【法人サポーター会員による提供記事です】車に乗る人を支え、頼られる存在になりたい――日吉ゆかりの経営者が、樽町で運営する「車検のコバック」港北樽町店(樽町3)※(追記)2019年6月1日より「横浜綱島店」に店名変更※が、今月(2018年6月)で、開店から2周年を迎えました。
同店を経営する株式会社マルシンコマース(旧丸新自動車工業株式会社)の代表取締役・水柿(みずがき)敏雄さんは、「港北区、価格的には割安感があり、点検項目も法定点検以上行う、高いレベルでのサービスを提供できたら」と、2000(平成12)年に前経営者から事業を引き継ぎ、自動車整備の指定工場(民間車検場)として同社を運営。これまで培ったノウハウを、「お客様に還元させていきたい」と、日々樽町で奮闘しています。
「慶應義塾大学の地下にある、日吉台地下壕にも行ったことがあるんです」と、懐かしい幼少時を振り返る水柿さん。
数々の人生の転機を経て、樽町の地域で「カーライフの気軽な相談役になれたら」と事業にチャレンジする日々。また、公益財団法人「神奈川法人会」の理事、“樽大曽根”の支部長としても、地域に根差す活動をも続けている水柿さんのこれまでの歩み、そしてこれからの夢に迫りました。
賑やかで裕福な家庭で育つも、突然の「父との別れ」が
「来年、還暦を迎えるんです」という水柿さんは、1959(昭和34)年生まれ。東京・小石川(文京区)出身の父や親戚が経営する大田区下丸子の工場近くで誕生、3歳の時に、当時、JR鹿島田駅にも近い場所(幸区北加瀬)に両親が自宅を購入、家族で転居します。
時代からか「下丸子駅(多摩川線)の駅前には映画館が3、4館もあって、父の故郷から集団就職してくる社員らに、よく映画を見に連れてっていってもらいました」と、懐かしい当時を振り返ります。
武士の家系だったという父は厳格で、第二次世界大戦(太平洋戦争)時代も出征したものの、終戦時に特攻隊の基地があった鹿児島から、「徒歩で2年かけて川崎まで戻ってきたんです」と、力強さをも持ち合わせた人柄だったものの、不慮の事故で水柿さんが中学校1年生の時に死去します。
「親類一同で企業経営をしていたためか、比較的裕福な家庭で育ったと思っていますが、明らかにこの時以降、食卓のおかずも減ってしまい、父が亡くなったことを実感しました」と、「怖いがかっこよかった」父が亡くなったショックを感じることも多かったといいます。
日吉近郊の懐かしい記憶、そして人生の挫折
日吉小学校(北加瀬1)時代は、安保闘争が行われていた時代で、「日吉駅前の慶應義塾大学は、銀杏(いちょう)並木が見えなくなるほど、高いバリケードで封鎖されていました」と、懐かしい当時を振り返る水柿さん。
北加瀬の自宅から日吉駅前商店街の模型店まで通い、「綱島街道の付近も、夜、当時は真っ暗でした。矢上キャンパスの付近まで野っ原が広がり、高く生い茂った草に隠れて、かくれんぼができるくらいの荒野、という風情でした」と、今とはすっかり変わった日吉駅前の光景が、今でも目に浮かぶといいます。
小学生時代は町内会の少年野球チームに入っていたものの、日吉中学校(北加瀬2)に入学するとサッカー部に入部。
1年生の時の新人戦からレギュラー、川崎市の大会で2位に入賞するほどの活躍から、スポーツで日本体育大学荏原(日体荏原)高校に入学したとのこと。
しかし、人生の試練がここでも訪れ、「足を骨折したことから、サッカーの道は断念せざるを得なかったんです。父親がいなかったこともあり、鹿島田のレストランでアルバイトばかりするようになってしまいました」と、強い挫折感を味わったという青春時代についても言及します。
またも挫折を経験、近隣の経営者の導きで「外資損保」の世界へ
アルバイト先のJR鹿島田駅前のレストラン「マミークック」(閉店)では、レシピを書くほどに“仕事の楽しさ”を感じ、“人に役立つ技”をマスターできたという水柿さんは、長期休暇時は渋谷や平塚の鮮魚店でアルバイトも。池袋西武(東京・豊島区)での催事では24時間働いたこともあったといいます。
中でも料理の腕を自身感じたことから、高校卒業後は東京都内にあった調理師専門学校へ進学するも、実習・赴任先の伊豆・堂ヶ島のホテルでの勤務を経て、体調を崩す経験も。
調理師への道を断念し、かつて父が経営していた親類の会社に入社するも、これも続かず、「路頭に迷う日々でした」と、またも人生のピンチを迎えた当時を振り返ります。
これを見た近郊の損害保険代理店経営者が、「保険の仕事先を紹介するから、やってみなさい」と、水柿さんに声をかけてくれたというのです。
日本の大手損害保険会社とも取引があったその人が水柿さんに、あえて勧めたのが「外資系のAIU損害保険株式会社(現AIG損保)でした。早く家庭を持ちたい、という想いもあり、保険業界も急成長中だったことから、この道で食べていくことを決意したんです」と、資格取得から飛び込み営業、そして独立までの道をひたすら邁進したと、“懸命に働いた”というAIU保険時代をしみじみと懐かしみます。
横浜日吉時代を経て、創業半世紀の自動車整備工場を継承
新人時代は、東京・市ヶ谷での3ヶ月の研修の後、「縁もゆかりもなかった」東京・銀座8丁目(中央区)のフィールドで「全国5位の売り上げを上げることができました」と、猛烈に努力を重ねた日々を振り返る水柿さん。
27歳で社内独立を果たし、地元・川崎市内で勤務した後、29歳の時に目黒で友人と中古車販売店を経営。新会社を設立した後、1995年(平成7)年からは横浜・日吉7丁目で中古車販売店、生命保険・損害保険の代理店としての店舗「ワールドファミリー(WORLD FAMILY)」を創業し、横浜日吉との縁が深まることになります。
さらに、保険会社時代の紹介があったことから、1966(昭和41)年に先代・丸山新一さんが創業した丸新自動車工業株式会社を、2000(平成12)年に丸山さんが引退するのに伴い、事業継承し日吉から移転。
事業を引き継いだ当時は、整備士5人、受付・事務2名のみだったといいますが、現在はそれぞれ6人、6名体制まで雇用も拡大し、業績も順調に伸ばしているといいます。
特に、創業半世紀を迎えた2016(平成28)年には、車検専門店の全国チェーン「車検のコバック」(本部:愛知県豊田市)に加盟。港北区内では唯一の同チェーン店舗として、「それまで年間約600台だった車検台数が、加盟後すぐに、年間1000台を越え、今ではなんと加盟前の2倍、年間1200台以上の車検を手掛けるまでになりました」と、チェーンへの加盟効果、そして「地域ナンバーワンとしての目標をクリアしていきたい」と想いを力強く語ります。
「どこにも」「いきたい時に」行けるカーライフを応援
樽町に来てからも「はじめの数年間は知り合いも少なく、大変苦労しました。近隣の居酒屋など、樽町であたたかく迎え入れてくださった方には心から感謝しています」と、同じ港北区内でも、当時は日吉とは“全く異なる地域性”を感じたという水柿さん。
経営改革にもより力を入れてきたなか、働く社員・スタッフの環境整備には力を入れているとのことで、海外からの“意欲ある”研修生を「外国人技能実習制度」(2016年11月施行)に基づき受け入れ、車や自動車整備の実務についての技術を高める支援を行っています。
また、受付・事務スタッフにも安心して働いてもらいたいと、「特に子育て中のスタッフのお子さんが発熱したり、保育園や学校を早退したりしたら、“すぐ帰りなさい”と言っています。それぞれが仕事を引き継ぎ、共有できる態勢を整えているんです」と、“家庭や子どもたち”あっての仕事だと、水柿さんは言い切ります。
「高品質・低価格・安心・安全な車検で、皆様のカーライフを支えていきたい」といったコバックとしての目標を掲げるほか、事故判例にも熟知し、今も学んでいるという保険業界で得た独自の知識もより生かしたい考えです。
「今、各地で自動車整備工場の後継者不足が言われていますが、各地の工場が一体化し、持ち株化しての経営を行うといった新しい整備工場を作れないかという夢を抱いているんです」と、近未来の自動車整備業界についても“大きな夢”を描いているとのこと。
若者がなかなか自動車を持ちにくい時代とも言われる昨今、「自由に、行きたいところに行ける車の楽しさも伝えていけたら。若者にも負担を感じさせない車検費用と自負しています。コバックとしての創業2周年感謝セールも来月(7月)末まで開催していますので、お気軽にご利用ください」と、水柿さんは多くの来店を呼び掛けています。
「車とともに生活し、車を楽しめるよう、これからも日吉や綱島、樽町エリアをはじめとした港北区民のカーライフ支援に全力を尽くしたい」(水柿さん)との考えです。
【参考リンク】
・車検のコバック港北樽町店のサイト(株式会社マルシンコマース)※(追記)2019年6月1日より「横浜綱島店」に店名変更
(法人サポーター会員:車検のコバック 港北樽町店~株式会社マルシンコマース提供)