パソコントラブル解決の“宮崎さん”は今も健在、日吉に本社置く老舗IT企業の軌跡 | 横浜日吉新聞

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法人サポーター会員による提供記事です】インターネットが日本で商用化されて間もない頃に創業した「IT企業」が日吉にあります。1995年に下田町で起業した株式会社宮崎通信は、駅前中央通りを経て現在は日吉7丁目に本社を置き、パソコンやスマートフォンのトラブル解決から通信インフラの工事や保守、ソフトウェアの開発まで“ITまわり”を一括して担うことで、業績を伸ばしています。日吉の街に育てられたという老舗IT企業の歩みを同社社長の濱田(はまだ)順二さんに聞きました。

“日吉の宮崎さん”こと濱田社長

「日吉では、ほとんどの方から『宮崎さん』と呼ばれ続けてきまして、顔は認識していただいているのですが、私の本名や会社の他の事業はほとんど知られていない気がします」と濱田さんは笑います。

中央通りや下田町での“宮崎さん”は、パソコンで困った時に駆け付けて助けてくれる存在。今でこそ濱田さん自身は現場へ出ることは少なくなくなったものの、古くからの住民のなかには、パソコンで何らかのトラブルが起きると、まずは電話をかける人が多いといいます。

「パソコン通信」時代から“通信”に触れ起業

1995年から日吉を拠点に営業を続ける宮崎通信の公式サイト

日吉で“宮崎さん”と呼ばれている濱田さんが宮崎通信を創業してからあと2年で四半世紀。出身地の宮崎日大高校を経て都内の日本大学を卒業後、大和ハウス工業系の建築リース企業に就職し、同社営業所長などを経て30歳時に退職。下田町で会社を立ち上げたのは1995年12月でした。

宮崎通信が誕生した1990年代の中ごろ、日本のインターネットはまだ黎明(れいめい)期。1984年に慶應義塾大学の村井純教授が東大・東工大・慶應大間を結ぶネットワーク通信を日本で始めたことを源流とし、90年代に入って商用化へ向けた動きが強まっていた時代です。一般の人がインターネットに気軽に触れられるようになるのは、2000年前後まで待たなければなりませんでした。

現在は日大高校近くの日吉7丁目に本社を置いている

80年代の「パソコン通信」時代から“通信”の威力や可能性を感じていたという濱田さんにとって、この分野で起業することは必然で、「最初は故郷の宮崎でプロバイダを作ろうとも思っていました。それが社名になっています」と振り返ります。

時代を先取りした分野で立ち上げた宮崎通信は、企業の大型工場などで通信インフラの構築や保守といった「BtoB(企業間取引)」の事業を専門とし、順調に企業顧客を増やしていきます。そんななか、日吉の街との関わりが深まったのが2001年、下田町から中央通りに事務所を移してからでした。

実は儲からない「パソコン救急センター」

「パソコンに詳しい人」として何かと頼られることの多かった濱田さんは、地域の人からのパソコントラブルに定額料金で駆け付けるサービスを同年6月スタートします。「パソコン救急センター」と名付けたサポートは好評を集め、“パソコンで困った時の宮崎さん”として地域にも知られることになります。

宮崎通信は通信や電気設備工事、ソフトウェア開発事業者として知られている

その後の日吉エリアでの浸透ぶりからすると、相当に儲かる事業に発展したのかと思いきや、「当時から事業としては非常に厳しく、今も会社売上の9割以上は他のBtoB事業によるものです。パソコン救急センターは、日吉のIT企業として地域貢献したいとの思いからやっています」と明かします。

現在の宮崎通信は、無線LANや電話回線といった通信ネットワーク設備の工事事業と、ビデオ会議システムやPOSシステムなどのシステム開発といった「BtoB事業」が主力。

特に大型工事の際に組む「足場」の資材数量やレンタル料金を積算できる独自ソフト「ASHIBA(アシバ)シリーズ」は、業界でほぼ唯一の存在として一目置かれる存在です。社員数は23人で2017年12月期の売上は3億2000万円と、前年の2億5500万円から伸ばしました。

パソコン救急センター以外の事業では東京都内に本社を置く企業を主な顧客としているため、「銀座あたりに本社を置こうと思ったこともあった」と明かす濱田さん。「日吉は土地代が高すぎてオフィス環境としてはなかなか辛い。銀座にオフィスを置くのとあまり変わらない条件の場合さえある」と話します。

売上の9割占める「BtoB」事業が好調だからこそ

それでも日吉から離れず、地域ではめずらしいIT企業として業績を伸ばし続けてきた同社。「やはり自分が長年住んできた街ですし、この街で会社が成長してきましたから、愛着は人一倍あります」といい、「日吉は交通の便が良いので都内の大半の場所へは1時間以内で行けますし、日吉に本社があることで都内のお客様と話が弾むことも多い」とのメリットもあるといいます。

宮崎通信の宮崎支社ビルでは、「富士通オープンカレッジ宮崎校」として子どもプログラミング教室やシニアパソコン教室も展開している

都内の顧客を中心とした「BtoB」の事業が好調ななかで、濱田さんは「もっと地域と密着したい」との思いを口にします。

生まれ故郷であり、社名の由来でもある宮崎県では同県からの誘致を機に2005年から支社を置き、ソフトウェアの開発拠点として成果をあげています。現在では現地に自社ビルを構えて「シニア向けパソコン教室」などの地域密着事業を新たに展開するまでに拡大しました。

そして本社である日吉でも、「事業としては今も苦しいのですが、パソコン救急センターは日吉の街との大事な接点ですので、これからも力を入れていきたいと考えています。パソコンからタブレット端末、スマートフォンまで、何か困った時は気軽に頼ってください」と、IT企業経営者としての濱田さんではなく、“日吉の宮崎さん”の顔に変わります。

もっと地域に密着していきたいと話す濱田社長

「私たちはインターネット系で見られるような“派手なIT企業”にはなれませんが、企業や個人の方がITで困った時に役に立てる、そんな地道な会社としてこれからも日吉と宮崎で頑張っていきたい」。

地域密着という新たな目標を掲げた宮崎通信。日吉の街と関わることが、これまで以上に多くなりそうです。

【参考リンク】

株式会社宮崎通信の公式サイト(日吉7丁目)

株式会社宮崎通信の沿革(下田町で起業、日吉本町を経て日吉7丁目に)

パソコン救急センター(スマホドック24との名でも展開中)

法人サポーター会員:株式会社宮崎通信 提供)


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