85年の歴史紡ぐ「綱島温泉の石碑」が消えた、民有地史跡の保存へ尽力を | 横浜日吉新聞

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【コラム】綱島東口から大綱橋を渡り、大曽根側の横断歩道を越えると旧綱島街道(大曽根商店街方面)との分岐点に現れる高さ1メートル超の石碑。その「ラヂウム霊泉(温泉)湧出記念碑」がいつの間にか消えてしまったことに気付いた人は、ほとんどいないかもしれません。それほど大きくはないこともあって存在感の薄い碑でしたが、大正期に始まった綱島温泉の歴史を伝え続ける唯一の存在です。

「ラヂウム霊泉(温泉)湧出記念碑」は大綱橋バス停の近くにあった(11月5日撮影)

この“綱島温泉碑”は、今から85年前の1933(昭和8)年3月に建てられたもので、綱島周辺の井戸水に温泉のラジウム成分が含まれていることを1914(大正3)年に発見した飯田家(飯田助太夫氏、綱島西)と、ほぼ同時期に樽町の井戸から湧出した茶褐色の水を温泉として申請した加藤順三氏(樽町)の名などが刻まれています。

温泉を最初に発見したのは、綱島で代々続く名家の飯田家でしたが、温泉街として発展するきっかけとなったのは、加藤順三氏ら樽町の人による旅館や土産店開業などの動きで、樽町はいわば綱島温泉の“元祖”。そのため、石碑も加藤氏が建造し、樽町に置かれました。

石碑が建てられてから85年、その間には、綱島街道の拡張工事などもあって石碑の位置は移動しているものの、温泉街発祥の地であったことを伝える唯一の存在として、歴史に詳しい人々や研究者にはよく知られた存在でした。

ついに敷地の建物解体、石碑に「処分」の文字

碑は綱島街道(写真左)と旧綱島街道(右)が分岐する民有地の端に置かれていた(5月27日)

しかし、石碑が置かれている場所は民有地。同地は菓子屋「杵屋」だった場所で、この碑を建造した加藤氏に関係する土地とみられますが、かつて商店として使われていた建物は、閉店してからしばらく経過しており、錆びた自動販売機なども放置されたまま。そうした敷地の片隅に、石碑もひっそりと立っており、碑の周辺にゴミが投棄されていることも度々ありました。

そんな石碑に危機が訪れたのは、先週(2018年12月)1日(土)のこと。石碑のある敷地に解体業者のトラックが横付けされるとともに、碑にはガムテープらしき紙片に「処分」と書かれて貼り付けられています。

敷地内の解体工事にともない、石碑に貼られた「処分」と書かれた紙(12月1日)

解体工事の関係者らしき人に聞くと「一両日中に処分します」とのこと。「貴重な史跡をいとも簡単に処分とは……」とあっけにとられましたが、事業者は土地を更地化する業務を命じられて派遣されているだけですので、まったく罪はありません。なにより、この碑は加藤氏が建てた私有物です。

とはいえ、このまま放っておけば建物とともに石碑も解体され、産業廃棄物としてダンプカーでどこかへ運ばれて、二度と見ることができなくなってしまいます。85年も歴史を紡いできたのに、目の前で消されようとしているのはやり切れない思いです。

「なんとかしなければ」と思ったものの、事件や事故なら警察や消防に連絡すれば救助に来てもらえますが、なにぶん相手は「石」です。頼りにすべき港北区役所や横浜市役所も土日は休み。あす日曜日には確実に処分されてしまうので猶予はありません。

同じ町内に嶋村さん、リヤカーで石碑を救出

しばらく悩んだ末、石碑近くの樽町2丁目に「嶋村家」があったことを思い出しました。同家の嶋村公(ただし)さんは、神奈川県議会議員であるとともに地元町内会「樽町第二親和会」の会長もつとめています。

電話をすると、運よく嶋村事務所で秘書をつとめる後藤久世さんにつながりました。

「大事な石碑を助けてください!」

「えっ、石碑??一体何があったのですか?」

急な電話でいきなり「石碑を助けてください」と訴えたので、戸惑ったようでしたが、事情を話すと「同じ町内なので、すぐに調べてみます」とのこと。

碑が消えた後の様子、よほど注視しないと無くなったことに気づきづらい(12月5日)

その後、土曜日も営業している横浜市歴史博物館や、綱島温泉の研究者である吉田律人さんが所属する横浜開港資料館へも“救助要請”の電話を掛けているうちに、嶋村事務所の後藤さんから連絡があり、「業者と交渉して石碑を引き上げてきました」という一報。

聞いてみると嶋村さんと後藤さんがリヤカーを引いて現地へ駆け付け、二人で石碑を救出して事務所まで運んできたといいます。

「かなり重かったよ……」と嶋村さん。後日、嶋村さんの事務所で石碑を持ち上げようとしてみたのですが、ピクリとも動きませんでした。「このお二人、どうやって運んだのだろうか」と今も驚くばかりですが、両氏のおかげで石碑解体の危機からは何とか脱しました

大綱橋たもとにある国有地へ移設できないか

現在、石碑は一時的に嶋村さんの事務所で保管されていますが、まだ行先は決まっていません。公的に認知された石碑ではないとはいえ、85年間にわたって生き延びてきたこの碑は、来年(2019年)で区政80周年を迎える港北区よりも古い存在です。

高度経済成長期まで栄華を誇った綱島温泉(温泉街)は、綱島西口の「パデュ中央広場」付近が繁栄の中心地だったこともあり、樽町が発祥だということは広く知られていません

樽町が綱島温泉街の元祖であったことを後世に伝えるためにも、この碑は樽町に置かれ、公開されていくことが一番望ましい姿です。

大綱橋を渡ってすぐの大曽根側には横浜市が借りている国有地がある(看板が建っている場所、右隣は今年1月末にオープンした「ファミリーマート樽町二丁目店」)

たとえば、大綱橋の至近、大曽根側の横断歩道の脇(ファミリーマートとなり、自転車置場の横)に国土交通省の管轄とみられる小さな空地があります。現在、木が植えられるとともに、「河川占有許可標識」という看板が建っています。

この場所は樽町と大曽根の“ゲートウェイ(出入口)”といえる位置で、大綱橋を渡った人がまず目にする場所です。ここに石碑を移設することはできないでしょうか。看板には国有地を横浜市が借りている、との表示がありますので公的な土地であることは間違いありません。

将来、鶴見川の河岸を通る狭い道路「川崎町田線」を拡張するための用地として確保しているようですが、拡張工事までの間でもいいですし、この場所は、道路拡張時に綱島街道と接続する大綱橋交差点を大幅に広げる計画(自転車置場付近まで拡大)になっているので、拡張時にも小さな石碑一つ分くらいのスペースを確保できる可能性が高いのではないでしょうか。

横浜市と国土交通省の決断と、土地の管理者である港北土木事務所による検討を、区民の一人としてお願いいたします。(西村)

【関連記事】

<開港資料館>綱島温泉を発見したのは誰か、戦前までを振り返る研究を発表(2018年3月19日、綱島温泉の歴史について)

綱島温泉の名残を求め歴史散策、開港資料館のツアーに定員の4倍が応募(2018年4月9日、石碑付近の歴史についても)

【参考リンク】

12月1日までラヂウム霊泉(温泉)湧出記念碑が置かれていた場所(グーグルマップ)

大綱橋たもとの国有地とみられる土地の場所(グーグルマップ)

綱島温泉の痕跡~ラヂウム霊泉湧出記念碑(2018年4月27日、横浜開港資料館「開港のひろば」第140号 展示余話)

大正昔話「綱島温泉街の“源泉”お菓子屋さんが掘り当てた鉱泉」(1994年9月発行「とうよこ沿線」、ページ下部に掲載)


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