日吉住民も慶應生も多くが気づかない、義塾の歴史を背負った「日吉寄宿舎」の今

横浜日吉新聞
p160211p03

日吉寄宿舎のホームページも学生が独自に運営している

日吉には80年近い歴史を持つ伝統的な「寄宿舎(きしゅくしゃ)」があります。地元の戦史に詳しい層を除けば、住民はもとより、慶應義塾大学の学生にも広くは知られていないかもしれません。日吉キャンパスの施設では唯一、箕輪町内に位置する「日吉寄宿舎」(箕輪町1)は、今も約30人が寝食をともにしながら、学生による自治運営が続けられています。第二次世界大戦という国難に翻弄されつつも、現在も受け継がれる慶應義塾大学寄宿舎はどういう存在なのでしょうか。

そもそも寄宿舎という言葉自体聞くことが少なくなり、今では建築や消防関連の法律や条例くらいでしか見かけません。もとは、学校や会社、工場などが学生・社員のために設けた共同宿舎のことをそう呼んでいました。学生や社員寮の伝統的な呼び名といえるでしょう。

最近では一部の大学や高校などで、あえて学生・生徒寮に寄宿舎と名付けているケースも見られます。明確な定義はありませんが、寄宿舎と呼ぶ寮では、アパートや下宿などとは違い、入居者が寝食をともにすることで自律性を養ったり、学習精神を身に付けたりといった教育的な目的が大きいようです。

日本に幾つか存在する学生向けの寄宿舎として、最古参の部類に入るのが1937(昭和12)年創設の慶應義塾大学日吉寄宿舎です。日吉にキャンパスが開設されてから3年後にはすでに存在していたことになり、日吉の歴史と歩みをともにしています

寄宿舎が日吉に移って来る前の源流は、江戸末期の安政時代、江戸築地鉄砲州(現在の中央区明石町)で慶應義塾創設者の福沢諭吉が塾生と寝食をともにした「塾舎」までさかのぼります。

やがてこの塾舎では各地方からやってきた塾生を収容しきれなくなり、慶應4年(1868年=明治元年)に芝新銭座(港区浜松町)に設けた大型寄宿舎が日吉寄宿舎の起源といえそうです。元号をとって「慶應義塾」と名付けられたのもこの頃なので、まさに「慶應義塾の寄宿舎は慶應其物(そのもの)」(慶應義塾百年史)と言われる存在なのです。

箕輪町の丘の上、30人の学生が共同生活をおくる

箕輪町1丁目の丘の上にある日吉寄宿舎、付近は関係者以外は入れない

箕輪町1丁目の丘の上にある日吉寄宿舎、付近は関係者以外は入れない

そんな伝統を持つ日吉寄宿舎ですが、普通に日吉で暮らしたり、日吉キャンパスへ通ったりしていたとしても、その姿に接することはほとんどないはずです。

日吉駅東口の近く、慶應キャンパスと箕輪町1丁目の住宅街に挟まれた細い坂道を上りきると、ここが日吉であることを忘れさせるほど、緑にあふれた一画が現れます。小さな森といったような風景の先に見えるのが寄宿舎の建物です。

付近には柵や壁こそないものの、関係者以外は立入禁止地帯となっているため、3棟の建物は高い木々に遮られその全容が見えません。校門さえ設けられていない開放的な日吉キャンパスと比べると、どこか修道院のような神秘ささえ感じます。寄宿舎が背負う歴史の重さも影響しているのかもしれません。

日吉寄宿舎の自治委員会で総務をつとめる理工学部3年生の松崎博貴さんからは「ここには非日常があります。良い意味で毎日が修学旅行のようとでも言えるでしょうか」と意外な言葉が返ってきました。

現在、同寄宿舎では全国から集まった約30人の学生が寝食をともにし、年齢も学部も出身地も異なる2~3人が相部屋で共同生活をおくっています。トイレットペーパーの調達から寄宿舎費の徴収まで、生活に関わる役割をすべての学生が分担し、自治委員会を設けて自主的に行うという厳格さを追求する一方で、若い男子学生による集団生活ならではの“親睦”の機会はとにかく多い様子です。

日吉寄宿舎の入舎案内、毎年入舎できるのは10数名に限られている

日吉寄宿舎の入舎案内、毎年入舎できるのは10数名に限られている

同寄宿舎の年間行事予定などを見ると、4月の新入生歓迎会に始まり、有志が集まって散発的に開かれる鍋パーティーから旅行、ダンスパーティー、野球の早慶戦に合わせて現地まで歩くとの趣旨を持つ秋のハイク、「イルミネーションに関わりのない男たちだけで行われる」という12月24日の“仏教徒の会”など、ユニークさも兼ね備えたイベントが満載です。

また、24時間を超えて無断で留守にしない限り外泊も自由とのこと。寄宿舎内では夜な夜なゲームにいそしむ人もいれば、徹夜で勉強に打ち込む人もいたりと、“大学生らしい”生活をおくっているようです。

ただ、一般的な大学生と異なるのは、基本的に1年生の入学時から卒業までの4年間を30人が共に暮らす点です。多くの苦楽を共有することで、親や兄弟よりも濃い人間関係が築かれ、4年生が寄宿舎を去る際には涙なくして送り出せないといいます。これまでに寄宿舎から巣立ったOBは1000人近くいるとみられ、今も同窓会や交流会が頻繁に行われるなど、慶應OBのなかでも結束力の強さは際立っているようです。

良好な眺望と歴史的建築物、米軍に接収された歴史も

箕輪町2丁目の住宅街からは丘の上にある日吉寄宿舎の姿がわずかに見える(一番上にある白い建物)

箕輪町2丁目の住宅街からは丘の上にある日吉寄宿舎の姿がわずかに見える(一番上にある白い建物)

寄宿舎という名称や、長い歴史を持つ男子学生宿舎ということを考えると、古びた“梁山泊(りょうざんぱく)”のようなイメージを持ってしまいますが、現在は鉄筋コンクリート3階建ての「南寮」という建物を使用。2011年10月に横浜市から歴史的建造物として認定されたのを機に創建当時に近い状態に復元され、館内の全面リニューアルが行われたばかりです。

日吉の丘のなかでも、一番高い位置といえる場所に建てられているため、寄宿舎からは日吉や川崎の街が一望できるといいます。かつては東京湾まで望めたほどの眺望の良さから、第二次世界大戦中は日本海軍が使い、敗戦後には米軍が接収して将校らの居住場所となっていたというのも納得ができます。

戦前の画期的な施設で「ローマ風呂」と呼ばれた浴槽棟は、米軍がダンスホールに転用する際に破壊されてしまったという残念な歴史もありましたが、眺めと自然環境の良さは今も変わりません。

そして驚かされるのは寄宿舎費の安さです。なんと、授業期間中の朝夕食と光熱費などを含め月々3万円。「高い家賃として支払うはずの大金を、自分という人間自身の啓発のために投資できる」(同寄宿舎)のも学生にとっては大きなメリットといえそうです。

寄宿舎に入れるのは毎年10数人に限られており、入舎生は学生による自治委員会の面接によって決められています。自治委員会で副委員長をつとめる商学部3年生の梅原大起さんは「今年は3月に日吉台学生ハイツ(箕輪町1)が閉館してしまうこともあり、例年よりも見学を希望する新入生が多い」と話します。

79年目の春も日吉寄宿舎の新たな担い手が加わり、「慶應義塾」の伝統を紡(つむ)いでくれることになりそうです。

【関連記事】
日吉5丁目の西松建設寮、慶應大学の「日吉国際学生寮」として建て替え中(2016年2月9日)

【参考リンク】

慶應義塾大学日吉寄宿舎の公式ホームページ

日吉寄宿舎が横浜市歴史的建造物として認定される(2011年11月7日、慶應大学)

認定歴史的建造「慶應義塾大学(日吉)寄宿舎(南寮及び浴場棟)」(横浜市サイト内)


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