南日吉の夜店は6/2(土)から、仕掛け人の小嶋さんが抱く街づくりへの想い

横浜日吉新聞

南日吉の街がにぎわう夜店の季節が到来しました。今週末(2018年)6月2日(土)の17時から20時まで、昨年秋(2017年10月)以来となる、恒例の、南日吉商店街「夜店」が開催されます。

南日吉商店街で恒例となった「夜店」を運営する商店会会長の小嶋純一さん。元駒林小学校PTA会長。スポーツ推進委員、駒林小学校文化スポーツクラブ会長、港北区ミニバスケットボール協会会長など数々の「大役」をこなし、地域のために日々奔走している

南日吉商店街で恒例となった「夜店」を運営する商店会会長の小嶋純一さん。元駒林小学校PTA会長。スポーツ推進委員、駒林小学校文化スポーツクラブ会長、港北区ミニバスケットボール協会会長など数々の「大役」をこなし、地域のために日々奔走している

地下鉄グリーンライン日吉本町近く、日吉本町2~4丁目一帯に広がる「南日吉商店街」(南日吉商店会)で、6月と7月、9月と10月の第1土曜日に行われるこの催しは、同商店会加盟店がそれぞれの店頭スペースや店内で、飲食物や特売品の販売を行うほか、地域の協賛団体が出店し、ゲームや縁日を開催することで、毎年大いににぎわう人気イベントとして成長してきました。

このイベントの仕掛け人が、南日吉商店会会長で、同商店街で寝具店「こじま寝装」(日吉本町3)を営む小嶋純一さん

「南日吉商店街でも、盆踊りやダンスなどのステージも交えたサマー・フェスティバルなども一時期開催していたのですが、人手不足などの各店の事情もあり、この夜店スタイルに変更したんです」と、この評判イベントが、ある意味“苦肉の策”で誕生したものであると笑顔で語ります。

草創期の南日吉商店街「まだお店も数軒(5軒ほど)しかなかった」頃から街の歴史を見守り続けてきた小嶋さんの生きざまには、これから先の「超・少子高齢化」時代を生きるための人生の秘訣が、ぎっしりと込められているかのようです。

ふとん店を手伝いながら「スポーツ」に親しんだ学生時代

小嶋純一さんの父、故・繁栄さん(後ろから2列目の最右)が1927(昭和2)年3月に日吉台小を卒業した当時の写真(小嶋純一さん提供)

小嶋純一さんの父、故・繁栄さん(後ろから2列目の最右)が1927(昭和2)年3月に日吉台小を卒業した当時の写真(小嶋純一さん提供)

小嶋さんは日吉本町駅に近い小嶋家(日吉本町5)を本家とする家庭に生まれました。父の故・小嶋繁栄(さかえ)さんは10人きょうだいの男児の末っ子として誕生。

繁栄さんはサラリーマン。日吉駅近くにあった家が、1945年(昭和20年)4月、第二次世界大戦末期の川崎大空襲により焼失。当時勤務していた日本発条株式会社の寮が大曽根にあったため、そこに移り、小嶋純一さんが誕生しました。

母の故・小嶋ミサオさんが、現在の「こじま寝装」を立ち上げたのに伴い、1959(昭和34)年に日吉に戻ってきたといいます。

「母は、家計の足しにと、大曽根にあった寝具店で働くことで、布団の手縫いや綿入れの技術をマスターしたようです」と、現代の女性ベンチャー起業家さながら、「私にもやれる」と確信して、お店を開業したとのこと。

創業当時の「こじま寝装」は、日吉本町3丁目25(左側付近)にあったが、開業から2年もたたない1961(昭和36)年に、この付近で続々建てられたという銀行の寮建設に伴い、現在地に移転。当時の建物を引き車でひっぱってきたという。道路奥は日吉台中学校

創業当時の「こじま寝装」は、日吉本町3丁目25(左側付近)にあったが、開業から2年もたたない1961(昭和36)年に、この付近で続々建てられたという銀行の寮建設に伴い、現在地に移転。当時の建物を引き車でひっぱってきたという。道路奥は日吉台中学校

当時、8歳だった小嶋さんは「この頃から、自転車で布団を運ぶ母の仕事を手伝っていたんですよ」と、母を自ら助けていたという幼少時を懐かしみます。

東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に日吉台小学校(日吉本町1)を卒業。「小学校4年生の頃からは、当時やはり人気があった小学校の野球チームに所属していました」と、日吉台中学校(日吉本町4)時代にも体操部と陸上部両方に所属し、スポーツにより親しんだという小嶋さん。

高校は、当時バスケットボールの名門校として知られていた横浜高校(金沢区)に進学。「実は、日吉台中学校時代に、バスケット部を助っ人として手伝っていたこともあったんです。当時の横浜高校のバスケ部はとても厳しいことで知られていて、朝は始発電車に乗り、また帰りは夜10時近くにもなって帰宅しました。その甲斐あってか、関東大会に3年連続で出場という栄冠もつかむことができたんですよ」と、スポーツを通じた街づくり活動を行う源泉が、自身の学生時代にあったと当時を振り返ります。

「まったく通えない」大学を卒業、南日吉で家業を継ぐまで

高校卒業後は工学院大学機械科(東京都新宿区)に進学し、精密工学を専攻。しかし当時は学生紛争真っ只中の時代でした。

横浜高校時代の小嶋さん。バスケットボール部の練習も厳しく、金沢区への通学は当時とても遠く感じたという(小嶋純一さん提供)

横浜高校時代の小嶋さん。バスケットボール部の練習も厳しく、金沢区への通学は当時とても遠く感じたという(小嶋純一さん提供)

「大学は学生運動家の人々に占拠されてしまい、大学にはほとんど通うことができませんでした。あの有名な『あさま山荘事件』(1972年)が起きるなど、日本が大きく揺れていた時代でした」と、ほとんど学生らしい時間を過ごせなかったと、当時の世相を残念がります。

日吉も、現在のようにまだ発展をしていなかった時代。「田んぼに囲まれた未舗装の砂利(じゃり)道を長靴で歩いて赤門坂を上り、日吉駅から電車で東京へ。ハイカラな都会の友だちには、つい笑われてしまうほどの“田舎者”に映ったと思います」と、日吉と東京の“歴然とした格差”も痛感したといいます。

就職活動も、大手企業の説明会で「名だたる有名大学卒以外は帰ってください」と、当時の“学歴社会”の洗礼を受け、「母の体調もあまりよくなかったこともあり、実家を継ぐことにしたんです。当時はバブル経済に向かう前、仕事が尽きることなく、日が変わるくらいの時間まで働いていた、そんな時代でした」と、家業も絶好調であったと振り返ります。

業務用ミシンに向かう小嶋さん。毎年、職業体験で日吉台中や日吉台西中の生徒を受け入れている

業務用ミシンに向かう小嶋さん。毎年、職業体験で日吉台中や日吉台西中の生徒を受け入れている

よりスキルアップしたいと、東京・文京区にある職業指導員訓練校に通うことを決意した小嶋さんは、働きながら通学。

1981(昭和56)年には寝具製作の一級技能検定試験に合格、晴れて「一級技能士」に。

寝具科の職業訓練指導員免許も、翌1982(昭和57)年に取得するなど、「ふとんのプロフェッショナル」として、寝具店での勤務に邁進(まいしん)する人生を選択してきました。

地域活動で「スポーツ」との接点復活、ミニバス協会運営に尽力

地域活動にも積極的にかかわろうとしていた小嶋さんは、1980(昭和55)年から港北消防団第五分団第3班:日吉本町4~6丁目)に20年間所属し、うち1998(平成10年)から2年間は班長も務めるなど、周辺の人々との信頼関係を構築します。

駒林小で活動しているミニバスケットボールチーム「ミニ駒ダッシュ」を立ち上げた小嶋さん。港北区ミニバスケットボール協会の会長も務めている。「ダッシュ」という名称は、よく走るチームにしたいとの想いから付けられたという

駒林小で活動しているミニバスケットボールチーム「ミニ駒ダッシュ」を立ち上げた小嶋さん。港北区ミニバスケットボール協会の会長も務めている。「ダッシュ」という名称は、よく走るチームにしたいとの想いから付けられたという

また、子どもが習い始めた剣道でスポーツとの接点が復活、1992(平成4)年に横浜市体育指導委員(現:スポーツ推進委員)に就任し、駒林小学校(日吉本町2)を拠点とするミニバスケットボールチーム「ミニ駒ダッシュ」を設立するなど、まさに「地域や子どもたち」をフィールドとする活動を本格的にスタートします。

特にバスケットボールでは、1993(平成5)年に「港北区ミニバスケットボール協会」に加盟して以降、同協会の監事、副会長、広報部長の役職を務め、2011年4月からは会長に就任。区内の大会運営や地域活動への参加など、同協会の発展に尽力してきたといいます。

「高校時代はチームを取り仕切る“マネージャー”の仕事もしていたんです。当時の仲間たちへの気配りや、サポートした経験が生きています」と、バスケット三昧だった青春時代から続いてきた「夢」を今も追い続け、また実践していると笑顔で語ります。

「早くもチーム設立から四半世紀を過ぎたんですね。チームを巣立った親の子が入部してきてくれることもあるのは、本当にうれしいものです」と、“世代を越え”バスケットを「言葉変わり」として交流できること、これこそが、何よりも日々の生きがいにつながっていると小嶋さんはしみじみ言葉をかみしめます。

「地域のスーパーマン」が救う日吉近郊の未来像とは

小嶋さんは自身は日吉台小、日吉台中の出身。「小学校5年生の時に下田小が出来て、学区が分かれたんです。駒林小も当時はなかったんですよ」と、それぞれの卒業アルバムを片手に、懐かしい少年期を振り返る

小嶋さんは自身は日吉台小、日吉台中の出身。「小学校5年生の時に下田小が出来て、学区が分かれたんです。駒林小も当時はなかったんですよ」と、それぞれの卒業アルバムを片手に、懐かしい少年期を振り返る

駒林小学校のPTA副会長(1991~1994年度)や会長(1995~1996年度)、同小学校文化スポーツクラブ会長(2011年~現在)を皮切りに、学校関係のみならず、本業に関係する南日吉商店会の会長(2006年~現在)、港北区商店街連合会総務(2013年~現在)、そして、今年2月に設立されたオール港北オリンピック・パラリンピック等対策協議会(略称:オール港北、事務局:港北警察署内)の副会長にも新たに任命されたこともあり、その領域は、まさに地域活動での“スーパーマン”

「いえいえ、“誰もが、無理なく続ける、トライする、そして“楽しく、安心・安全に過ごせる街”こそが大切です」と、母亡き後も、自身がプロフェッショナルとして経営してきた寝具店の運営のほか、南日吉の各店舗、小・中学校や街を行き交う人々にとって「とにかく楽しさと、居場所を感じてもらえる街になれば」と、その想いを地域の人々に還元したいという決意を熱く語ります。

桜大門の横を多くの人々が通り抜け、今年も夜店に来訪する。「孫と夜店に参加するために、電車に乗ってきました」と言われたのがとても嬉しかったという(2017年6月3日撮影)

桜大門の横を多くの人々が通り抜け、今年も夜店に来訪する。「孫と夜店に参加するために、電車に乗ってきました」と言われたのがとても嬉しかったという(2017年6月3日撮影)

これからも開催日を拡大していきたいと考えている「夜店」をはじめ、スポーツや「オール港北」のネットワークを通じた区内外との交流、さらには、近隣のサービス付高齢者住宅「ココファン日吉」(日吉本町4)での検証実験を発端とした「高齢者のはいかい対策」の取り組みなど、その活動の幅がますます広がっている小嶋さんが抱くこれからの「街づくり像」とは――。

強く感じているのが「日吉近郊には、子どもたちの“居場所”が少ない」ということだといいます。「公園も広々としているわけではありませんし、駒林小学校でミニバスケットボールチームや、文化スポーツクラブでの学校開放を行っているのも、そのためです」と、何より、“地域の子どもたちの居場所づくり”のために活動を続けているという小嶋さん。

「恒例の夜店も、金蔵寺の桜が美しい季節にでも開いてみたいなと考えているんですよ」と、自身を支えてくれた妻の故・櫻子(おうこ)さんへの想いを、満開の桜並木の光景に重ねることもあるというその姿に、より多くの人々の共感が集まっていきそうです。

【2018年6月2日追記】

好天にも恵まれ、夜店がスタートします(16時50分頃)

好天にも恵まれ、夜店がスタートします(16時50分頃)

17時の開始時間を前に、開店の準備が着々と進められていました

17時の開始時間を前に、開店の準備が着々と進められていました

こじま寝装「じゃんけんわたがし」の店は既に大行列!

こじま寝装「じゃんけんわたがし」の店は既に大行列!

今年も多くの近隣の子どもたちで夜店が賑わいそうです

今年も多くの近隣の子どもたちで夜店が賑わいそうです

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「高齢者のはいかい対策」南日吉商店街での実証実験がNHKニュースで放映(2017年4月27日)

【参考リンク】

こじま寝装(南日吉商店会のサイト)

港北区ミニバスケット協会のサイト

登録チーム(港北区ミニバスケット協会)※ミニ駒ダッシュの案内


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