<昔の綱島を語る>温泉街の衰退や水害、再開発と区役所誘致の思い出も | 横浜日吉新聞

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【講演レポート】最後の分教場通いや頻繁に起きた恐ろしい水害相撲や温泉の記憶、区役所の誘致計画など、“昭和の綱島”を振り返る貴重な機会となりました。

会場の綱島地区センターには座席が足りなくなるほど参加者で埋まっていた(2月6日)

港北区の成り立ちや歴史などを学ぶ「港北地域学」講座(港北区主催)の第3回「子どものころの綱島について語ろう」が今月(2023年)2月6日に開かれ、地元に長年住む3人の町内会・自治会長が昭和時代の綱島の思い出を語りました。

分教場(分校)の存在や区役所の誘致計画、沼地のようだった綱島東エリアといったあまり広くは知られていない話を含め、当時の子どもたちの好奇心をくすぐった「防空壕」や「木船」など、地域の暮らしから見えた“綱島の歴史”はどういうものだったのでしょうか。

当日の講演要旨を以下にご紹介します。

港北地域学講座「子どものころの綱島について語ろう」

<登壇者>

左から中森さん、佐藤さん、竹生さん

  • 中森伸明さん(綱島中央町会会長)
  • 佐藤誠三さん(綱島地区連合自治会会長)
  • 竹生寿夫(たけおひさお)さん(綱島上町自治会会長)
  • 司会:安藤恵子さん(綱島東親和会会長)

2教室だけの「分教場」へ通った時代

  • 司会(綱島東親和会会長・安藤恵子さん)

まずは幼少期の思い出からお願いします。

  • 中森伸明さん(綱島中央町会会長)

隣の佐藤さんは私と1歳違いですが、私は綱島小学校(1951年=昭和26年4月創立)の7期生で、佐藤さんが8期生になります。私が小学校1年生の頃はまだ「分教場」(分校=開校当初は綱島小の教室が足りなかったため)に通っていました。

今の川崎信用金庫綱島支店(綱島西1)の横を入った山裾に駐輪場がありますが、そこに2教室だけの分教場がありました。私と佐藤さんが分教場へ通った最後の世代です。

)綱島には1916(大正5)年から大綱小学校(太尾町=大倉山)の「綱島分教場」が当時の南綱島621番地に置かれており、綱島小学校の開校後もそのまま「綱島小学校分校」として低学年向けの教室に使われ、呼称(通称)は以前の“分教場”が使われていたとみられる。この分校は1955(昭和30)年3月末で廃止されている。場所は現在の「綱島西口自転車駐車場(駐輪場)」の付近だった。

  • 佐藤誠三さん(綱島地区連合自治会会長)

1年生と2年生の時は、中森さんと同じ分教場へ通っていました。ここの裏に防空壕(ごう)がありまして、かなり遊んだ記憶があり、楽しい思い出です。

  • 竹生寿夫(たけおひさお)さん(綱島上町自治会会長)

私の姉は「分教場」育ちでしたが、私自身は中森さんや佐藤さんより5つ6つ下ですので分教場のことは分かりません。

防空壕の話が出ましたが、この「綱島地区センター」付近にも5つ6つあり、その1本が「東照寺」さんの裏までつながっていました。

入ってはいけないのですが、そういうところへ入るのが楽しくて。今のように住宅地ではなかったので、山の中を走り回って一日中過ごしていました。

中学は電車通学、東小付近は怖い沼地

  • 中森さん

私や佐藤さんが綱島小へ通っている頃は、田んぼばかりで夜は真っ暗。親から「旅館街のほうはあまり通るな」と言われていた記憶があります。

  • 佐藤さん

綱島の東側では、綱島東小学校(綱島東3)が1971(昭和46)年に創立しましたが、昔は道が一本もない湿地帯で、何もありませんでした。

ひどい沼地で入ると首までつかる感じで、もぐってしまうんです。蓮(はす)田をやっていて亡くなった方も確かいたと思います。それくらい怖かったところでした。

東京オリンピック(1964年)前の昭和36年くらいに横浜市が耕地整理をしまして、今は周辺が碁盤の目のようになっているのはそのためです。

  • 司会

中学生の頃はどうでしたか?

  • 中森さん

私たちの時代は樽町中学校(樽町4、1972年=昭和47年4月創立)もありませんので、大綱中学校(大倉山3)まで電車で通いました。

  • 佐藤さん

私も東横線で大倉山まで通いました。ちょうど綱島駅の高架工事が始まっている頃です。

  • 竹生さん

私もみどり色の電車(東横線の古い電車)で大倉山まで通っていましたが、帰りは途中に友達がいるので、ぶらぶらと歩いて帰るような感じでした。

  • 佐藤さん

私は大倉山公園の「梅園」を通って(大曽根台経由で)綱島のほうへ遊びながら帰ってましたね。

相撲がさかんな綱島、大人も広場で競う

  • 司会

綱島小学校は校庭に土俵が置かれていますが、これはめずらしいのではないでしょうか。

2022年7月に綱島小学校の土俵で5年ぶりに開かれた第50回記念「綱島子どもすもう大会」の様子

  • 中森さん

昭和56年(1981年)に綱島中央町会が「何か記念に残るものを」ということで、基金を募って綱島小に土俵を作りました。

隣の日吉からは「武蔵山」(戦前の第33代横綱)が出ていますし、綱島公園の近くに「パークサイドレジデンス」というマンションがありますが、昔はそこが大きな広場になっていまして、大人相撲もやっていて、綱島は相撲のさかんな地域だったと思います。

武蔵山が横綱に昇進した際の祝賀会は綱島温泉の旅館「水明」で開かれ、後援会長には飯田助夫氏(大綱村長などをつとめた飯田家12代目)が就いている(2019年3月港北図書館「第33代横綱 武蔵山展~日吉から大相撲の頂点へ」で撮影)

土俵ですが、その当時、綱島温泉の旅館が衰退し、綱島の街では色んな建築会社がマンションを建設しており、そのなかの1社が格安で受けてくれました。

設計は地元の設計士が担当したのですが、普通の建築設計はできても土俵の経験はなく、後から直したりした思い出がありますね。土俵は今、教育委員会が所有しています。

  • 佐藤さん

もっと昔は綱島諏訪神社(綱島東2)で「奉納相撲」をやっていまして、それを引き継ぐ形で小学校に土俵ができたものです。

今も夏に行われている「こども相撲大会」は、かつて5日間にわたって開いていました。

焼けた諏訪神社の再興と夏祭り復活

  • 中森さん

綱島諏訪神社は昭和36年(1961年)に不審火で燃えてしまい、その後は夏の例大祭を行っていませんでした。そこで昭和48年(1973年)に綱島東の農家の方々が基金を集めて再興しました。

今、綱島温泉町自治会で会長をつとめる猿渡功さんのお父さん、茂さんが夏祭りを復活させようと商店街に「綱島一番会」という会を立ち上げました。「綱島で一番元気な会を」と名付けたものです。

綱島一番会は商店街にとっての若手会みたいな感じでした。結成から半世紀近く経って若手じゃなくなりつつありますが、横浜市内で“青年部会”として残っているのは綱島くらいではないでしょうか。

今も綱島一番会は「つなしまサマーフェスティバル」など色んな行事を開いています。

海のようになった水害、地下にも水が

  • 佐藤さん

上の写真は昭和33年(1958年)9月の「狩野川(かのがわ)台風」時の写真です。写真左側に「屋」と書かれた看板が見えますが、これは「旭屋旅館」といって、現在の「綱島中町自治会館」(綱島東1)へ向かう入口付近です。

子どもの頃でしたが、胸くらいまで水につかりました。この時はすごかったです。少しでも道路の脇に入ると体ごと水に入っておぼれてしまう、怖かったですね。

  • 中森さん

狩野川台風の時は、樽町のほうを見ると海みたいになっていました。私は中学の1年でしたが、親父と畳を2階に上げるなど、えらい大変な思いをした記憶があります。

昔は下水の処理が上手くいっていなかったのか、道路冠水もけっこうありました。昭和50年代にも、昭和51年(1976年)9月(台風17号)や、昭和57年(1982年)9月(台風18号)に冠水がありました。

私の店(綱島西口の時計・眼鏡・宝石店「中森」)は昭和55年(1980年)にビル化したのですが、昭和57年の台風では地下まで水が入ってしまいました。

昭和57年は3月に「イトーヨーカドー綱島店」(綱島西2)がオープンしていたのですが、9月の台風では地下に水が入ってしまって数日間にわたって営業停止となった記憶があります。

  • 佐藤さん

このあたりは水が出ることをみなが知っているので、農家の人たちはあらかじめ「木船」を持っています。

幼い頃、この木船で遊んだ記憶がありまして、危なくていけないことですが、これが楽しいんです。

  • 竹生さん

昭和33年(1958年)の狩野川台風時はまだ6歳でしたので、あまり記憶にありません。

我が家の前も含め、この頃の綱島はほとんど田んぼばかりです。ここまで多くの水は出なくても、秋になって台風が来ると毎年のように水は出ていました。

台風明けはだいたい天気が良いのですが、学校は休みだし、先ほど佐藤さんが言ったように「木船」はあるし、それは子どもにとって良い休暇でした。(会場笑)

西口商店街、昔からの店は少なくなる

  • 中森さん

昔は西口駅舎の前、両隣に店が並んでいて、左右3軒づつ、6軒くらいかな。オオムラさんのお菓子屋さんとかフルーツ屋さんとか。

(昭和35年ころの商店街資料を見ながら)西口でその頃から続いている店は、うち(時計・眼鏡・宝石店「中森」)の並びでは吉原酒店さん、駅舎側では森さんの床屋(理容室「モリ」)さん、食堂「乃(の)んき」さんくらいかもしれません。

駅前の三井住友銀行付近は、古市さんの歯科医院や海苔とお茶のお店、ツカハラさんの乾物屋さん、それと郵便局もあったかな。この頃から現在まで営業されている店は本当に少なくなりました。

  • 竹生さん

先ほど郵便局の話が出ましたが、ここはうちの親父が局長だったのでよく遊びに行ってました。郵便局なのですが、電話の交換局もやっていました。昔は郵便局が兼ねていたんですね。

今の「綱島郵便局」は飯田さん宅(飯田家住宅)の隣(綱島台)に移り、駅側のほうは「綱島本通郵便局」に名前が変わっています。

うちの親父が「既得権を取られた」と言って、当時の郵政大臣だった田中角栄さん(のちに第64・65代総理大臣)に陳情に行っていた思い出があります。

綱島温泉はなぜ衰退してしまったのか

  • 中森さん

綱島温泉は、我々が成人を迎えるころにはすでに寂れ始めていました。

かつて「東京の奥座敷」ということで栄えていましたが、いわゆる「家族風呂」のようになっていなかったことや、昭和39年(1964年)の東京オリンピック時に東海道新幹線が開業したこともあって芸者さんも熱海のほうへ移ったりしていました。

先輩方からは芸者さんと遊んでいたなんて話も聞きましたが、我々は芸者さんが200人~300人いたという時代を知りません。

  • 佐藤さん

昔、我が家は「新水」という旅館をやっていました。昔の旅館は離れで“一軒一軒”という形なんです。

最盛期は旅館が約80軒あり、芸者さんは200人くらい、置屋が5つくらいあった。正月になると芸者さんが各旅館へあいさつに来るんですね。それが終わると本当のお正月ということになっていました。

  • 中森さん

綱島温泉が繁栄している頃は初代・林家三平さん(落語家)が新婚旅行に来ていましたね。五島慶太さん(東急の実質的な創業者)の“彼女”も綱島にいらしたような気が……

  • 竹生さん

子どもの頃、元芸者のおばあちゃんと話したことがありますが、客が「東横線に乗って多摩川を渡ると涼しくなった」と言っていたというんですね。

東京から綱島まで来ると、気温も変わるし、風情が変わるということで東京の人たちが綱島で遊んでいました。

それが東京オリンピックの時に高速道路ができ、新幹線ができ、熱海や箱根が近くなりました。

綱島が「東京の奥座敷」だったのが、もう少し先へ行ってしまうようになります。交通の便がよくなったことで綱島温泉が寂れてきたということです。

また、綱島街道がものすごい渋滞になり、多摩川をわたってこちらまで来るのにかなり時間がかかり、東横線も乗客が多くなっていました。

東京園と三橋美智也さんの思い出

  • 佐藤さん

上の写真は「東京園」(綱島で最後まで残った日帰り温泉施設)ですが、昭和45年ごろに火災で焼ける前のものです。焼けた後に建て直した建物は(2015年まで営業していた)黄色でした。

我が家はその隣だったのですが、建て直す前の東京園の庭には、ブランコなどかなりの量の遊具が置いてあり、結構遊んでいましたね。

  • 中森さん

中学校くらいまで我が家には内風呂がなかったものですから、東京園にはしょっちゅう行っていました。

小学校5年くらいまで母と女湯に入っていまして、たまたま同級生のイシイさんという女の子に会ってしまったらすごく恥ずかしがって……。それまであまり気にしていなかったのですが、急に私も恥ずかしくなって男湯に切り替えました。(会場笑)

先々代だったと思いますが東京園社長の中村忠右衛門さんは綱島小の講堂(体育館)建設にも関わっています。忠右衛門さんが提唱し、みんなで1円玉を集めて講堂を建設したので、“一円玉講堂”なんて呼ばれていました。

その際、三橋美智也さん(若い頃に東京園でボイラーマンとして勤めていたことがある著名歌手)がノーギャラでショーをやってくれたことを子どもながら覚えています。

温泉後の再開発で「区役所誘致」計画

  • 会場からの質問

温泉街から商業の街に変わる時の再開発はどのように行われたのですか?

  • 竹生さん

綱島西の温泉街における再開発ですが、先ほども申し上げたように交通事情によって綱島温泉にお客さんが来なくなり、旅館の皆さんが地代を払えないという状況に陥ってしまいます。

当時、うちの親父が再開発協議会の会長をしていまして、全体開発をしようという話を切り出しました。

東照寺さんの一室を借りて何年も話し合いを持ちましたが、「総論賛成、各論反対」という感じです。

旅館さんの経済状況はそれぞれ異なるので、一体で再開発を行うことは難しい、ならば各自個別で実施していこうという話になりました。

その際、壁面線を後退させ、1・2階を店舗にして、3階以上は住宅にするという基本的な方針を決めました。当時はまだ経済状況が良かったので、ビルを建てても(権利者に床として)戻ってくる面積は多かった。

また、再開発を行うにあたっては目玉がほしい、ということで港北区役所を誘致することを目指しています。

かつての港北区役所は今の港北図書館(菊名)の建物を使っていた

菊名にあった区役所(現在の港北図書館、1978年=昭和53年まで区役所として使われていた)を移転する話があり、その候補地として手を挙げたわけです。

当時、移転候補地となったのは、現在の大倉山駅近くの大豆戸町新横浜、そして綱島の3カ所です。

しかし、区役所は現在の大豆戸町に決まってしまいます。綱島は道路がまだ狭すぎるということでした。

当時、子母口綱島線の渋滞がひどく、日吉元石川線(荏田綱島線)が開通する前で、荏田(えだ、現青葉区)方面へ行く道路がここしかない。高田からうち(綱島西)まで車で30分かかったくらい渋滞の名所でした。

そんなところに区役所をつくって、一緒に消防署も入るとどうにもならない、だから区役所は(大豆戸町に)逃げちゃった。

今もたびたび渋滞する子母口綱島線(綱島小学校入口交差点付近)

また、旅館街の真ん中に区役所を作るのはどうなのかという話もあった。

ただ、うちの親父などは「新宿区役所を見よ、日本一の繁華街(歌舞伎町)が隣にあるではないか!」という話もしていましたが、綱島は交通事情で誘致に負けてしまったということです。

なお、今はイトーヨーカドーの前(パデュ広場)付近はきれいに整備されていますが、これは再開発として行ったのではなく、「綱島モール商店会」が独自に行った事業です。

綱島商店街は7つに分かれており、イトーヨーカドーの付近が「モール商店会」となっている(「綱島もるねっと」より)

  • 中森さん

パデュ広場の近くに蛇行した道路(車の速度を落とさせるためのクランク)がありますが、これは平成7年(1995年)度事業で綱島モール商店会が発注元となって実施したものです。

7500万円の事業費は主に横浜銀行から借りてやりました。もちろん行政からもかなり補助を受けています。

なぜ綱島に「彫刻」が置いてあるのか

  • 会場からの質問

綱島は街のあちこちに彫刻がありますが、温泉の街とどう関係があったのでしょうか?

  • 中森さん

1980(昭和55)年ごろ、横浜市内のあちこちに彫刻を設置しようという機運がありました。「横浜彫刻展(ヨコハマビエンナーレ)」に出展した彫刻も、作家の許可があれば移動しても良いということでした。

また、イトーヨーカドー綱島店が出店した時(昭和57年=1982年)、近隣への対策費ということで、当時のお金で2000万円くらいの拠出金を地元の再開発協議会や綱島モール商店街に出資しています。

商店街としては、アーチなどの構築物をつくっても、いずれはダメになるだろうという考えがありました。

横浜国立大学の三沢浩先生らが彫刻家・一色邦彦先生を紹介してくださり、1983(昭和58)年にパデュ広場で一色先生の作品「舞い降りた愛の神話」をつくったのがスタートです。

イトーヨーカドー綱島店、写真右下に彫刻も見える

当時、イトーヨーカドーの4階で一色先生の展覧会も行い、いくつかは販売もしました。今、「かごの屋(子母口綱島線沿いの和食レストラン)」さんの前にも一色先生の彫刻があり、梅島さんのビル(梅島ニックハイム)のとこや、西口駅前の三井住友銀行のところにも。

私のところ(時計・眼鏡・宝石店「中森」)も、先生と交渉してうんとまけてもらって。前は店の奥に置いてあったのですが、その後に台座を西口商店街に出してもらって商店街に飾っています。

綱島には一色先生の作品が10体以上あると思います。

興味のある方からは「綱島は案外文化度が高いんですね」とお褒めをいただくことがあるんですが、知らない人はまったく関係なく街を歩いていると思います(苦笑)。

(当日の講演要旨は以上です)

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昭和の綱島はすごかった、2月6日(月)に地区センターで「港北地域学」講座(2023年1月20日)

「綱島の歴史」に関する記事一覧(横浜日吉新聞)

何もなかった街「新横浜」変貌の軌跡、駅開業から60年の思い出を語る(新横浜新聞~しんよこ新聞、2024年1月12日、翌年は新横浜の思い出を語り、綱島温泉の衰退が新横浜へのホテル進出につながったとの話題も)リンク追記

【参考リンク】

港北映像ライブラリ~映像でみる港北区(今回の講座を映像で公開する予定も)


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