはわかりませんが、裕次郎が入学した昭和20年中盤はまだ、戦争の跡がかなり残っていたことがここから分かります。

人々はK学園に最も都会風で先端的な学風をおしつけていたし、学生達もあえてそれに甘んじ、努めてそれを粧(よそお)った。

と、慶應を想定したという「K学園」の学風についても言及したうえで、

そのような世間と学園の間の既定したなれ合いの下でK学園は、この無愛想で遠くから眺めるとふと大仕掛けの火葬場を思わせる、とはいえそれ程までの崇厳(すうごん)さもない厭味の建物を、洗練された都会的感覚のシンボルとしておしつけるあくどい無性振りを見せているのだ。

慶應高校が使う日吉キャンパス内の第一校舎

このように「第一校舎」について再び“攻撃”を加えています。今では歴史的な建築物として評価されている建物ですが、石原慎太郎作品に登場すると、“成金の勝手口にあるセメントの芥溜(ごみた)めの大きさで、遠くから見ると大仕掛けの火葬場を思わせ、それほど崇厳さもない厭(いや)味な建物”という身もふたもない表現になってしまいます。

日吉キャンパス内にそびえ、占領軍も重宝したコンクリート製の第一校舎や第二校舎。ここまでしつこく書き残すということは、作者である慎太郎や主人公である“裕次郎”の胸に、この校舎がよほど印象深く刻み込まれていたのかもしれません。

慶應を想定した「K学園」への皮肉と日吉の街

作品では、石井義久こと“裕次郎”から見たと思われる昭和20年代の中盤から後半の慶應高校内の描写を中心に、「坂下の駅向うにある数多い麻雀屋」が登場する日吉駅前の商店街も興味深いところです。

理論を好まぬ生徒たちを勉強と言う名の下で遊ばせるために、理科の教師は時間の度に子供じみた実験を彼らにやらせた」という理科系の授業では、消火器や花火など「子供の玩具(おもちゃ)」も生徒によって勝手に作られ、悪戯に充分に役立てられたといった一連の描写は、男子高ならではの微笑ましいともいえる光景。

一方で、学内にある靴店からバスケットシューズを盗み出したり、学内書店で辞書を8冊も失敬したりしたとのエピソードにあるように、今では考えられない生徒の“悪ガキ”ぶりも見逃せないところです。

殆ど、何事であれ金で解決をつけてくれ得る境遇に育った彼等にとって、唯(ただ)でものを取るということは常に新鮮な体験であった。

と解説し、学内の商店から物を盗む生徒らに対し、「猛獣狩りとかスポーツに近い快感と興奮を彼らに与えるのだ」「落ちつきのない動物のそれに近い欲望」などと分析を加えています。

動機はなんであれ、たとえ彼等の場合の如(ごと)くそれが皆無であっても盗みは矢張り許されぬものであると言うことを彼等はどうしても理解は出来ない。恐らく将来もこれと同じ割り切り方で彼等は商売をし事業を継ぐことだろう。

「何事であれ金で解決をつけてくれ得る境遇」や「これと同じ割り切り方で商売をし事業を継ぐことだろう」という部分に、慎太郎ならではの皮肉を込めながら、当時のK学園こと慶應の生徒に対する世間の評価の一端を現したかったようにも見えます。

一方、学校内以外の日吉におけるまとまった描写自体は、作品内にそれほど多くはないのですが、

行きつけのレストランはもう常連客で可成り立て混んでいた。小さな店の内には、音高く鳴らされるラジオの、FEN昼のジャズアルバムに乗って煙草(たばこ)の煙が渦巻いている。

こんな一文からは、今はもう残っていない当時の日吉駅前にあった学生向けレストランや喫茶店の活気ある雰囲気を感じ取ることができるのではないでしょうか。

そして、アメリカに憧れた世代の人々には「FEN」(米軍のためのラジオ放送)という文字にもたまらない懐かしさを感じ取れそうです。充満した煙草の煙もFENも、学生がたむろするレストランも、今の日吉では見ることが難しい光景です。

バスケを断念し目標を失った“裕次郎”の放蕩

日吉キャンパス内にある慶應高校とみられるK学園内での日常と、3年生になった石井義久こと石原裕次郎の放蕩の日々が描かれた『灰色の教室』は、目標を失った裕次郎が変わりつつあった頃の出来事がもとになっているようです。

石原プロモーションの石原裕次郎特集ページには詳しい年譜も掲載されている

公式年譜には、1951(昭和26)年の慶應高校2年生時に「オリンピック選手を目指して打ち込んでいたバスケットだが、左足骨折のため、断念度重なるショックから酒と麻雀に走る」とあるように、作品中にもバスケットボールの話はまったく出て来ず、日吉駅前とみられる麻雀屋のシーンばかりが目立ちます。

2回にわたって自殺を図って失敗した級友・宮下嘉津彦による3回目の自殺との関わりや、幾人かの麻雀仲間との虚無的な毎日に、一年前から交際しているという3歳上の美知子との交渉が描かれ、堕胎を望むか否かを悩みながら迎える結末。

これらを日吉を中心とした場所で“裕次郎”の周辺に起こっていたこととして読むと、「虚(むな)しい中にある人生の真実を執拗(しつよう)に追求している」(文芸評論家・奥野健男氏、新潮文庫版「解説」)という文学的な評価とはまた違った形で、この作品が味わえるとともに、懐かしい日吉の風景をよりリアリティを持って想像できるようになるはずです。

(引用はすべて新潮文庫版『太陽の季節』内の『灰色の教室』より)

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昔の日吉は“雀荘天国”で退廃的だった――裕次郎もいた1950年代を写真・記事で特集(2016年9月26日)

【参考リンク】

石原慎太郎『太陽の季節』についての紹介(新潮社、文庫版に『灰色の教室』も収録)

石原裕次郎の年譜(石原プロモーション)


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