戦前は西口ヨーカドー付近にあった「東京園」、綱島温泉をめぐる3つの意外な歴史 | 横浜日吉新聞

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今から90年ほど前、綱島西口のイトーヨーカドー付近にあった割烹(かっぽう)温泉旅館の「東京園」。創業者と大倉精神文化研究所との関係や、東北の女学校が学徒動員時に宿舎としていたことなど、知られていなかった綱島温泉の一断面が意外なきっかけから浮かび上がってきました。

大正初期に樽町の大綱橋付近で見つかり、旅館街が綱島駅周辺へ広がっていった綱島温泉。太平洋戦争時の空襲で樽町側の旅館が減り、戦後は駅のある綱島が温泉街の中心に変わっています。

東京横浜電鉄(現東急電鉄)の直営浴場。同社は乗客増を狙って1927(昭和2)年春に直営の公衆温泉浴場を綱島温泉駅(現綱島駅)の駅前東口に設けたが、温泉どころではなくなった戦時中は東芝や兵隊の寮に変わったとされ、戦後になると1948(昭和23)年ごろまでに「東京園」が買収し、2015(平成27)年5月まで公衆浴場として営業した(1933年~1935年に東京横浜電鉄から発行された「綱島温泉浴場案内」より、大倉精神文化研究所所蔵)

戦時にすべての旅館が一度は廃業に追い込まれたものの戦後に復活。“東京の奥座敷”と呼ばれて高度経済成長期までは発展を続けましたが、今から9年前の2015(平成27)年5月に綱島東1丁目の浴場「東京園」が東急新横浜線と新綱島駅の建設にともなって無期限休止に追い込まれ、以降は温泉施設が消えたままの状態です。

平成期の綱島温泉を象徴する公衆浴場だった東京園は、綱島駅東口の綱島街道沿い(現新綱島駅、新水ビルとなりの敷地)で戦後間もないころから70年近くにわたって営業。

そのため“東京園イコール綱島東口”というイメージが定着しており、創業時から戦前まで「イトーヨーカドー綱島店」(綱島西2)の付近で割烹温泉旅館として営業していた歴史は、ほとんど伝わっていません。

公衆浴場の「東京園」といえば2015年の無期限休止時まで使われていた綱島街道沿いの黄色い建物がおなじみ。1975(昭和50)年9月の火災後に新築された2階建ての建物内には浴室だけでなく、カラオケなどができる集会スペースや庭もあった(2012年撮影)

戦前の東京園があった『南綱島907番地』という住所は今のヨーカドー付近にあたるのですが、東口ではなかったので最初は少し考え込んでしまいました」と大倉精神文化研究所(大倉山2=大倉山記念館内)で理事長をつとめる平井誠二さんは話します。

東京園についてあらためて調べることになったきっかけは今年の春、北海道大学の研究者から詳しい場所を質問されたことだったといいます。

東北の女生徒が宿舎とした東京園

戦前の東京園について平井さんに尋ねたのは、北海道大学の名誉教授で「学童集団疎開史~子どもたちの戦闘配置」などの著書を持つ逸見勝亮(まさあき)さんです。

逸見勝亮さんの著書「学童集団疎開史~子どもたちの戦闘配置」(1998年、大月書店)

逸見さんは太平洋戦争時に行われた学徒勤労動員の実態を調べるなかで、岩手県水沢市にあった旧水沢高等女学校(水沢高女=現県立水沢高校)の出身者が残した回想録に着目。

当時の生徒が川崎市木月(現中原区木月住吉町)に置かれていた「東京航空計器」の本社工場(現在の中原平和公園付近)へ勤労動員された際、宿舎として使った施設のなかに東京園と、隣接する「里乃家(里の家)」という2軒の旅館があったことを見つけました。

元住吉駅から徒歩5分ほどの綱島街道沿いにある「中原平和公園」(5月4日)

「水沢高女の生徒らは終戦の年である1945(昭和20)年の2月綱島の宿舎へ入り、工場まで日々通っていたようです。東京航空計器に動員された学校のなかには青森県の弘前中学校という名も見られましたが、どの地域の学校がどれだけ動員されたのかは、はっきりと分かっていません」(逸見さん)

水沢高女の生徒らが東京航空計器で勤労を始めた約2カ月後の4月15日には「川崎大空襲」が発生。工場が焼失して仕事が無くなったうえ、身の危険を感じたことから、会社などの反対を押し切って岩手県に帰郷したといいます。

中原平和公園の場所は戦前まで「東京航空計器」の本社工場があったが、終戦後は米軍に接収され、1975(昭和50)年の返還時までは「木月米陸軍出版センター」として使われていた(5月4日)

遠く神奈川の地で勤労動員に就いた2カ月間の思い出は「回想録」という形で残され、そこには東京園の本館3室に55人、新館2室に14人、里乃家には28人が分かれて入ったなどの記録が見られます。

当時、東京園の庭には池があり、料亭だったためか上と下に大広間が二カ所設けられ、里乃家には一戸建ての離れも存在。戦火が激しくなったこの頃、すでに温泉旅館としての営業は取り止めており、風呂への入浴はできなくなっていたようです。

また、「東照寺」(綱島西1)の裏手には横穴式となっている防空壕(ごう)があり、町民全員が入れるほど大きかったという回想もありました。

「当時は富士山がきれいに見えたらしく、そんな思い出話もあります」(逸見さん)

戦前の綱島温泉の旅館イメージ(旅館名不明、大倉精神文化研究所所蔵の温泉案内チラシより)

逸見さんは工場のあった元住吉付近や宿舎となった綱島の周辺を歩き、関係先の調査を重ねますが、当時の東京園と里乃家の詳しい場所が分からず、思い切って訪ねたのが大倉精神文化研究所だったといいます。

戦前の綱島温泉と花柳界に挑む

逸見さんからの質問を受け、東京園といえば東口だったはず、というイメージを持ちながらも調査を始めた平井さん

過去に収集していた綱島温泉関係の資料を探るなかで、見つけ出したのが1936(昭和11)年ごろに制作されたとみられる東京園のリーフレットでした。

大倉精神文化研究所が所蔵する1936(昭和11)年ごろに制作されたとみられる「東京園」のリーフレット。東京園は1932(昭和7)年ごろの創業とされている

「東京園」が西口(南綱島907番地)に置かれていた頃の地図、となりは大型旅館「梅島(梅島館)」(現「梅島ニックハイム綱島第7」など)となっている(大倉精神文化研究所所蔵、1936年ごろの「東京園」リーフレットより)

研究所が所蔵していたこのリーフレットには、西口に置かれていた東京園の場所が地図で示されており、他の資料とも照らして現在のイトーヨーカドー付近であったことが判明しました。

加えて大きな発見となったのは、当時の詳しい営業案内だけでなく、綱島温泉の展望や東京園が果たす使命といった点まで、こと細かに記されていたことです。

リーフレットには「東京園の使命」として、花柳界の改革や綱島温泉の「協同調理場」創設などが書かれている(大倉精神文化研究所所蔵、1936年ごろの「東京園」リーフレットより)

特に当時の花柳界(かりゅうかい=芸者などの社会)に対する強い思いが随所に盛り込まれており、「暗い過去の綱島を精算し明るく朗(ほが)らかに」と訴えます。

“東京園の使命”として「花柳界の廊清(かくせい=悪い部分を取り除く)」や「花柳病(性病)の撲滅」を説き、「全国花柳界の革命を期す」などと並々ならぬ思いも残されていました。

また、営業案内のなかには「綱島と云へ(いえ)ば二人連れの場所と早合点なさる方が多く、『家内や子供を連れてきて良いか』とお尋ねの向(むき)が随分(ずいぶん)多い」といい、温泉地という点で「箱根や、湯河原と少しも変わり御座いませぬ」という内容も見られます。

東京園の営業案内には、現状の綱島温泉に対するイメージを変えたいという思いが随所に現れている(大倉精神文化研究所所蔵、1936年ごろの「東京園」リーフレットより)

「東京園の創業者である中村忠右衛門(ちゅうえもん)氏温泉組合長もつとめた人物で、旅館を経営する前は都内の小学校教員でした。当時の綱島に対するイメージを何とか払拭しなければとの思いを感じます」(平井さん)

忠右衛門氏は戦後、1951(昭和26)年に開校した綱島小学校(綱島西3)へ体育館を建設するための募金活動などに奔走したことでも知られています。

中村忠右衛門氏の写真と、長男・忠相氏によるインタビュー記事の一部(1954年港北新報社「われらの港北 十五年の歩ミ(あゆみ)と現勢」より)。なお、忠右衛門氏のプロフィールは「長野県上伊那誌 第4巻 (人物篇)」によると、1881(明治14)年3月に長野県長谷村(現伊那市)で生まれ、長野師範学校を卒業後は長野県内で小学校教員をつとめた後に上京。霊岸小学校(深川区=現江東区)在職中の1932(昭和7)年には皇后陛下による御前授業も担当して退職したという。東京時代は教員生活のかたわら、代々木深町(現在の渋谷区富ヶ谷付近)で妻に学生寮を経営させていたといわれる。30年間の教員生活を経て1932(昭和7)年ごろに綱島で東京園を開業、1961(昭和36)年12月に81歳で亡くなっている

また、1954(昭和29)年に刊行された「われらの港北 十五年の歩ミ(あゆみ)と現勢」(港北新報社)では長男の中村忠相氏が登場し、当時73歳だった父・忠右衛門氏について「綱島の発展はラジウム温泉郷として明朗な楽しい街になることだと、よくいっていました」と振り返っています。

その歩みは「正しくないその不正と戦うことが父の人生」「それでいてその人を憎んでいないのですから、ほんとうに悪を憎むために生きているのでしょう」といい、敵が多いので困るが、最近は年をとって丸くなったなどとのコメントを残していました。

戦前の綱島温泉旅館を紹介した「東横目蒲池上電車」名によるリーフレット(1933年~1939年ごろ発行)には、西口に東京園(丸2番)は見えるが、梅島館(丸9番)の場所が駅前付近にあったり、東京園に隣接していた「里乃家」も載っていなかったりする(大倉精神文化研究所所蔵)、こちらの別地図のほうが戦前の温泉街が最盛期だった頃の実態に近い可能性がある

東京園の創業者と大倉邦彦氏は旧知か

戦前の綱島温泉に対する世間のイメージが芳しくなかったことに対し、西口の割烹温泉旅館を開業した東京園が奮闘して変革を挑んだものの、戦時には営業を取り止めざるを得なくなり、学徒勤労動員の宿舎として使われていたことになります。

そして、新たにもう一つ分かったのは、東京園大倉精神文化研究所の関わりでした。

研究所が所蔵していた東京園のリーフレット内に、創設者である大倉邦彦氏が東京園の忠右衛門氏複数回にわたって会ったという走り書きが見られたのです。

リーフレットに書き残された大倉氏のものとみられる走り書き(大倉精神文化研究所所蔵、1936年ごろの「東京園」リーフレット=一部分=より)

そこには大倉氏が1936(昭和11)年1月28日に東京代々木忠右衛門氏を訪問し、「綱島温泉に移転せられたり」「その意外の話に驚き」などと書き、翌日も再訪したとの内容が残されていました。

「大倉邦彦が中村忠右衛門氏と会ったという記録はこのメモ書き以外に見つかっておらず、その関係も定かではないのですが、忠右衛門氏は元教員で、大倉も教育者だったという共通点があります」(平井さん)

大倉氏1882(明治15)年4月の生まれで、忠右衛門氏1881(明治14)年3月生まれとほぼ同年代であり、大倉氏は1932(昭和7)年に太尾町(現大倉山)で精神文化研究所を開設し、忠右衛門氏も同時期に綱島で旅館を開業しています。

大倉精神文化研究所を創設した大倉氏のプロフィール、実業家として成功したのちに研究所をつくり、東洋大学の学長にも就いている(2021年7月大倉精神文化研究所「マンガで学ぶ 大倉邦彦物語」より)

両氏は同じ時期に港北区(当時は神奈川区太尾町と南綱島町)内で隣接する地域へ進出していたことになりますが、互いにそれを知ったのが4年ほど後の1936(昭和11)年だったことから「その意外の話に驚き」というメモ書きにつながった可能性があります。

「大倉が残していたのは『舊(旧)下宿中村氏を代々木に訪問す』『旧借、中金五十円也、返礼』という内容です。これは想像なのですが、大倉が郷土の佐賀から上京して英語学校などに通っていた若い頃、忠右衛門氏が営んでいた代々木の下宿で世話になったか、あるいは下宿をしないまでも借金をしていたが、そのまま月日が過ぎ、この時に返済したということも考えられます」(同)

このほかリーフレットには「70億」や「樽500→800」といった意味深な書き込みも見られますが、平井さんは「これはまったく想像がつきません」といいます。「もう一つの『寺はさや(鞘)信者は中身』という文字は、大倉が1000編ほど書いていた『感想』という短文のためのメモだと思われます」と90年近く前に書かれた文字を読み解きました。

起業家精神と教育者の気質を併せ持ち、港北区の発展にも影響を与えた2人は、どのような経緯で知り合い、どんな話をしていたのか。気になるところです。


今年8月18日に閉店する予定の「イトーヨーカドー綱島店」は1982(昭和57)年3月にオープン。正面のパデュ広場とともに温泉街から転換した商店街の中心的な場所だった(2023年10月)

戦前の東京園を皮切りに「相川屋」や戦後の「石水亭」「なか川(奈可川)」「吉蔦(吉つ多)」など温泉旅館が軒を連ねた綱島西口の一画は、1970年代の旅館閉館と大手スーパーの進出反対運動による数年間の“塩漬け”期間を経て、1982(昭和57)年にイトーヨーカドー綱島店に生まれ変わりました。

温泉街の転換を図った再開発で中心的な存在となった同店も開店から42年。今年8月の閉店が決まったことで、90年近くの歴史を刻んだこの場所に再び新たな変化が始まるのかもしれません。

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