【歴史まち歩き】白亜の殿堂そびえる大倉山、90年を迎える駅と史跡を巡る | 横浜日吉新聞

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今回は記念館や駅とともにその名が浸透した「大倉山」です――。区の歴史や文化、現在の見どころを歩く連載「【わがまち港北番外編】こうほく歴史まち歩き」の第9回は東急東横線・大倉山駅の周辺を歩き、太尾から大倉山へと変わった地名の由来を探りながら史跡を歩き、見晴らしの丘公園や河岸など鶴見川沿いのスポットも紹介します。

港北観光協会による「歩いて魅力発見!港北区ウォーキングマップ」の第3弾では大倉山から新横浜方面へ歩く「大倉山から自然と芸術を求めて新横浜へ」も紹介されており、今回登場のスポットも載っているので参考にしたい(港北観光協会のページより)

港北区内を12の地区に分け、地域の歴史や名所・旧跡、名物や新たな街の動きを紹介するというコンセプトの本連載の執筆は、歴史エッセー『わがまち港北2』(2014年5月)とわがまち港北3(2020年11月)の共同執筆者としても知られる林宏美さん(公益財団法人大倉精神文化研究所研究員)が担当。今回は筆者にとって“地元”である大倉山地区の歴史散策を始めましょう。

)特記のない限り、本連載の写真は筆者・林宏美さんによる2021年10月25日の撮影です
)本連載は「横浜日吉新聞」と「新横浜新聞~しんよこ新聞」の共通記事です

「太尾地区」から「大倉山地区」に

現在の大倉山駅は商店街の高架上にホームがある(編集部)

連載第9回は大倉山地区です。以前の名称は太尾地区でしたが、住居表示の実施と町名変更により、太尾町から大倉山となりましたので、地区名もそれに合わせ、2014(平成26)年4月1日付けで太尾地区から大倉山地区へと変わっています。

地区の特色については、シリーズわがまち港北第185回「大倉山地区~地域の成り立ち、その1」に詳しく書かれています。古くからの地名である「太尾」の由来や、地域の発展、鶴見川の水害との関わりなど、大倉山地区で押さえておきたい情報が満載です。ぜひご一読ください。

「大倉さんの研究所がある丘」の愛称

「大倉山」の地名は、実業家の大倉邦彦が、駅近くの丘の上に大倉精神文化研究所を建てたことから、「大倉さんの研究所がある丘」の愛称として呼ばれるようになったのが始まりです。

大倉精神文化研究所と研究所創立者の大倉邦彦については、今年制作した『マンガで学ぶ 大倉邦彦物語』をお読みください。こちらの本は研究所附属図書館での無料配布していますし、PDF版は研究所ホームページ(こちら)からご覧いただけます。

『マンガで学ぶ 大倉邦彦物語』は2021(令和3)年7月に大倉邦彦の没後50年を記念して刊行。(2021年11月5日撮影)

太尾駅から大倉山駅へ~大倉山の90年

大倉山駅は当初、太尾町の町名から名付けられた「太尾」という駅名で、1926(大正15)年2月14日の東横線開通と同時に開設されました。太尾駅は、1932(昭和7)年4月9日の大倉精神文化研究所のオープンに合わせて、その直前の同年3月31日に駅名を変えます。

1935(昭和10)年頃の大倉山駅(大倉精神文化研究所所蔵)

駅名変更に際しては、東急(当時は東京横浜電鉄)から研究所に駅名候補の提案依頼がありました。研究所では「大倉文研」「研究所前」「大倉山」の3つの案を出し、東急社内での会議を経て、駅名は「大倉山」に決まりました。来年2022年は大倉山駅への改称から90年の節目です。

研究所からの駅名候補案を伝える書簡の控。(大倉精神文化研究所所蔵)

記念館坂を上って大倉山記念館へ

丘の上に建てられた大倉精神文化研究所本館は、1984(昭和59)年に横浜市の市民利用施設である「大倉山記念館」となりました。

大倉山駅から記念館へ向かう東横線の線路沿いの急坂「記念館坂」を上り、大倉山公園愛護会が手入れする花壇を眺めつつ、その先の階段を上がると、白亜の殿堂、大倉山記念館が見えてきます。

筆者が初めてこの建物を目にしたのはもう10年以上前ですが、その時の衝撃は忘れられません。今も青空の下で見る記念館の美しさには感動を覚えます。

現在の横浜市大倉山記念館は、元々大倉精神文化研究所本館として建てられたもの。冬の快晴の青空に大倉山記念館の白がよく映える(2021年2月2日撮影)

春の大倉山記念館。写真手前に写る花壇も大倉山公園愛護会が手入れをしている(2019年4月19日撮影)

大倉山記念館からまちづくり

ギリシャ神殿風とも称される記念館の建物は、大倉山の街づくりのコンセプトにも採用され、駅前の西口商店街は大倉山記念館のデザインを模した建物が並んでいます。

現在でも景観維持のために細かな決まりを定めた「大倉山エルム通り街づくり協定」があり、不動産広告でもよくPRされる美しい街並みを守る努力が続けられています。

大倉山の秋といえば「秋の芸術祭」

1985(昭和60)年から毎年開催されている「大倉山秋の芸術祭」のパンフレット(編集部)

大倉山記念館では今年(2021年)10月27日から11月1日まで、第37回「大倉山秋の芸術祭(秋芸)」が開催されました。記念館開館の翌年1985(昭和60)年から毎年開催されている秋芸は、大倉山の秋の風物詩です。

今年の秋芸最終日、11月1日で大倉山記念館は横浜市指定有形文化財指定から30年を迎えました。そして来年2022年で大倉山記念館は創建90周年です。港北区のランドマーク、文化活動の拠点として、大倉山記念館はこれからもその歴史を重ねていきます。

大倉山記念館東側の道を抜けていくと、大倉山公園梅林があります。梅林の歴史については港北観光協会のホームページ(こちら)に詳しく書かれていますので、そちらをご覧ください。

大倉山が最も賑わう日、大倉山観梅会

秋の芸術祭が大倉山の秋の風物詩ならば、梅林で行われる「大倉山観梅(かんばい)会」は春の風物詩です。当日は1年で最も多くの人が大倉山を訪れる日と言っていいでしょう。

港北区三大祭りの1つにも数えられる大倉山観梅会は、1989(平成元)年に横浜市政100年、港北区制50年のプレイベントとして始まりました。

昨年2020年は縮小開催、今年は中止、来年は梅も人も賑わう観梅会が戻ってくると嬉しいのですが……。

一昨年の2020年、新型コロナウイルス禍が明らかになったことで規模を縮小して開催された第32回大倉山観梅会の様子(2020年2月22日撮影)

梅林の先にある古刹「龍松院」と小机

梅林を北西に抜けるとその先に「龍松(りゅうしょう)院」があります。龍松院は小机にある雲松院の末寺で、460年程前に第2代小机城代である笠原康勝の開基によって、文殊堂として創建されたのが始まりです。

現在は龍松院の本堂隣に文殊堂があり、例年であれば観梅会に合わせて文殊菩薩の御開帳が行われます。

高台の丘に「太尾見晴らしの丘公園」

龍松院の前の道をさらに北西へ進み、突き当たりを右へ曲がり、その先の階段を上ると、「太尾見晴らしの丘公園」(一部は住所が大曽根台)があります。公園のある高台は元々「牢尻台(ろうじりだい)」と呼ばれ、周辺の開発や公園整備では、土器や竪穴住居跡も発見された古い歴史のある場所です。

「見晴らしの丘」とはいうものの、周囲は木々に囲まれ、南東方向から望む鶴見川と綱島新吉田方面が、唯一の見晴らしポイントです。現在は工事のため、園内にフェンスが設置されていますが、思いっきり走り回れる広場と小さな子でも遊べる遊具は公園の魅力です。

太尾見晴らしの丘公園からの見晴らし。大綱橋を走る東急東横線をギリギリ見ることが出来る

鶴見川沿い「太尾下町子供の遊び場」に土俵

公園の丘を下り、今度は鶴見川沿いに出ましょう。鶴見川へ出る道の途中には、「太尾下町子供の遊び場」があります。

ここには区内に3か所ある土俵の1つがあり、少年少女相撲大会が毎年行われていますが、コロナ禍で相撲大会は中止となっています。今は草に囲まれている土俵ですが、子どもたちの熱い取組と声援が戻る日を楽しみに待ちたいと思います。

舟運を今に伝える「太尾河岸跡」の碑

遊び場の入口には、2013(平成25)年に「鶴見川舟運(しゅううん)復活プロジェクト」が設置した「太尾河岸(かし)跡」の碑もあります。

かつて鶴見川では船で人や物を運んだ舟運が行われており、この場所には荷物の積み下ろしを行う河岸がありました。

久しぶりの来訪でしたが、以前にはなかった花壇が碑を囲うように造られており、地域の歴史を大切にする思いを感じました。

太尾下町子供の遊び場にある「太尾河岸跡」の碑

太尾公園と太尾堤緑道の彫刻

鶴見川の土手のサイクリングロードに出て、港北高校を通り過ぎ、太尾公園へと向かいます。

太尾公園は港北水再生センターの北側水処理施設の上の空間を利用した公園です。初めて来た時は、建物の上に野球も出来る多目的広場や、テニスコートがあることに非常に驚きました。

太尾公園は鶴見川方面の出入口と、南東側に太尾堤緑道への出入口があります。筆者は太尾堤緑道というと彫刻がまず頭に浮かびます。

緑道の彫刻は、1989(平成元)年に開催された第1回横浜彫刻展(YOKOHAMA BIENNALE’89=ヨコハマビエンナーレ)の受賞作品です。個性豊かな彫刻の数々はぜひ現地でご覧ください。

太尾南公園の入口。公園はこの上にある

水処理施設の屋上に2つの公園

太尾公園から太尾堤緑道を南へ進むと、水再生センターの南側水処理施設の上に「太尾南公園」があります。長い階段を上がった先には芝生の広場、水が流れるせせらぎや池もあり、こちらも建物の上の施設とはとても思えません。

区内の見晴らしの良い高台に来ると、必ず大倉山記念館を探す筆者、太尾南公園からも僅かに記念館が見えました。

太尾南公園からの景色。木々が茂る丘の上(中央付近)から僅かに大倉山記念館が見える

60年以上前に5社を合祀し「太尾神社」に

太尾堤緑道を北上して再び大倉山の駅前通りへ戻り、「太尾神社」へお参りします。

太尾神社は、1958(昭和33)年に旧太尾村にあった天満宮・神明社・八幡神社・杉山神社・熊野社の5社を杉山神社跡地に合祀し、社号を太尾神社と改めたのが始まりです。

神社の手水鉢と狛犬は、元々大倉精神文化研究所敷地内の大神宮にあったものを移設しており、よく見ると「大倉精神文化研究所」の刻字が確認出来ます。

太尾神社の社殿と狛犬

太尾神社の手水鉢

太尾神社の手水鉢。右側に「大倉精神文化研究所新築落成記念」と刻まれている

大倉精神文化研究所の大神宮。写真手前の手水鉢と鳥居奥の狛犬が、太尾神社に現在置かれている。(大倉精神文化研究所所蔵)

大倉山出身の隈研吾さんと歓成院

太尾神社から大倉山駅方面へ進むと、真言宗寺院の「歓成院(かんじょういん)」があります。

現在、境内では本堂の耐震工事、庫裡の建て替え、庭園整備などを行う「大倉山歓成院プロジェクト」の工事が進んでいます。プロジェクトの設計を担うのは、新国立競技場の設計でも知られる大倉山出身の建築家、隈研吾さんです。

ホームページでは、プロジェクトの詳細と完成予定図などを見ることが出来ますが、工事が完了した暁には、建築や庭園を目当てに多くの人が大倉山を訪れそうです。

海軍気象部が掘った地下壕も

歓成院といえば、戦時中に大倉山記念館の建物を借用していた海軍気象部の地下壕(ごう)がお寺の裏山にあったことを、シリーズわがまち港北第201回「歓成院裏山の防空壕~終戦秘話その20」で紹介しています。こちらでも隈さんと大倉山のことを書いていますので、合わせてご覧ください。

また、大倉山の海軍気象部については、シリーズわがまち港北の「第44回」「第69回」「第164回」「第165回」などでそれぞれ紹介しています。

歓成院の横には大倉山アソカ幼稚園があります。たまたま園児のお迎えの時間帯だったこともあり、「のの様さようなら」という挨拶が聞こえてきました。

「のの様」は仏様やご先祖様、広くは敬うべき尊い存在をさす言葉です。お寺の幼稚園ですので、仏様へのご挨拶があるのは至って普通なのですが、筆者にはとても新鮮で印象的でした。

工事が行われている歓成院の境内の様子。写真左端に写るのが大倉山アソカ幼稚園

子どもと一緒に散策したい大倉山

大倉山はよく知っている場所ですので、どこを歩こうか、逆に悩んでしまいました。しかし大倉山を散策してみて、記念館も梅林も鶴見川沿いにある大きな公園も、家族でのちょっとしたお出掛けにちょうどいい場所だと改めて感じ、筆者も息子と一緒に大倉山へ行きたくなりました。

次回は樽町です。筆者は3年だけ樽町に住んでいたことがあります。懐かしい場所での新たな発見もありそうで、次の散策もまた楽しみです。

<執筆者>
林宏美(はやしひろみ):1982年4月神奈川県小田原市生まれ。中央大学大学院博士前期課程修了。2009年4月大倉精神文化研究所非常勤職員、2011年7月常勤。2014年4月同研究所研究員、2021年4月から図書館運営部長(研究員兼任)。勤務する研究所の創立者・大倉邦彦氏と誕生日がピッタリ100年違いという奇跡の巡りあわせにより、仕事に運命を感じている。小田原市在住(2011年から2014年まで大倉山に在住)。趣味はカラオケとまち歩き。一児の母。子育ての合間にSNSで地域情報をチェックするのが日々の楽しみ。冬の澄んだ青空の下で見る大倉山記念館と梅の時期の大倉山の賑わいが好き。

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【わがまち港北番外編】こうほく歴史まち歩きのバックナンバー(これまでの一覧)

【参考リンク】

書籍『わがまち港北』公式サイト(『わがまち港北』出版グループ)


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