隈研吾さんが「港北地域学」で講演、古里と建築のつながりを語る

横浜日吉新聞

【講演レポート】生まれ育った大倉山への深い思いと、その後の建築に与えた影響が明かされました。

港北区区民活動支援センターは今年(2022年)2月に新型コロナウイルス禍の悪化で開催を断念していた「『港北地域学』特別講演会~建築家 隈(くま)研吾氏 大倉山を語る」を再び企画し、今月9月3日(土)に港北公会堂で開きました。

基調講演を行う隈さん(9月3日、港北公会堂)

国立競技場(東京都新宿区)や高輪ゲートウェイ駅(東京都港区)などの著名建築物の設計で知られる建築家の隈研吾さんが生まれ育った大倉山を語る貴重な機会として、特別に企画されたこの講演会。

2月に聴講者220人超を先着順で募集した際は数分間で満席となるなど大きな注目を集めましたが、「まん延防止措置」が発出されたため、中止となっていました。

その後、隈さんがスケジュール調整を快諾し、開催が実現したものです。

フリーディスカッションでは“地元トーク”で盛り上がっていた

今回は前回募集時に聴講が決まっていた200人超(会場定員の半分以下)の区民を招く形とし、多くの区民は聴講できなかったため、基調講演とフリーディスカッションの概要をお伝えします。

隈さんが持ち続けてきた大倉山への秘めた思いと、その後の建築に与えた影響、幼少時の思い出など、広く知られていないエピソードが詰まった2時間半となりました。

約30分間の基調講演と90分超のフリーディスカッション・会場からの質問と回答の概要は次の通りです。

隈研吾さん基調講演

ご紹介いただきました隈です。自分の家の近くで講演することは初めてなので、どんな話をしようかなと思っていましたが、やはり大倉山の話を中心にしたいと思っています。

後で大倉精神文化研究所の話とか、逆に僕がいろいろと伺いたいなと思っていました。

なぜ私がそもそも大倉山で生まれたかというと、うちの母方の祖父が東京の大井で医者をやっていたのですが、変わり者でした。変わり者というのは、都会が嫌いで畑仕事が好きで、週末になると大倉山へ畑仕事に来ていました。

今でも実家は残っていますが、そのすぐ裏、僕が本(2014年の著書「僕の場所」大和書房)のなかで「ジュンコちゃんち」と呼んでいる漆原さんのお宅なのですが、そこから土地を土いじりのために借りて、週末になると来ていたということが、そもそもの始まりです。

隈さんのプロフィール(当日パンフレットより)

そのおじいちゃんが建てた土いじり用の家ですから、大きなうちではなくて小さなうちです。

その後、うちの母親、おじいちゃんの娘ですが、新婚用に引き継いで、そこで僕が生まれたというのが始まりです。

大倉山が僕のつくるものに、どのように関係しているかということを、今日は何とかつなぐものを考えていきたいと思っています。

大倉山の「里山」が与えた影響

まず、うちのおじいちゃんは畑仕事が好きで、土が好きでした。僕もおじいちゃんと一緒に庭に種をまいて野菜を育てることが大好きでした。

子供のころから「じじくさい変な子だ」と言われていました。子供はもっと快活に遊ぶと世間は思っているのに、僕は種をまいて野菜を手入れして育ててみたいなことが好きでした。

それから、焚き火も好きでした。「土の周りで地味な子供だ」と言われていたことが私の原点です。今の自分は土いじりの延長上にあるという気がします。

もう1つは「里山」がすぐ裏にあったことがすごく重要です。

実はあの山を里山と呼ぶということを全く私は知りませんでした。里山という言葉が世の中で盛んにいわれるようになったのは、多分2000年ぐらいではないかと思います。

愛知万博(愛・地球博)」を覚えていますか。僕は1998(平成10)年から愛知万博の「会場構成委員会」の委員長を仰せつかりました。

会場構成委員会は、造園の先生、林学の先生、環境の先生がいっぱいいました。そういう先生方から里山ということを教わりました。

日本には里山があって、その麓に必ず農家があって、その農家の少し上に神社があって、これが日本の原風景で、それは単なる原風景ではなく、日本の経済を支えていたものが里山だった」ということを教わったのです。

なぜかというと建築の材料、木は全部里山から来ます。それだけではなくてインフラ、電気会社・ガス会社は最近のものですから、里山から持ってきた木で料理をして、お湯を沸かしてお風呂に入ってというのが昔の生活です。基本的なインフラが里山でした。

電気会社・ガス会社がないことを想像してみると恐ろしくなりますが、里山があれば何とか生きていけました。

日本の農業は里山の堆肥がないと農業ができません。農業も里山であるということは、里山がないと完全に生活できない、生きていけないということなので、日本人は里山の脇に住んでいました。

これは日本人だけではなく、古代から人間の基本的な在り方だということを梅原猛さん(哲学者、1925~2019年)が盛んに言っていました。愛知万博のときも梅原先生のご意見を伺いました。

隈さんと大倉山年表(当日パンフレットより)

映写した画像は古代ギリシャを想像してしまいますが、実際に古代ギリシャの様式からヒントを得ています。古代ギリシャも実は里山文化でした。

ところが、里山を全部切ってしまって、古代ギリシャの神殿は木でつくれなくなって石でつくったのだと。

この仮説は説得力があり、古代ギリシャの神殿をよく見ると、屋根を支える垂木など、全部木造のディテールです。これにも垂木っぽいところがありました。これはペディメントといいますが、こういうところに支える石があります。これは陰で見えません。

それは全部木造のディテールで、石でつくるときは、そんなものは必要ないのですが、昔の木造の記憶に従ってギリシャ人はつくっていました。

ギリシャの土は日本の土と違って石灰分が多いので、1回、木を植えて切ってしまうと、なかなか育ってこないので、ギリシャは木の文明、里山の文明から石の文明に大転換しました。それがギリシャのその後の西洋文化の型をつくりました。

里山がだめになってしまったことがギリシャをつくりました。日本は逆にラッキーなことに里山がずっとありました。そういうことでギリシャのようにならないで済んだのが日本です。まさに僕の育った裏の山が里山だったということを、そのときに教わりました。

大倉山もギリシャに関係があります。「エルム通り商店街」がありますよね。だから、つながっているなという感じがしています。

大倉山は、今は画像のような感じですが、昔の大倉山駅は全然こんな感じではありませんでした。もっと素朴な渋いものでした。

これはその里山を見たところです。うちの何階から撮ったところかな。この里山は自分の遊び場でした。

庭では種をまいていましたが、裏山に登っていくと竹林があって、この辺の竹林を抜けていくと尾根の道に出ます。その尾根の道は駅からつながっています。この辺で遊んでいました。

もう少し行くと突然姿を現す「大倉精神文化研究所」があって、これは子供ながらに迫力、むしろ怖いと思わせるようなものでした。

父親も建築・土木が大好きだった

これが変わり者のおじいちゃんで、これが私です。後でおじいちゃんは、大井は閉じてしまって病院をここで開きます。

この辺に育ったうちがあります。おじいちゃんの家は、建築にも彼はかなり興味があり、自分のお気に入りの近所の大工さんと一緒に「壁はこうしよう」とか「ここはこうしよう」ということを、おじいちゃんは決めました。その大工さんと大の仲良しだったそうです

これは母方のおじいちゃんです。父親も建築・土木が大好きで、この後、登場してきます。彼がその父親です。父は45歳のときに子供を生みました。はっきり言って怖かったです。凄く怖いです。それに比べると母方のおじいちゃんは、無口ですが、付き合いやすい、そんなおじいちゃんでした。

これはその家の玄関です。今、ほとんどこれと同じ風情で玄関が残っています。土いじりやザリガニを捕って里山で遊ぶなど、大倉山の「エルム通り」から向こうの新幹線のほうは、ただの畑と田んぼしかないところでした。

皆さん覚えていらっしゃる方も結構いると思います。ああいう風景が今みたいになって本当にびっくりするような変わり方です。

そのなかで父親が小さな元々のうちを手直ししていきました。手直しと増築が大の趣味でした。

増築をするときに全部を自分でできるわけではなく、屋根をつくったり外壁をつくったりするのは大工さんがやるのですが、その後の内装を自分たちでやりました。それを子供のころから手伝わされていました。

これがその内装です。天井を見たところです。ここにあるボードは今でいうと有孔のスリート板や有孔のフレキ板など、そのように呼ぶボードです。それを建材店から買ってきました。

これはサブロク板といって90センチ×180センチという結構大きなものです。それを買って、うちに担いで持って帰ってきました。大変です。90センチ×180センチを担いできて、それで天井に張って、それを下から自分たちで塗装しました。

大板ですから張るのは大変です。そういう大変な仕事を父親と一緒に小学生のころからやっていて、建築の面白さ、つくり方を習ったことが、僕にとっては大きな栄養になったと思います。

実際に今のうちを僕がこの前、撮影してきたものがこれです。これが今のうちです。この辺に天井があります。大きなテイストというと民芸調です。白と黒で幾何学に割り切る。

うちのおやじは「これが正方形じゃないといけない」ということに、めちゃめちゃこだわりました。僕は逆に正方形が嫌いな人です。僕の建築は細長い長方形が好きです。うちのおやじの反動だと思います。うちのおやじは絶対に正方形です。

間違って少し正方形からずれてしまったものを大工さんにつくり直させたのを見て、「長方形のほうがいいじゃん」と僕は思いました。そのような変なこだわりがある人でした。

これもうちの庭で撮ってきました。皆さんも横浜の中華街は割りと近いので、遊びに行かれると思いますが、うちも中華街が大好きで、中華街のいくつかの親しいお店からもらってきたものです。お砂糖を入れていました。

これは底です。これがひっくり返ってしまって、今は庭にただ置かれています。当時はこれを傘立てにしたり物入れにしたりしていました。中華街はめちゃめちゃ安かったし、おしゃれでした。ああいうところに子供のころから行っていました。

自分は今、中国の仕事がものすごく多いです。中国の人とめちゃめちゃ相性がいいと自分でも思います。その原点は中華街でお店のおじちゃんと親しくなって、この瓶をもらってきたことが原点だと思っています。

これは玄関に吊るされている照明器具です。当時は全部和紙でしたが、これも父親のデザインなので、正方形にこだわってつくっている天井の照明器具です。

ブルーノ・タウトとの不思議な縁

もう1つ忘れられないものが、ブルーノ・タウト(1880~1938年)という人の木の箱です。

これがうちのおやじの自慢で、よく僕に自慢して、「おい、これを知ってるか」と何度も見せられて、「知ってるよ」という感じです。彼の青春のときの宝物です。

ブルーノ・タウトという人は桂離宮の発見者です。発見したばかりではありません。「桂離宮は世界的な名建築だ」ということを言って世界に知らしめた大建築家です。ドイツの生まれで、彼は1933(昭和8)年に日本に来て、日本に3年間だけいました。

その3年間の間に銀座に「ミラテス」というお店(工芸店)を開きました。井上房一郎という高崎の観音様(高崎観音)をつくった実業家がいて、その人の援助でミラテスというお店を開きました。そこで売っていたものがこれです。

ブルーノ・タウトはこれをデザインして売っており、そのお店を数年間だけ銀座で開いていました。うちのおやじがそれを買って、宝物にしてずっと持っていました。

これは底を開けると「タウト イノウエ」と書いてあります。僕は子供ながらに、おやじが「世界的建築家のブルーノ・タウトのデザインだぞ」と言ったのに、底を見たら「タウト イノウエ」と日本語で書いてあるので、これは偽物なのではないかと思いました。

後に井上房一郎さんと高崎でお会いすることがあって、タウトのいろいろな話を聞き、僕はこれを持っていることを自慢しました。そういう不思議な出会いがありました。

1964年東京五輪の競技場デザイン

これは父と母と私です。1964(昭和39)年です。ここにオリンピックのマークが付いています。第1回目の東京オリンピックのときに10歳でした。

父親は建築物を見るのが趣味で、デザインが好きでした。普通の事務屋でデザイナーではありませんが、タウトのものを買ったり、いろいろなところに連れていったりすることが好きでした。

僕の推測では遊園地に行くとお金が掛かるから嫌だったのではないかと思います。建築を見るのはただですから、自分も好きだし、そこに子供を連れていくのもお金が掛からないしということで、こういうところに連れていってくれました。

これはオリンピックのときの駒沢の競技場(駒沢オリンピック公園総合運動場体育館)です。代々木の丹下(健三)先生(建築家、1913~2005年)がやったところ(国立代々木競技場)で撮った写真は探しても出てきません。

この写真は出てきて、よく使わせてもらっています。こちらは芦原義信さん(建築家、1918~2003年)という先生の設計です。

この後、僕は東大の芦原先生に直接習いました。芦原先生はこの作品の自慢をいつもしていました。

その自慢が面白くて、丹下先生と芦原先生だと丹下先生が格上でした。代々木の体育館の日本の旗は揚げる台に旗が固定されていてなびかない。ところが、駒沢のものは横から強い風が当たって旗がばたばたばたばたとなびく。「丹下先生はそういう工夫がない。自分にはそういう工夫がある」というのが芦原先生の自慢でした。建物の自慢ではなくて旗の自慢でした。それをずっと聞かされていました。

こちらの代々木は駒沢と比べると格好いいですよね。がーっと天に向かって伸びるような形になっています。

中に入ったときの空間を今でも覚えています。天から光が降りてきました。これは白い大理石を使っています。白い大理石とコンクリートの打ちっ放しの組み合わせとアルミです。天から雲の間から一筋の光が落ちてくるようなデザインです。

実際に飛び込み台に立ったアメリカの選手が「自分は天国にいると思った」と当時の新聞のインタビューで答えています。

この建物(代々木第一体育館=代々木オリンピックプール)も好きでした。1964(昭和39)年のオリンピックで、昔の話で申し訳ないですが、ドン・ショランダー(競泳選手、1946年~)を皆さん覚えていますか。今日は年配の方がいますので……。

ドン・ショランダーは金メダルを5つ水泳で取りました(東京で4つ、メキシコで1つ)。めちゃめちゃかっこ良かったです。アメリカの強さの象徴みたいな、僕が憧れていたドン・ショランダーがいて、僕は土曜日になると、わざわざ大倉山からここまで来ていました。このプールは開放されていたので、ここに泳ぎに行っていました。

僕はアメリカのオレゴン州ポートランドで日本庭園を設計したのですが、何とドン・ショランダーはポートランドの出身で、まだ元気でした。

「彼の車の番号を知っているか」と言われました。「19645」で1964年に5個金メダルを取ったというのを、いまだに車のナンバーにしています。

この建物は、2本の支柱から吊り構造になっているのは近代美術の象徴ですが、建物が緑で埋めてあります。そういうところは丹下先生が環境のこともいろいろと考えていたことが分かります。

大倉山で学んだ父との木造建築

その後、僕の青春はアフリカです。西アフリカの調査旅行は大倉山の延長上であると僕は思っています。大学時代に2台の車を運転して、西アフリカを調査し回ったことが、自分にとっては大きな体験でした。

自分が求めていたものが何だったかということを考えます。それは1964年のときはオリンピックで近代に憧れて、新横浜の駅がばーんとできて、田んぼの中にコンクリートの橋ができて、近代やコンクリートに憧れる普通の子供でした。

その後、中学になると公害問題とか、経済成長に対するマイナスの側面がたくさん出てきたので、だんだんひねくれていきます。

丹下先生の建物はコンクリートのああいうもので嫌だと思うようになるし、その後に出てきた黒川紀章さん(建築家、1934~2007年)のメタボリズム(建築運動)、メタボリズムは西洋にならっているのはいいけれども、黒川さんがつくっているものは金属でできたお化けみたいで嫌だと思っていました。

丹下さんも黒川さんも磯崎(新)さんも、そのころのものはみんな嫌、金属っぽくてコンクリートっぽくて嫌だなと思っていました。もっと土っぽいもの、もっと草っぽいものがいいと思っていました。

そういうものは大倉山から来ているのかなと思います。それは、うちのじいさんが東京にいるのが嫌で、大倉山の土をいじってきたところが原点であったと思います。

その後に建物を一緒に父親とつくるということで、木造建築ですから、本当に木を手で触りながらつくることを学んだのも大倉山です。

そういうものがベースになり、それが西アフリカの旅行になりました。

こういう方たちと一緒に2カ月間、集落を100軒ぐらい調査しました。本当に土っぽくて草っぽくて素敵でした。それが僕の原点になると思います。

そういうものをたどっていくと大倉山になるかもしれません。大倉精神文化研究所がどのようにつながるかというのは後の話で分かります。

大倉山の竹林を目指した「竹の家」

1つだけ僕が思っていることは、大倉精神文化研究所は非常に志の高い研究所をつくろうと大倉(邦彦)さんという実業家がつくったもので、長野宇平治(建築家、1867~1937年)という人の設計です。

長野宇平治は、明治時代の東大最初の日本人教授の辰野金吾(建築家、1854~1919年)という人がいて、その弟子です。

辰野さんはヨーロッパのちゃんとした西洋的建築を日本に連れてこようとした人です。その弟子の長野さんは少しひねくれています。

大倉精神文化研究所は「ヘレニズム」。ヘレニズムはギリシャに対して、アレキサンダー大王の東方遠征の時代ですから、東方へというバイアスがかかっています。

正統的なギリシャではなく、東方へというバイアスがかかってきて、変なものを探そうとして、精神文化研究所のディテールはもの凄く不思議です。

皆さん、ご存じだと思いますが、三角形の窓があります。そういう夢を追っていた、単なる西洋ではなくて、日本独特のものを探して、ああいうものにたどり着いた人でした。

そういう長野宇平治の魂みたいなものが精神文化研究所にあって、僕は子供のころからそれを遊び場にさせてもらっていたというつながりが、あるかもしれないなと思います。

そうやって考えてみると、そこに登っていく途中の里山の竹林は、僕は竹林が遊び場のなかでも好きで、後で中国に竹の家(竹屋)というものをつくるのですが、竹の家のイメージは大倉山の竹林を再現したいなということでつくりました。

熱海でブルーノ・タウト作品と出会う

時間がそろそろですが、1個だけ不思議なエピソードです。

先ほどのブルーノ・タウトが日本を去る直前につくった日向邸というものが熱海にあります。この部分だけがブルーノ・タウトの設計です。庭があって、木造の二階家があって、この庭の下、ここからばーっと海ですが、ここだけをつくったものが、ブルーノ・タウトの日本での代表作です。

これが熱海にあることを僕は全然知りませんでした。写真は少し覚えていました。とても面白いデザインだと思います。竹を使ってあって、これも木を編んだものでつくった照明で、めちゃめちゃ不思議なデザインです。

その隣に僕の「水/ガラス」(1995年)という建物、今はホテルになっていますが、デザインするチャンスがありました。

ここの下に先ほどのブルーノ・タウトのうちがあって、この敷地を見に行ったときに、隣のタウトの家の持ち主が出てきて、それで「おたくは隣に家を建てるんですか」「はい、隣に建てさせていただきます。ご迷惑をお掛けします」と言ったら、「うちはブルーノ・タウトという建築家の作品なんですよ。ご覧になりますか」と言って案内されたら、これが出てきました。うちのおやじが自慢していた木の器のブルーノ・タウトの隣なんだ

その後で井上房一郎さんに、まだ90歳で元気でいらしていたときにお会いできました。

そういう不思議なことが重なって、これもブルーノ・タウトの木の器からつながった話かなという気もしています。

私と大倉山のきっかけの話をして、この後は、皆さんとお話したいと思います。どうもありがとうございました。

(会場拍手)

隈さんを囲んでのフリーディスカッション

<登壇者>

  • 隈研吾さん・建築家
  • 平井誠二さん・大倉精神文化研究所理事長
  • 飯田孝彦さん・大倉山在住/神奈川県消防協会会長(港北消防団団長)
  • 漆原順一さん・港北区長

)大倉精神文化研究所(建築当初)と大倉山記念館(1984年~)は同一の建物ですが、文中では特に区別せず両方の名称を使っています。

大倉山の「歓成院」を足がかりに

<平井誠二さん・大倉精神文化研究所理事長>

本日の企画は、元々今年(2022年)2月に実施する予定が新型コロナウイルスの感染拡大ということで延期になりました。本当ならば中止になったかもしれないのですが、隈さんのご厚意で今日開催することができました。ありがとうございます。

企画自体は数年前から検討していました。ところが、お願いするつてがなくて、どうやったら隈さんにアポが取れるだろうということで、いろいろと考えていました。

たまたま地元大倉山の「歓成院(かんじょういん)」(大倉山2丁目)というお寺さんの庫裡(くり)の建て替えを隈さんが担当されるということが新聞報道で出ました。「それならば」ということで歓成院のご住職に相談に伺い、それで今回の企画を実現することができました。ご住職さんは会場におみえということで、どうもありがとうございました。(会場拍手)

早速、話に入りたいと思います。先ほどの基調講演の中で(隈さんの著書に書かれている)「ジュンコちゃん」のお話が出ていました。

私はこれがずっと気になっていて、今日、お話のなかで名字が「漆原さん」だということを直接隈さんから教えていただきました。

区長が漆原さんということで同じ名字です。そこら辺からお話を始めていきたいのですが、直接のご親戚ではないということでしょうか。

<漆原順一さん・港北区長>

そうですね。私も大倉山の出身ですが、大倉山には漆原さんという方がかなり多くいらっしゃいます。私は大綱小学校(大倉山4丁目)へ通っていましたが、同学年の6人ほどが「漆原」という感じで多いです。

残念ながら、こちらの親戚は江戸時代からたどってもありません。もっと先にいくと、つながっているのかもしれませんが、ジュンコさんちのところとは直接はつながっていませんでした

<平井さん>

ということで、“漆原つながり”というわけにはいかないようです。

先ほど司会者から飯田さんが同い年ということで、たまたまということで今日の企画になりました。同い年ですが、隈さんは田園調布の幼稚園・小学校に行かれて、飯田さんは地元の学校ということで、直接学校が一緒ということはないですよね。早生まれになるのですか。

<飯田孝彦さん・大倉山在住/神奈川県消防協会会長(港北消防団団長)>

早生まれです。

<平井さん>

ということで、学校は一緒ではないですが、隈さんのご著書の中でジュンコちゃん姉妹、妹さんがおられたのでしょうか、ジュンコちゃん姉妹と他にも何人か遊び仲間がいたということをお書きになられています。そのお友達のことは覚えていますか。

<隈研吾さん・建築家>

顔はみんな覚えていますが、名前は覚えていません。

<平井さん>

60年近く前の話ですもんね。でも、毎日のように遊んでいましたか。

幼少期から大倉山~田園調布間を観察

<隈さん>

僕の場合は田園調布に幼稚園から行かされていました。東横線に15分ぐらい乗って行きました。

大倉山と田園調布の間をいろいろと観察することが僕にとっては非常に大きくて、駅によって全然街並みが違ったし、家の様子も違いました。それぞれの駅の友達のところに行って観察しました。

そこで建築観察の目、「こういうスタイルもあるんだ、こういうのもあるんだ」という、それが養われたような気がします。大倉山と田園調布の距離が面白くて。

余談ですが、「Chim↑Pom(チン↑ポム)」のエリイさんというアーティストは、大倉山出身で、有名な現代アートの日本のスーパースターなのですが、私の妹が大倉山でピアノ教室をやっていて、その教え子でした。

その方が大倉山から田園調布に通っていて、それで大倉山と田園調布は文化的な差があるのですが、それを観察しているということを聞いて、たぶんエリイさんもその観察からアーティストになっているのかなと思って、僕もその観察から建築家になっていったのかなと思います。

<平井さん>

今でこそ大倉山は住宅街としてとてもきれいになっていますが、東横線の中ではたぶん一番開発が遅かったですよね。

だから、隈さんのお子さんのころは、本にも書かれていますが、田舎の町というか……。

<隈さん>

里山の遊び、田んぼの遊びだけですので、大倉山に帰ってくると、そういう遊びをしたのではないかと思います。

<飯田さん>

今、バスが通っている道路がありますが、それから西側は田んぼと畑で、遊ぶところといったら田んぼと山という感じで遊んでいたので、自然の中で泥だらけになりながら遊んでいた感じだったと思います。

<平井さん>

隈さんも同じような感じですか。

<隈さん>

僕は長靴が好きで、晴れた日でも長靴を履いていました。裸足で長靴を履いて、さすがに東横線に乗るときは、それだと変な目で見られるので、長靴を履きませんでした。

それでもうちに帰ってくると長靴に履き替えました。そうすると田んぼの中でもどこでもどんどん入っていけるから、そんな遊び方をしていました。

昔の「ザリガニ捕り」で熱い議論

<平井さん>

ザリガニを捕ったり魚を捕ったりして遊んでいたと書いていますが、用水路が昔はたくさんあって、田んぼがいっぱいあって、今の(川を埋め立ててつくった)「太尾新道」にはまだ鳥山川が流れていたり、さらに鶴見川があったりということで、そういう用水路に入って魚を捕ったりみたいな。

<隈さん>

ザリガニ捕りが圧倒的に好きでした。用水の中でも捕れるし、ジュンコちゃんちに深い池を掘っていました。

<平井さん>

ジュンコちゃんちの、漆原さんちのお庭に大きな池があって。

<隈さん>

大きな池があって、ものすごく深い池を掘っていて、防空壕があって、それでそこら辺で遊んで防空壕の中に行くと、いろいろな虫がいました。

また1人、防空壕の逸話でいうと、古市憲寿(のりとし)さん、今、若手の社会学者でテレビのコメンテーターをやっている古市君を知っていますか。

大倉山ではありませんが、僕の防空壕の話を僕の本で読んで、うちのおふくろが戦争中に防空壕に逃げて入っていて、そこで本を読んでいるのが自分の一番楽しい時間だったという話があって、彼の「ヒノマル」(2022年2月、文藝春秋)という新しい小説は大倉山を舞台に書いています。

それで、大倉山のことを「観音山」と読み替えて、戦争中の大倉山の話や商店街の話が出てきています。彼はわざわざ大倉山に来て、いろいろと取材して、それを書いたと言っていました。

<平井さん>

大倉山の駅前から歓成院にかけての西側のあたりは昔の地名で「観音前」といいますが、山のほうは観音山と昔、本当に呼ばれていたみたいです。

<隈さん>

本当にそれを彼はちゃんと調査したのですね。僕のほうが知りませんでした。

<平井さん>

本当に調査したのだと思います。

山で遊んだりザリガニを捕ったり、漆原さんも飯田さんもたぶん隈さんと同じような体験をされていたのではないでしょうか。

<漆原さん>

昔、東芝のアパートが建っていたところ(現・大倉山1丁目の「パークホームズ大倉山」)、つい最近までありましたが、そちらの目の前に住んでいました。そのあたりは畑や田んぼが広がっていました。

家の眼の前がすぐ田んぼで、そこでザリガニ釣りをするのが毎日の日課でした。

ザリガニ釣りは、初めは小さなザリガニを花か何かで釣ります。その小さなザリガニを今度は調理をして、しっぽを取って、そのしっぽをタコ糸に結び付けて、大きな真っ赤な、“マッカチン”と呼んでいましたが、そんなザリガニを釣るのを毎日の日課にしていたことがあります。

隈さんもそのようなことを、たぶんされたのではないですか。

<隈さん>

同じ釣り方でした。

<平井さん>

やはりマッカチンで釣りをしますか。

<隈さん>

僕はマッカチンと呼びませんでした。

<平井さん>

呼ばなかったですか。でも、釣り方は一緒で。いくらでも捕れますよね。そういう子供時代を過ごされていて、どんどんそういうなかで大倉山は宅地が増えていって、水田が宅地にどんどん変わっていきました。

大倉山の「国鉄スワローズ」より大洋

<平井さん>

1つどうしても聞いておきたいことがあります。鳥山川の向こう側に広いグラウンドがあって、「国鉄スワローズ」(現・東京ヤクルトスワローズ)が練習していました。

隈さんが小学校に入ったぐらいからスワローズの選手が来ていて、金田(正一)投手が当時来ていたのではないかという話を聞いています。野球に興味はありますか。

<隈さん>

野球は、僕は大洋(ホエールズ、現・横浜DeNAベイスターズ)ファンです。大洋は基本的にものすごく弱かったです。時々強いときがありました。国鉄(スワローズ)にはほとんど関心がありませんでした。

<平井さん>

飯田さんは覚えていますか。

<飯田さん>

「国鉄スワローズ」と入った硬式のボールをグラウンドに片付け忘れているときがあって、それを拾いに行きました。

<平井さん>

場所的には太尾小学校(大倉山7丁目)の隣ぐらいになりますかね。マンションが建っているあたりに昔、グラウンドがありました。

<隈さん>

僕は田園調布に行っていたから、田園調布の脇の多摩川グラウンドは巨人(読売ジャイアンツ、当時の練習場)だから、巨人と大洋という構図でしたね。

<平井さん>

そちらに行かれていたわけですね。東横線に話を移します。幼稚園に行かれるようになってから毎日、東横線に乗られて田園調布まで通われて、その間にそれぞれの駅の様子の違いをいつもご覧になっていたと。

嫌いな電車が来たら乗らなかった

<隈さん>

そうですね。その当時のエピソードで僕らしいなと思うのは、自分の嫌いなデザインの電車には乗らなかったらしいです。

<平井さん>

何種類かデザインの違う電車が走っていたわけですか。

<隈さん>

そうです。そのころは一番デザインがどんどん変わる時期で、明らかに鉄でつくった電車からステンレス、シルバーへと変わっていくわけです。

鉄でつくった緑色の電車を皆さん覚えていますか。“アマガエル”(「青ガエル」とも呼ばれた東急の初代5000系電車)と呼ばれていて、床は木でしたよね。床は油が染み込んだような木でした。

今だったらたぶん僕は木の床の電車に乗っていたと思いますが、当時はモダニストだったから緑の“アマガエル”が嫌いで、アマガエルが来ても電車に乗りませんでした

僕の近所の女の子たち、2人のお姉ちゃんと一緒に田園調布の幼稚園に行っていましたが、困ったらしいです。電車が来ているのに僕は乗らない

今はどうしても嫌だというものがあるのがデザイナーだと思っていますが、幼稚園のときから電車をより好んでいました。

<平井さん>

先ほどの基調講演でも「小学生ぐらいまでは近代の鉄文化に憧れていた」と言われていました。木の床よりもステンレス車で鉄の床が良かったのですか。

<隈さん>

近代的なモダンな感じのものが好きでした。

綱島での思い出と日吉の考察

<平井さん>

定期券でたぶん行かれていたでしょうから、それぞれの駅で降りて友達の家に行って遊んだり、いろいろとされていたと思います。

大倉山はすごく田舎っぽかったと思いますが、綱島や日吉などは雰囲気が子供なりにも違っているなという思いはしましたか。

<隈さん>

綱島には綱島温泉があって、温泉街の雰囲気がまだ残っていました。それから、綱島にプールがありました。山の中のプールで凄くかっこいいプールがありました。

先ほどの(基調講演で触れた)代々木体育館に泳ぎに行くのは少し距離があるじゃないですか、だから綱島のプールへ頻繁に行っていました

日吉になると今度は、僕の建築の話でいうと放射線状のパターンで、渋沢栄一が「田園都市」ということでやったのが、日吉と田園調布と、あと菊名駅も少し情感が残っていますよね。

それで、近代思想に基づいて東急でやったパターンのところと、その前の集落的なところと、集落と東急的なもののギャップの激しさ、それが混じっているところが、このあたりの面白さだと思います。

<平井さん>

隈さんの大好きな農家のおうち、生活と仕事が一体化しているものと、住むためだけのアパートや分譲住宅などとのギャップもそうですし、東急沿線が都市開発をどんどんしながら、その後も田園都市線もそうですし、いっぱい都市をつくっていきます。

そういうものを子供のときからずっと電車のなかから見たり降りて遊んだりしながら肌で感じていたということで、中学校からは大船に行かれて、それも電車に乗ってということですよね。

<隈さん>

中学から大船だから(田園都市とは)逆方向へ行くようになりました。

今度は鎌倉、逗子、葉山、鵠沼、湘南文化の連中と友達になりました。かなり僕は幅広くいろいろなものに触れましたが、一番里山的なというか、昔の日本が残っているのは大倉山ではないかと感じます。

東京の近くなのに残っていた里山

<平井さん>

渋谷から横浜、鎌倉までの中で一番大倉山に「昔の日本」が。

<隈さん>

東京の近くにこんなに里山的な原始的なものが残っているのが凄く不思議な感じがしました。歴史がすごく古いですよね。

先ほど話が出た歓成院さん、今、設計していて、もうすぐ木造のすごくかっこいいものができるのですが、そこの歴史もすごく古いです。

室町時代からあったということは、人間は里山があって川があるというのが一番住みやすい条件だから、古代から住んでいたのだと思います。

<平井さん>

大倉山の上も記念館(精神文化研究所)の建物をつくる際、地面を掘り返して基礎工事をするときに、古代遺跡が出ていますので、このあたりは大昔、山の上に人が住んで、鶴見川とか、いろいろな支流の川で魚を捕ったりしていたのかなと。

そんな生活が古代からずっと続いていて、その延長上に今のこの町の歴史が続いているのだと思います。

大倉山も昔、「田園都市」の開発をしようとしたという話があって、渋沢栄一や五島慶太が開発できなくて、いろいろと事情があり、最終的には研究所の建物になったということです。余計な話をしました。

それで、毎日電車で通学されていて、昔は雨が降ると家の周りが泥だらけで、それこそ長靴がないと出歩けないぐらい、舗装道路もあまりなくてという、子供のころはそうですよね。

<隈さん>

全く泥だらけです。

<平井さん>

少し大雨が降ると水が出て何年かに1回ぐらいは水没していましたが、隈さんのおうちは水没されたことはありますか。

<隈さん>

うちは山に向かって少し勾配が付いているから、「エルム通り」の向こう側はよく水没していましたが、こちら側には来ませんでした。

<平井さん>

今、バスが走っているバス通りのあたりから南側は水没を割りとしやすいけれど、山側は微妙に勾配が。

<隈さん>

勾配が付いていました。

<平井さん>

大家さんである漆原さんちは山裾の一番高いところだから、さらに大雨が降っても絶対に大丈夫みたいな。何度か大きな水害があったと思いますが、水がおうちまで来たことはなかったですか。

<隈さん>

それはないです。

<平井さん>

漆原さんの家は水没しましたか。

<漆原さん>

私が記憶している中では、台風のときに水没はしませんでしたが、家の前の道路が川のような感じに流れていたことが記憶にあります。

大倉山の町は、隈さんが住んでいらっしゃったあたりは山裾なので、あの辺は昔から水没しない範囲で、商店街よりも南側、バス通りより南側、あちらは水没する可能性がありました。

鶴見川が「暴れ川」と呼ばれていて、しょっちゅう氾濫していた歴史があるので、平地部分については、昔はなかなか人が住まなかった地域です。

だんだんそれが、隈さんの本にも書かれていましたが、社宅や工場などが建ち始めて、住宅が広がっていきました。治水も少し進んできたのだと思いますが、“暴れ川”がだんだん少なくなってきました。

その後、田んぼや畑のところに工場が建ってきて、自動車のねじ工場や家具屋さんの工場などが建ち始めました。

これがまた移転して、その後に大きなマンションがどんどん建ってきたというのが、大倉山、この辺の地域の成り立ちなのかなと思っています。

動物が好きで獣医になりたかった

<平井さん>

飯田さんのお宅も古くから大倉山にお住まいですよね。バス通りのところよりも少し山側の若干高くなった部分だから、やはり大雨でもおうちは大丈夫なところですよね。

<飯田さん>

大倉山の昔の地名は「太尾」といいますが、太尾に家は86軒ありました。ほとんどが山側です。

生活用水が井戸ですから山のところに来れば水が湧く、それと鶴見川が氾濫したときに水が来ない、そういう意味でずっと86軒の家は山裾にありました。

元々、大倉山は鶴見川の水運というものが重要で、「下町」というのですが、向こう(鶴見川沿いの大倉山6丁目付近)がメインの町でした。

今、大倉山の駅のところは、「上」といってあまり拓けていませんでした。

<平井さん>

西側の新羽に近いほうが「下」で、駅前が「上」で、上・中・下で一番下が鶴見川の畔で、そこにお店などがたくさんあった。

<飯田さん>

屋号でいうと「下」のほうがいろいろな屋号の家がいっぱいあります。うちのほう、要するに「市ノ坪」(大倉山3丁目周辺)といわれる部分ですが、屋号があまりありません。

元々「上の何とか」「上の飯田さん」という言い方なので。だから、お店はなくて農家が多かったという。

<漆原さん>

私の母の実家は「下」で、屋号は「大下」というのですが、500年以上住んでいたようです。

ただ、戦争で建物が焼けてしまいました。防空壕があって、住んでいた人間は逃げて大丈夫でしたが、戦後に建てた家は、隈さんの本のなかに出てくるような「ジュンコちゃんの家」に似ているのかなと想像しています。

土間があって、ぶどう棚があったり、大きな仏壇があったり、黒光りした大黒柱があったり、そのような建物でした。

そこへ泊まりに行くと「コジュケイ」(キジの仲間)が鳴いていて、季節感をすごく感じられました。春は竹林があってタケノコ掘りをしたり、夏にはクワガタ捕り、秋には山芋を掘ったり、冬にはかまどがあって、そちらで餅米を蒸してのし餅を作ったりといったような記憶があります。

そのようなことをジュンコちゃんちで隈さんがやられていたのではないかと思います。いかがでしょうか。

<隈さん>

動物がいっぱいいました。ヤギを飼っていたり、いろいろな動物を飼っていました。ジュンコちゃんのところは、土間のところにヘビを飼っていました。床を開けると、その辺にヘビがいました。

動物がすごく好きで、建築家になる前は獣医になりたかったくらいで、ジュンコちゃんちに動物がいっぱいいていいなと思ってました。昔の農家はいろいろな用途で動物を飼っていましたよね。

<漆原さん>

そうですね。大倉山も「下」のほうへ行くと養鶏場があって、実際に鶏に卵を産ませていました。自分が住んでいた家でも鶏を飼っていたり、ウズラとか、珍しいのは「コウライキジ」が庭に飛んできて、それを母が捕まえていました。

<隈さん>

キジがいましたよね。キジは今、ものすごく珍しい。そのころと比べて激減しましたよね。

キジが裏の山にいましたので、これは幻かと思っていろいろと調べてみたら、そのころはいましたが、今は激減して、ほとんど見られなくなってしまいました。

<漆原さん>

それがなぜか庭に飛んできたので、捕まえて鳥小屋で飼っていました

その前には鶏を飼っていたのですが、猫に食べられてしまった経験があり、父親が建築関係で一級建築士だったのですが、一緒に2階建ての鳥小屋をつくり、そこの2階のところにキジがいたことを記憶しています。地震が起きる前に鳴くんです。

<隈さん>

すごいですね。

釣りを楽しむのは「ザリガニ」だけ

<平井さん>

隈さんのところでは動物を飼われていましたか。

<隈さん>

猫を一時期飼っていたことがありますが、隣のうちがものすごく犬好きで、その犬たちと遊んでいました。

自分のうちは猫好きでしたが、知らない間に父親に捨てられてしまいました。それを一度書いたことがあるのですが……。

<平井さん>

お父さんはあまり猫が好きではなかった?

<隈さん>

うちのおやじは完全に近代主義者だから、動物は近代の理性に反していて、そういうものはみんな受け付けませんでした。

<平井さん>

おじいさんはお医者さん、確か耳鼻科ですよね。

<隈さん>

耳鼻科です。要するに仕事をしたくなかったのだと思います。耳鼻科の人に申し訳なく、それを言ったら問題発言になるかもしれませんが。自分で一番楽だと思って耳鼻科にしたという話を聞きました。

<平井さん>

大倉山でも医院を?

<隈さん>

やっていました。有名な耳鼻科の先生といえば、日本の民藝運動の中心となって活躍した鳥取の吉田(璋也)先生が知られていますが、あまり仕事をしたくなくて趣味に生きたいと思って耳鼻科をやるのではないかな。

<平井さん>

耳鼻科の先生に叱られそうですね(笑)

<隈さん>

(祖父は)本当に趣味の世界で、庭の畑と週末は釣りに行っていました。

<平井さん>

釣りも一緒に行かれたのですか。

<隈さん>

僕は基本的に釣りはザリガニだけです。

縦に井戸を掘るとラジウム温泉が

<平井さん>

ザリガニを捕った池のあるジュンコちゃんちに防空壕があったということですが、戦後ですから防空壕に使っていた穴ということですが、元々は水道ができる前に井戸にも確か使われていたのですよね。

<隈さん>

あそこから水が出てくるのですか。

<平井さん>

山に降った水がしみ出てくるので。このあたりだと縦に井戸を掘ると綱島温泉と同じように温泉水が出ることもあるので、なかなか縦井戸は掘りにくい。それを拡幅して防空壕にしたのでしょうか。

<飯田さん>

そうですね。どちらが先かはよく分かりませんが、結構深い井戸でした。

平場のところを掘ると、今で言うラジウム、茶色っぽい水が10メーターくらい掘ると出てきてしまって、飲水としては使えません。たぶん山側で、横井戸で綺麗な水を取ったのでしょう。

<隈さん>

そうなんですね。

<飯田さん>

サワガニがいませんでしたか。

<隈さん>

サワガニも山ほどいました。今はいないかな。

<平井さん>

バス通りに面して病院があって、そこから少し山側に入ったところにおうちがあってということですが、病院の前というかバス通り沿いに細い水路というか、溝というか、あったのではないですか。

<隈さん>

ありました。

<平井さん>

今は埋めているのだか暗渠だかですよね。小さいころは舗装もされていなくて、水路もそのままむき出しだったり、入り口の前だけ板がしてあったり。

<隈さん>

そんな感じです。

建築は自然のあるところで養われる

<平井さん>

そういうなかでの生活体験というか子供のときの体験が、建築にも大きな影響を与えているというのが先ほどのお話でした。

<隈さん>

里山を知ったということは大きな違いだったと思います。

<平井さん>

東京・大井に母方のおじいさんの病院があって、東京で生まれ育っていたら、建築家になったとしても全然別の建物を建てていたかもしれないみたいなことですか。

<隈さん>

たぶん建築家になりませんでした。建築は都市的なようなものに見えますが、風を感じるとか光を感じるとか、そういう敏感さがないと僕はちゃんとした建築はつくれないのではないかな、そういう敏感さは自然のあるところで養っていくのではないかと思います。

<平井さん>

大倉山が東横線の中で一番田舎を感じられる、自然を感じられる場所だったということが、隈さんの生涯に大きな影響を与えているという。

<隈さん>

間違いなくそういう気がします。いろいろな建築家で、どういう子供時代を送ったかというと、わりと田舎です。

コルビュジエ(ル・コルビュジエ=仏)という建築家がいるじゃないですか。コルビュジエは20世紀の代表的な建築家だから、つくっているものが最初はコンクリートのもので、コンクリートがだんだんと粗っぽくなって、自然っぽくなっていきます。

コルビュジエはスイスのものすごく山の中の育ちです。元々彼らの祖先はフランスのユグノー派という、迫害されてスイスの山の中にどんどん逃げていって、一番山奥のところで生まれて育っているから、そういうセンスがあったと思います。

フランク・ロイド・ライト(米の建築家)も自然の中で育っていて、「フレーベルという幼児教育の有名な人の木の積み木で建築家になった」と彼自身は言っていますが、僕はその木の積み木はもちろん重要だったろうけど、自然の中で育ったことも彼にとって非常に大きかったのではないかと思います。

コンクリート登場前後の街並み変化

<平井さん>

大倉山で生まれ育ったということを今、お伺いしているわけですが、時代の影響もいっぱいあるように思います。

ちょうど日本が戦後の高度経済成長で鉄の建物をつくってという時代から、隈さんが建築事務所をつくられて、いっぱい建物をつくられるようになって、バブル経済が弾けてという平成以降で、時代がどんどん変わってきて、もう1回自然とか、いろいろなものを見直してとか、そういうことで時代が大きく変わってきていると思います。

時代の変化と大倉山で生まれ育ったということが、ちょうど重なったというか、つながったというか、そんなところはありますか。

<隈さん>

時代の変わり目で、コンクリートが登場する前も知っているわけです。

1964(昭和39)年の東京オリンピックのときに新幹線が出て首都高ができて、コンクリートの出現を見るわけですが、その前は東京ですら木造の町でした。

先ほどスライドでお見せした「代々木体育館」は渋谷の丘の上に建っていますが、あそこへ至るまでの渋谷は基本的に木造の町です。

木造からコンクリートに変わるのも見ていて、それで逆にコンクリートが増え過ぎてしまって、都心に住むのが嫌だなという感じも体験したし、そういう一番激しい変わり目を体験できたことは自分にとって大きかったと思います。

<平井さん>

今、東京も大倉山も地面がほとんど見えないようなところでビルばかりですが、昭和30年代、オリンピック前はまだ東京でも空き地や畑などがあり、大倉山は当然そういうものがいっぱいありました。

そういうところで子供時代を過ごし、どんどん変わるのも体験されて、それがお仕事に影響を与えていっているのですね。

<隈さん>

いろいろなものを相対的に見られるようになりました。大倉山とこの周辺が一番変化しているときに、それを見られたことは楽しいことだったなという気がします。

最初の著書「10宅論」に込めた思い

<平井さん>

異なる価値観でつくられた建物、生活、文化をいくつも体験されて、それを比較しながら見られるみたいなことですか。

<隈さん>

僕は最初に「10宅論」(1990年ちくま文庫)という本を書きました。“住む”の「住」ではなくて数字の「10」です。それはいろいろなスタイルの住宅を、どちらかというと茶化して書いている本です。

安藤(忠雄)さんや私のような「コンクリート打ち放し派」も1つの派です。いろいろな派で、料亭派……料亭みたいなうちとか、そうやっていろいろなことを茶化したものを最初に書きました。

そういうものは大倉山から東横線に乗って、いろいろなものを見た体験がそのまま僕の本になっていると思います。

<平井さん>

隈さんはたくさんご著書がありますが、私は「10宅論」はまだ読んでいませんでした。

<隈さん>

今、読むと逆に面白いです。金持ちの住宅も茶化しています。それは中国語に翻訳されて中国の人が喜んで読んでいます

中国はお金持ちのきらきらした住宅がいっぱいあって、そういうものを笑い飛ばそうと思って書いているのに、何で中国の人がそれを喜んで読んでいるんだろうなと。面白い翻訳をしています。つい最近翻訳されました。

<平井さん>

大倉山のことをいっぱい書かれている「僕の場所」(2014年大和書房)と「ひとの住処」(2020年新潮新書)の2つをここに持ってきました。隈さんはほかにもたくさん本を書かれています。

私は専門書はよく分かりませんが、うちの図書館(大倉精神文化研究所附属図書館)にも何冊も本を入れさせていただいていて、拝見すると素人の我々が読んでも、とても読みやすいといいますか、興味深い本で、本をたくさん書かれているなかで、一般の人向けにお書きになっているのかなと思っていました。

「ひとの住処」は大倉山記念館の写真を使っていただいて、少し協力もさせていただきました。新潮社さんからいただいて、お世話になりました。ありがとうございます。

自宅の増改装時に“家族コンペ”

<平井さん>

漆原さんのお宅がお父様のときから建築業ということで、建築のお話を少しいかがですか。

<漆原さん>

私の父が建築士で工務店をやっていました。私が生まれたころは平屋建ての木造の建物の家でしたが、途中から私が生まれ弟が生まれということで増築して2階建てにしました。

工務店の手伝いもしていましたので、材木を運んだり、一輪車(猫車)で生コンを運んだり、夏の暑いときに大きな材木を運ぶと夕ご飯が食べられないぐらい疲れてしまったり、蛸(たこ)という土を締め固める道具で地面を固めたりと、そういう思い出があります。

それが建築に進んだきっかけになったと思っています。※編注漆原さんは建築職として横浜市職員になり、今年4月から港北区長に就く前は建築局に所属)

隈さんもご自宅を修復されたり増築されたり、その辺の経験が今につながっているという話が先ほどもありましたが、もう少しそのあたりを詳しく教えてください。

<隈さん>

今日の話は「手でつくること」の意味みたいな、ものづくり的な側面でしたが、その前に、どのように増築するかという「設計」があります。

うちのおやじとは45も年が離れている明治生まれの人間だから、気丈に上から言うおっかない人間でしたが、そのとき(修復・増築)だけはなぜか“家族コンペ”をやりました。

方眼紙に「こういう間取りで、どこにベッドを置いて、どこに机を置いて、ソファはどこに置く」とか、みんなで絵を描いて、それで話し合います。そのときはすごく民主的でした。

そこで僕が優れていたという記憶は全然ないのですが、母方の先ほどの医者の奥さんをやっていたおばあちゃんが、めちゃめちゃ優れていて、「いつもおばあちゃん(の案)になるな」みたいなすごく冴えていたおばあちゃんでした。

家族のエピソードをいうと、おばあちゃんは宮崎の延岡の人で、その弟が後藤(勇吉)飛行士といって、日本縦断飛行を初めてした有名な飛行機乗りです。太平洋横断飛行の練習中に九州の山にぶつかって35歳ぐらいで死んでしまいました。

僕もその人は、おばあちゃんや家族から聞いた話だから大したことないと思っていたのですが、僕が宮崎に行って県知事に話したら「後藤飛行士でいらっしゃいますか」と言って、記念碑があって毎年死んだ日に慰霊祭をやってくれているぐらいでした。

35歳で死んでしまって、天才的な、親からロールスロイスのエンジンを買ってもらって、自分で組み立てて飛行機をつくって日本縦断飛行をして。おばあちゃんにその血が流れているのではないかと思いました。

<平井さん>

ものづくりの血が流れている……

<隈さん>

空間把握力がありました。後藤の人たちは柔道をやったり、アメリカンフットボールの解説をやったりとかも。飛んでいるのが大好きな人たちです。そういう血がおばあちゃんにはあったのではないかと思います。

<漆原さん>

おばあちゃんが図面を書くのですね。

<隈さん>

おばあちゃんの平面図が一番すごかったです。思ってもみないような発想を出していました。大倉山で100歳まで生きました。

<漆原さん>

「こんな素晴らしい案があった」という記憶に残っていることはありますか。

<隈さん>

それはさすがに覚えていませんが、空間把握が冴えているなと思いました。

<漆原さん>

実際につくる段階では、先ほどフレキシブルボードでつくられたという話でしたが、その辺もかなり。

<隈さん>

先ほどの有孔のフレキは、当時は住宅に使う人はあまりいなかったのではないかと。工場素材じゃないですか。

だから、工場や倉庫に使う素材だけど、住宅に使うような素材ではないものを、それを持ってきて建築に使うというのは、うちの父親のテイストです。

当時、モダニズムの1950年代・60年代というのは、安いセメントボードがかっこいい建築になるみたいなものがあって、代表的なものは鎌倉の鶴岡八幡宮の中にある「神奈川県立近代美術館」の外壁はスレートみたいなものを相手にしてやっているじゃないですか。そういう時代の雰囲気がある。

うちのおやじは、そういう時代の雰囲気を生きていたのだと思います。

<平井さん>

ご自分でも改造されていたけれども、大工さんも当然入られていて。

<隈さん>

屋根をつくって外壁をつくるまでは大工さんがやって、内装は素人でもできるわけです。

<平井さん>

基本的な「こういう間取りにして」みたいなことは家族会議のコンペで決め、大工さんに基本的なところをつくってもらって、内装を自分たちでやるということですか。

<隈さん>

そうです。

<平井さん>

その大工さんは、どこの大工さんか覚えていますか。

<隈さん>

大倉山の大工さんで、フルゴオリさん。フルゴオリさんだけではありませんでしたが、フルゴオリさんが一番多かったかもしれません。

<漆原さん>

駅のそばにはコジマ工務店さんというのが確かあったと思いますが。

<隈さん>

フルゴオリさんが中心です。今もフルゴオリさんはまだ……。

(会場):廃業されました。

<隈さん>

廃業されてしまいましたか。

隈さんが手がけた大倉山の歓成院

<飯田さん>

(隈さんが手がけた)歓成院さんの客殿・庫裡(くり)ですが、一瞬ぱっと見ると、お寺に合うかなという感じですが、よくよく見ていると結構マッチしていますよね。どのようなコンセプトですか。

<隈さん>

軒(のき)のデザインでやっています。日本の木造は屋根があって、屋根を支える垂木や組物という軒で見せるというのが日本のデザインです。

軒のところに木を使うということは、雨が掛からないから木が傷まないという点でも合理性があります。そこが日本の木造の一番の特徴です。

歓成院さんの場合は軒の部分を曲面でうねらせてつくっているので、それがすごくきれいにうまくいったと思っています。

<飯田さん>

私は先生がつくられている木造建築の建物が大好きです。今回、本当に良かったなと思っています。

<隈さん>

国立競技場(隈さんが設計に携わったスタジアム)が軒のデザインです。普通はスタジアムの裏側は壁になってしまっています。

(参考)国立競技場

すぐそこに日産スタジアムがあるじゃないですか。規模としては、そんなに国立競技場と違わないと思いますが、観客席があって、その後ろはだーんということになってしまうから、周りから見ると少し寂しい感じになっています。

国立競技場はそこを軒が重なっているようにして、軒の重なりを全部木でつくるという、日本の木造の一番基本をやっていきました。

ですので、歓成院さんの場合は軒のデザインが基本になって、それをさらにうねらせました。

歓成院さんは真言宗です。真言宗はダイナミズムをすごく大事にしていらっしゃると思って、そのような関連が表現できたらなと思いました。

「影」は人を安心させる不可欠な存在

<平井さん>

当然建物だから使う目的や施主の方のご要望などに応じて、いろいろと考えられて設計されるのでしょうけど、周りの風景・景色、地域の中にある建物ということで、今、言われた国立競技場だって別に張り出しではなくても、大丈夫といえば大丈夫じゃないですか。壁みたいになっていても大丈夫ですが、外から見たときは出していたほうが、景観的にもいいわけですよね。

<隈さん>

そうですね。景観的には軒は影をつくってくれます。垂直に壁が建つと影がなくなってしまいます。

どうも人間という生物にとって影がすごく重要なのではないかと思っています。たぶん森に住んでいたころから、影があるから生きられたわけじゃないですか。影がなかったら太陽に押されて干上がって死んでしまいます。

だから、影にものすごく人間の体は安らぎを覚えるのだと思います。

<平井さん>

影はいいですね。よく「木を使って」とか「自然のものを使って」と言われますが、影も建築の上で隈さんにとってとても大事なコンセプトですね。

<隈さん>

西洋のモダニズム建築と日本の伝統的建築の一番の違いは、日本は影を大事にしていること。谷崎潤一郎の「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」(1933年)に書いてあります。それが僕は一番の違いだと思います。

影は人を安心させるということを、いつも考えています。

ちょっとした隙間から里山が見える歓成院

(参考)大倉山2丁目の「歓成院」

<飯田さん>

先日、歓成院さんの庫裡の中に入らせていただきました。景色がいいです。中から見る外の庭がいいですね。

<隈さん>

庭や裏の里山がぱっと見えているところですね。日本の窓は何でもない庭だと思っても切り取り方でかっこ良く見えるじゃないですか。そういうところがいっぱいあります。

<飯田さん>

ご来場の皆様のなかで歓成院さんの庫裡を見たという方はいらっしゃいますか。まだいらっしゃいませんか。大倉山駅からも近いですから見ていただければと思います。

<隈さん>

スライドを用意できました。これは軒です。右が本堂になっていて、正面が山になっていて、これが新しい庫裡になっています。左側が「アソカ幼稚園」です。

それで、僕のカメラの向こうにあるのが入口になっています。建築部材でいうと垂木(たるき)になります。垂木とは屋根を支える部材です。その垂木が角度を変えながら曲面をつくっているつくり方です。

垂木という意味では日本の伝統建築ですが、コンピュータを使わないと図面は書けないですから、1個1個角度を違えていくとどういう効果が出るかというのをコンピュータで検証しながらつくっていますので、ある意味では現代のコンピュータの産物でもあるデザインです。

<平井さん>

全部を細かくコンピュータで計算するのですか。

<隈さん>

1個1個、角度を何ミリずつずらしていくと一番きれいになるかということをしながらつくっています。ちょっとした隙間から里山が見えています、三角形のところから。

大倉山の里山が見えて、右側の窓からは本堂が見えていて、突き当たっていくと畳の部屋があって、そこから下にずっと行くと、今、言われたようなやつがあります。

こういう形は下から光を照らすと、日本のお寺は夜、すごくかっこいいじゃないですか。日本のお寺はライトアップに向いています。夜もものすごくかっこいい風景が見えるようにしましたので、夜景も楽しみにしてください

<平井さん>

昼間だけではなくて夜も楽しめる、中からも外からも気持ちのいい建物ですね。

大倉山の“けもの道”を上がる別世界感

<漆原さん>

光と影の感じは、ジュンコちゃんちから大倉山記念館に登っていく竹山の中で何となく光と影を感じたのですか。

<隈さん>

森の木漏れ日、日本の軒裏は木漏れ日の表現だといわれますよね。

細い木の枝を下から眺めて木漏れ日が落ちてくる感じの、その経験が今の建築に生きているとよくいわれています。

木漏れ日の体験は、人類が森の中で生活していたときの一番好きな空間が木漏れ日の空間でしたので、その記憶が日本建築に生きたのではないかという気がします。

<漆原さん>

隈さんの記憶も息づいているという。

(参考)大倉山記念館(大倉精神文化研究所)

<隈さん>

裏の山に登っていくとき、森を登っていく、それこそ道がないところを、自分たちがつくった“けもの道”で上がっていくわけです。駅の(横からの)道で上がっていくのと全く違った体験で、上に出てくる雰囲気が好きでした。

<平井さん>

いろいろな方から昔の話を聞きますが、大倉山に生まれ育った皆さん、山の上に上がるのに、ちゃんと線路際の坂道から上がったという話を誰も言いません。みんな斜面を登っていったみたいです。

<隈さん>

尾根のところに行って、それで向こうの歓成院さんの先のところから下りてこられるという、あの別世界感。道路は管理されている道ではない、別世界の日本の世界が山の上にあるという感覚は特別でした。

大倉山と田園調布でわかったこと

<平井さん>

山沿いに農家のおうちがずっとあって、後ろが里山で木漏れ日があって、それは団地や文化住宅にはない生活感のある、光のある、影のある。

<隈さん>

そうですね。都会的なものとも違います。それから、田園調布(で実践された)、田園都市構想は「もう1回自然の中で生活しよう」というイギリスの19世紀末の運動で、渋沢(栄一)は田園都市構想から影響を受けてやりました。

でも、自然に帰るといっても結局は緑を植えるだけだから、農家が持っていた本当に植物と暮らすとか育てるとか、渋沢の田園都市構想はそういう深い関係ではありません。その辺の違いも大倉山と田園調布を見比べるなかで分かったなという気がします。

<平井さん>

住んでいる人の生活感、代々続いてきた伝統的な生活様式や生活環境があるおうち、生き方みたいなものが、隈さん的にはとても素敵だったのですね。

<隈さん>

サラリーマン的な自然と切れてしまった存在はある種の脆さがありました。自然につながっている力強さ・たくましさへの憧れがありました。

<平井さん>

どちらかというとそれは、おじい様からつながっているようなところですか。お父様は都会的なものが、どちらかというと良かったのですよね。

<隈さん>

うちのおやじはブルーノ・タウトに憧れるとか、デザインが好きでしたが、基本は都会的なものに憧れて、それは大正時代の青春の空気はそんな感じだったのではないかと思います。

みなが怖がった昔の精神文化研究所

<平井さん>

時間がだんだん少なくなっていますが、どうしても聞いておきたいと思うことが1つだけあります。あまり関係ないかもしれませんが、大倉山の駅前に、今、駅を出てすぐ西側のところにケンタッキー(ケンタッキーフライドチキン大倉山店)がありますが、あのあたりは昔、「大倉堂」という文房具屋さんか何かがありましたか。

<隈さん>

ケンタッキーのところは文房具屋さんでした。

<平井さん>

私は記事や写真でしか知りませんが、うろ覚えですが、駅のこちら側からも線路越しに大きい「大倉堂」という屋根の上に大きな看板があるような建物ではなかったかと思うのですが。

<隈さん>

屋根の上が目立つ感じがしました。大倉堂と書いてあったか、大きめな文房具屋で本も売っていたのかな。

<漆原さん>

私も「大倉堂」は記憶にあります。文房具を売っていました。そこの上で私は小学生のころに絵を習っていました。絵の教室があったので、そこに行って習っていました。

その教室で大倉山図書館、大倉山記念館のところに、みんなで写生に行って、そのころは今みたいにきれいではなく、昔は「お化け屋敷」とか呼ばれていたと思いますが、写生をしているときに人影が見えた・見えないという話で、「お化けがいたぞ」と言って家に帰ったというような記憶があります。

大倉精神文化研究所(現大倉山記念館)のことに関しては、何か思い出などはありますか。

(参考)大倉山記念館(大倉精神文化研究所)の正面右手側にある研究所の出入口、上部に三角形の窓も

<隈さん>

怖かったですよね。

<平井さん>

隈さんもお化け屋敷と呼んでいましたか。

<隈さん>

そう呼んではいませんが、明らかにお化け屋敷にしか見えませんでした。一時期、全く使われていませんでしたよね。

<平井さん>

廃墟ではありませんが、それに近い感じはありました。お金がなく、研究員が少なくなって、開店休業に近いような

<隈さん>

開店はしていたのですか。

<平井さん>

一応やってはいました。

なぜ挑戦的なデザインだったのか

<隈さん>

不気味だけど、それがかっこいいなと思いました。

デザインのせいもあります。あれが普通のギリシャの正統的なものだったら、そういう感じではありませんでしたが、柱が例えば下を細くしているとか、三角の窓を付けるとか、長野宇平治がやったことは、すごく挑戦的なデザインをしていましたよね。

<平井さん>

先ほど言われて驚いたといいますか、知らなかったのは、(大倉精神文化研究所を設計した長野宇平治は)辰野金吾のお弟子さんじゃないですか。一緒に日本銀行の建物(本店本館ほか各支店)をつくったり手伝ったりしています。

でも、正当に辰野金吾の建築をそのまま受け継いでいるというわけではないのですか。

<隈さん>

日銀の手伝いをして、単独で長野さんがやった支店もあるじゃないですか。だから、辰野金吾は基本的には長野さんをかわいがっていたと思います。

でも、長野さんなりに自分は辰野先生とは違うこともやりたいという強い熱い気持ちがある人だったのではないでしょうか。

<平井さん>

それが最後の最後に形になったものが大倉山記念館(大倉精神文化研究所)ということに。

<隈さん>

長野宇平治は自分が本当にやりたかったことを心を込めてやった、そういう迫力がある建物ですよね。傑作だと思います。

<平井さん>

ありがとうございます。

研究所からも影響を受けた隈作品

<漆原さん>

1つお伺いしたいのですが、大倉精神文化研究所に柱がありますよね。あれは隈さんの初期作品「M2」(世田谷区砧の環状8号線沿いに建つ著名なオフィスビル)の感じに若干通じるものがあるかなと思いました。

<隈さん>

それはあると思います。M2でも古典的なもののすごさは見せたいけど、でも先輩と同じことはやりたくないみたいなことで、僕からしたら大倉精神文化研究所を見てなかったらM2はできなかったかなと思います。

<漆原さん>

印象的な建物で、柱のモチーフですね。

<隈さん>

そのころ僕は日本の近代建築をまとめる「新建築」という本の特集で編集委員をやっていて、「どうしても大倉精神文化研究所を入れたい」と言って、その中に入れました。

そうしたら他の歴史家の先生たちが「何で?」みたいな感じで言われましたが、みんな決して大反対はしなくて、最終的には日本近代建築の中にこれを入れることができました。当時はそのように歴史の先輩の先生たちから言われました。

<平井さん>

伝統的な古典主義の正統的な建物から見ると、異端の建物ですよね。

<隈さん>

ヨーロッパにもないような崩し方をしているから本当にオリジナルです。辰野先生は何だかんだいってもヨーロッパにあるものを東京駅に何にしろやっているけれども、大倉精神文化研究所はヨーロッパにない建築ですからすごいと思います。

参考)1978(昭和53)年に建てられた港北区役所の庁舎

<平井さん>

いろいろな里山での体験で、その里山に世界にないような変わった建物があって、そういうものがいろいろな影響を与えて、それがずっと根底にあって建築の仕事を一生のお仕事にされました。

今、歓成院さんの庫裡もつくられて、まだまだいろいろな建物をつくられると思います。地元大倉山にというか、横浜にというか、港北区にというか、もっと建物をつくっていただきたい思いもあります。

大倉山が大きく変わるきっかけになったのは、菊名から港北区役所が移転してきたことでした。

1978(昭和53)年に建てられた現在の区役所の建物もだんだん古くなって、耐震補強を先年しましたが、あまり言ってはまずいのかなと思いながら、隈さんの事務所でつくってくれると、いいんだろうなと思っています。

元の区役所は菊名が最寄り駅で、村野藤吾さん(1891~1984年)が手がけたと言われており、今は「港北図書館」と「菊名地区センター」の複合施設になっています。

<隈さん>

前の「横浜市役所」(関内駅前)が村野先生だったことは有名ですが、旧港北区役所も村野先生の事務所ですか。それは初めて聞きました。

<平井氏>

ただ、村野先生のところの建築リストには入っていないっぽいのですが、設計などには名前が載っているという噂も。

<隈さん>

調べてみたいですね。

<平井さん>

時間が迫ってきました。今回の講演会は、今年2月に開催できず、もう隈さんに来ていただくのは無理だと思いながら、でも担当の方が問い合わせしたら、日を変えて来てくださるということで、お忙しいなか、調整していただきました。

こんな素人の集まりで専門的なことは何もお聞きできませんが、大倉山に対する思い入れがあったので、お引き受けいただけたのかなと思っています。

その思い入れが形に、作品となることを期待しております。ありがとうございます。(会場拍手)

<漆原さん>

実は港北区にはもう1つ隈さんの作品があります。

<平井さん>

高木学園(高木学園女子高等学校、菊名7丁目)ですね。

<漆原さん>

私はそこの幼稚園出身ですが、昔の園舎に通っていました。それが隈さんの園舎に変わったということで若干残念な気もしたのですが、でも隈さんで良かったと思っています。あちらに関して思い入れなどは。

<隈さん>

高木学園も歴史のある学校で、教育もすごく面白いことをやられていて、素敵なお庭がある。子供にとってはお庭がすごく大事だから、お庭を楽しくしようと思ってつくりました。

<漆原さん>

木を大切にされている感じで。

<隈さん>

そうですね。

<漆原さん>

こちらも港北区内にあるので、ぜひ見ていただければと思います。

※編注:最近では2020年に岸根公園駅近くの篠原町にある「横濱聖苑(旧「富士記念館・富士霊廟」)」の建物リニューアルも隈さんが担当)

大倉山に残る里山は「宝物」

<司会>

ありがとうございます。楽しいお話は尽きないところですが、ここで来場の皆様からのご質問をあらかじめいただいていますので、隈様にお答えいただければと思います。

先ほどの平井様のお話と重なるかもしれませんが、「仮に大倉山のどこかに隈先生が設計した建築を建てるとしたら、どこにどんな建物を建てたいとお考えでしょうか」という会場の皆様方からご質問をいただいています。

<隈さん>

もう1回、大倉山をよく歩き回らなければいけないなと思います。子供のころに歩いた道を今歩いてみると「こんなに狭かったっけ」というのがあるじゃないですか。だから、今の大人の目でもう1回見たいです

「大倉山は素敵なところがたくさんあるな、山も川もあるし」と思います。もう1回、再調査が必要です。

<司会>

歩いてみた上で建物を建てるとしたら、どんな建築を建てたいでしょうか。

<隈さん>

大倉山らしいものです。大倉山は、僕はすごく誇りに思っているし、こんなに東京の近くに里山がこんな形で残っていることは宝物だと思うので、それが感じられるようなものができたらいいなと思います。

(参考)都市化した市街地に今も残る大倉山の緑

「ある不思議さ」を持つ街が好き

<司会>

続いてのご質問です。「一番影響を受けた建築家と一番好きな町(場所)はどちらでしょうか」というご質問をいただいています。

<隈さん>

なかなか難しい質問です。僕は大倉山にはある不思議さがあると思いますが、「ある不思議さ」のある町が好きです。

<司会>

海外で好きな町はありますか。

<隈さん>

特にこの町は面白いなと思う町があります。それはある不思議さがある町で、例えばスコットランドのエディンバラは地形の面白さがあります。

人間がつくったものは地形にはかなわない。地形の面白さに人間がどうやって頑張っていくかという、元々の地形の面白さがあるところがいいですね

町は少しずつ変えたほうがいい

<司会>

地形にも注目されるのですね。では、最後のご質問です。

「私は大倉山に64年間住んでおり、交通の便や環境など気に入っています。そこで、もし隈研吾氏が大倉山地区を無条件に(責任なし)でつくり変えるとしたら、どのようにしたいですか」というご質問です。

<隈さん>

町をつくり変えることは、あまり考えたことがありません。町は少しずつ変えたほうがいいと思います。時間が町をかっこ良くするわけだから、ゼロからつくるのは、いいことではないと思います。

少しずつ時間をかけて直していくと面白くなります。

<司会>

もし隈様が今の大倉山の町を少し変えるとしたら、どんなところですか。

<隈さん>

それは調査が……

<司会>

区長としてはどんなところを、どんなふうに変えてほしいとお考えですか。

<漆原さん>

その前にぜひ大倉山の町を歩いていただいて、「ここがこう」あるいは「こういうところはこうしたほうがいいよね」ということを教えていただきたいと思っています。よろしくお願いします。

当時は気づかなかった古里の魅力

<司会>

最後に「隈様にとって古里 大倉山はどんなところですか」というご質問がありますが、いかがですか。

<隈さん>

当時は気づかなかった魅力に時間がたてばたつほど気づいていきます。

里山という言葉も僕らが子供のころは誰も使いませんでした。里山という言葉と特徴を聞いて、「大倉山じゃん」と思いました。

大倉精神文化研究所のことも後で建築士の歴史を追っていったら面白さが分かってきました。

後でどんどん掘っていくと面白さが出る町だなという感じがします。古里とは、そういうものかなと思います。

<司会>

子供のころには気づかなかった魅力がどんどん出てくるのですね。分かりました。ありがとうございました。

本日はお忙しいなか、港北区民をはじめ皆様のために貴重なお時間をいただき、素晴らしい講演会、フリーディスカッションでのお話、ありがとうございました。

元々は2月の開催で日程が変更になったにもかかわらず、調整していただきましたことを、あらためてお礼申し上げます。(会場拍手)

)2022年9月3日開催「港北地域学」特別講演会(基調講演・フリーディスカッション)のレポートは以上です

【関連記事】

世界的建築家が「原風景」とルーツを語る、港北区長らと“凱旋”講演会(2022年1月27日、当初の告知記事)

【参考リンク】

隈研吾建築都市設計事務所(作品や著書の一覧なども)

隈研吾氏(建築家)×歓成院(高野山真言宗)(大倉山2丁目、※当イベント開催のきっかけとなった)

隈研吾先生より『建築家になりたい君へ』(英理女子学院高等学校)(菊名7丁目、旧高木学園女子高等学校)


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