<東横線100周年レポ(4)>綱島の栄枯盛衰、温泉と鉄道が街に与えた大きな影響 | 横浜日吉新聞

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【東横線100周年フォーラムレポート(4)】先月(2025年)8月19日に慶應義塾大学日吉キャンパス内協生館で行われた「東急東横線100周年フォーラム~沿線5駅の“未来を語る”」(一般社団法人地域インターネット新聞社主催)について、今回は横浜都市発展記念館で主任調査研究員をつとめる吉田律人さんの講演を紹介します。

都市を語るうえで重要な綱島温泉

<司会(広瀬未来)>

続きまして綱島駅担当の吉田律人さんです。

吉田さんは新潟県生まれ、国学院(國學院)大学大学院・文学研究科博士課程後期を修了し、2008(平成20)年に横浜市ふるさと歴史財団に入職後、2021年から横浜都市発展記念館に所属。2023年からは主任調査研究員をつとめます。

専門は日本近現代史で、主に軍事史や災害史、都市史、地域史、生活史などの分野に注力し、最近は「公衆浴場」に着目し、銭湯や綱島温泉の研究をされています。それではよろしくお願いいたします。

横浜都市発展記念館 主任調査研究員・吉田律人さん

ただいまご紹介いただきました吉田でございます。私は新潟から上京して国学院大学に入学したのですが、ずっと東急さんの沿線に住んできました。

最初は、田園都市線のたまプラーザで、そこにも大学のキャンパス(国学院大学たまプラーザキャンパス=青葉区新石川)があったのですが、大学院は渋谷(国学院大学渋谷キャンパス=渋谷区東)ということもあり、今は東横線沿線に住んでいます。東急線に対しては特別な思いがあり、ここでお話をできることを感謝しております。

今は横浜の博物館(横浜都市発展記念館)に勤めていますが、もともとは軍隊と災害の研究をしていまして、現在は災害が発生すると自衛隊が出動しますが、それがいつ頃から始まったのかといった内容です。

博物館に勤務して今年で17年になり、そのなかで横浜の地域の歴史を掘りおこす作業を行ってきました。市内の旧家へ伺い、蔵から古文書を見つけ、それを整理して分析し、横浜の新しい歴史像を提示するというようなことを普段の仕事としています。

その過程で、今から7年前に「銭湯と横浜」(2018年1月~4月、横浜開港資料館)という展示を担当させていただきました。

横浜開港資料館では2018(平成30)年1月31日~4月22日の82日間にわたって開かれた企画展「銭湯と横浜」のリーフレット

横浜市内にある銭湯の歴史を語るという展示でしたが、そのなかで銭湯だけではなく、横浜で取り上げなければならない存在として気づいたのが「綱島温泉」です。綱島温泉は都市を語るうえで非常に重要な存在であると気づかされ、研究に取り組んできました。

阪急の“宝塚”を目指した綱島

「『綱島駅』―温泉街の記憶―」をテーマと定めた講演となった

「『綱島駅』―温泉街の記憶―」をテーマと定めた講演となった

その綱島温泉と密接なかかわりを持つのが綱島駅です。1926(大正15)年2月の開業時は「綱島温泉」という駅名でした。

駅が開業した時、横浜の新聞がどのように報じたのかを見ていきましょう。

スライドに書いたように、「鶴見川を越したすぐの停車場綱島温泉は中枢であるだけに、村の青年団や軍人団などが賑やかにお祝いをしている」と報じられています。

1926(大正15)年2月の綱島駅開業時に新聞で報じられた内容と、これまでの出来事

1926(大正15)年2月の綱島駅開業時に新聞で報じられた内容と、これまでの出来事(映写スライドより)

先ほどから東横線が開業した当初は「がら空き電車」で、(大阪・宝塚・神戸・京都を走る)阪急電鉄の創業者・小林一三(いちぞう)を見倣(なら)って沿線開発をしていったというお話(東急株式会社・竹内敏浩さん講演/慶應義塾福澤研究センター教授・都倉武之さん講演がありました。

東急の前身となる会社(目黒蒲田電鉄→東京横浜電鉄)は、阪急の小林一三に見倣って綱島を温泉街化していこうという考えを持っていました。

小林一三は沿線に宝塚温泉(兵庫県)を設けることで集客していますが、これと同じことを東横線で行おうとしたのが綱島です。

昭和初期から桃と温泉イメージ

現在の綱島はどのようになっているのでしょうか。こちらは師岡町の師岡熊野神社の裏側から綱島方面を撮影した写真です。(真ん中左寄りにある)赤と白の「鉄塔」に注目していてください。

現在の綱島方面を写した写真、真中左寄りにある赤と白の「鉄塔」に注目を

この写真を見るとマンションや住宅が建ち並んでいて、いわゆる東京のベッドタウンになっていることが分かります。

一方、開業した頃はどんな風景だったのでしょうか。こちらは開業後(昭和初期頃)の写真です。

綱島駅(当時は綱島温泉駅)が開業した後(昭和初期頃)の写真、この時代から「鉄塔」がある(映写スライドより)

水田が中心の田園地帯で、先ほどの「鉄塔」がほぼ同じ位置にあります。この写真を見ると、風光明媚な地であったことが分かるかと思います。

この時代の様子について、郷土史家の栗原清一という人は1928(昭和3)年の文章で、「横浜駅から金20銭を奮発して東京横浜電車に乗れば、わずか15分で綱島温泉駅に連れて行つてくれる」というように書き、綱島の地は「桃の名所」であるとも言っています。

1928(昭和3)年に郷土史家の栗原清一が残した文章「横浜の史蹟と名勝」より(映写スライドより)

文章のなかに「昭和2年から横浜市に仲間入り」とありますが、かつて綱島は橘樹(たちばな)郡「大綱村」の一部でしたが、1927(昭和2)年4月から横浜市に編入されました。

横浜市に入った綱島はラジウム温泉が有名であるとし、「桃と温泉」という二つのイメージが戦前期の段階で語られていたわけです。

東横線開業で温泉街が一気に発展

駅開業間もない頃、東口にある諏訪神社からの眺め(映写スライドより)

こちらの写真は諏訪神社(綱島東2)の上から綱島温泉駅が開業した直後に撮影したものです。最初の頃はほとんど温泉旅館がありませんでした。

それが1935(昭和10)年ごろになると、だいたい40数軒の温泉旅館街へと一気に増えています。この背景には東横線の開業があり、綱島はわずか6~7年の間に都市化するわけです。

綱島温泉の歴史を語る古文書のようなものがあればいいのですが、ほとんどありません。唯一残っているのが、大綱橋たもとの樽町にある「ラジウム温泉湧出記念碑」で、都市化し、ベッドタウン化した綱島で温泉街を語る文字資料として残されたのがこの碑です。

大綱橋の樽町側にある「ラジウム温泉湧出記念碑」(映写スライドより)

碑の表面には大西一郎という当時の横浜市長(第11代、1931~1935年)が揮毫(ごう)していますが、裏面を見ると、この温泉が湧出してどのように検査されたのかが関係者の名前とともに書かれています。

温泉が湧出した時に調査したのが内務省の東京衛生試験場ですが、大正3年7月31日に検定し、8月8日にこれを分析したとあります。

つまり、綱島温泉が湧出し始めたのは大正3年(1914年)だということがこの碑を見れば分かります。

「ラジウム温泉湧出記念碑」の裏側に彫られている内容(映写スライドより)

さらに発見者が「飯田助大夫」、発見所有者は「加藤順三」、それを後援したのが「飯田助夫」となっています。飯田家は綱島台にある旧名主(なぬし)の家で、当時の家屋などは今も地域にとって重要な文化遺産となっていますが、飯田家の人々が色々と動いてきたことが記録されています。

さらにキーパーソンとなっているのが加藤順三という人物で、この人の家は後に「杵屋」という菓子店になるのですが、ここが温泉を発見した人たちだということが分かりました。

そして、温泉がどう発展してきたのか、その人たちの名前も次のように書かれています。

  • 温泉旅館元祖・小島孝次郎
  • 汲湯温泉開拓者・福澤徳太郎

この小島孝次郎という人物は「永命館」という綱島温泉で一番最初につくられた温泉旅館の経営者だということが分かっています。

もう一人の福澤徳太郎は非常に面白い人物で、碑にある「汲湯(くみゆ)」とは、綱島温泉で出た黒湯を鶴見川の水運を使って、鶴見のほうへ持って行ってました。今、森永製菓の鶴見工場(鶴見区下末吉)が置かれていますが、昔その付近に大綱温泉という銭湯があり、黒湯を提供していました。

街道と川が交差していた綱島

綱島温泉はすぐに発展したわけでなく、東横線の開通が大きなきっかけでした。

こちらは1880(明治13)年に陸軍参謀本部の陸地測量部という組織が作った綱島界隈(かいわい)の地図になります。

今から145年前、1880(明治13)年に陸軍参謀本部・陸地測量部が作った綱島周辺の地図(映写スライドより)

綱島は綱島街道と鶴見川が交差している場所で、鉄道が開通する以前から川と道が交差する交通の要衝(ようしょう)でした。

1872(明治5)年に新橋と横浜間に鉄道が開業したのを契機に鉄道路線が増えてくると、水上や陸の交通が衰退してきます。

かつて交通の要衝だった綱島は取り残されるような形になっていたのですが、最初に樽町で温泉が発見され、大きく変ってきました。

当初は交通の便が悪いので綱島に温泉旅館ができてもなかなかお客さんが来なかったのが、東横線が開業し、交通の便が一気に良くなったわけです。

先ほどの資料(郷土史家・栗原清一による昭和3年の文章)でも紹介しましたが、東京や横浜からちょっとした時間で訪れることができるようになりました。

さらに当時の東急は電鉄直営の公衆浴場を駅の前に作るわけです。この場所はのちに「東京園」という日帰り温泉に変わりますが、資本を投下することによって綱島地域の開発を進めていきました。

左上から桃の花が広がる大綱橋を渡る東横線、綱島東口に設けられた電鉄直営の日帰り温泉、現在の「菖蒲園前」信号(映写スライドより)

温泉旅館があると、一日風呂につかってということになりますが、それだけだと観光地としては物足りないと、東急は綱島温泉周辺の観光地開発を徹底的に行っていきます。

綱島というのは桃が有名であり、桃の花は目を癒します。鶴見川にはかつて桜並木もありました。そうした植物を中心とした観光地を目指すようになります。

そんななかでつくられたのが、今は名前しか残っていない「菖蒲(しょうぶ)園(樽町に「菖蒲園前」という交差点名やバス停名で残る)です。

繁栄する戦前の綱島温泉街(映写スライドより)

当時の東急と地元の人が一生懸命になって開発を進めた結果、上の写真のようになります。綱島温泉の中心部には大きな温泉旅館がどんどんできていきました。

1935(昭和10)年には、「横浜貿易新報社」という今の神奈川新聞社の前身となる会社が神奈川県の名所を選ぶ企画()を実施しています。

そこには綱島温泉も出てきまして、神明社(綱島東2、綱島駅入口バス停前の階段を登った先)という神社跡地に「桃雲台(とううんだい)」という石碑が残っており、ここには綱島温泉と書かれています。

神明社(綱島東2)に置かれている「桃雲台(とううんだい)」と彫られた石碑(映写スライドより)

)1935(昭和10)年に横浜貿易新報社の45周年記念事業として行われた「名勝史蹟四十五佳選(県下45名勝・史蹟投票)」で「綱島温泉桃雲台」は6万票弱を獲得し、神奈川県26位だった。港北区域では当時まだ都筑郡新田村だった新吉田の「若雷(わからい)神社」も約4万6800票を得て29位につけている。この時1位だった愛甲郡半原(現愛川町)の「石小屋」(渓谷)はのちにダム化で水没。詳細は横浜開港資料館「開港のひろば」第136号「<展示余話>横浜貿易新報社主催『神奈川県名勝・史蹟四十五佳選』と地域の人々」に綱島温泉桃雲台と若雷神社の入選事例が詳しく掲載されている

戦争と水害の苦難から戦後に復活

このように綱島温泉は東横線の開通後わずか数年で一気に発展()するのですが、ここから苦難が襲ってきます。

たとえば、1937(昭和12)年に日中戦争が開戦し、戦況が悪化していくなかで物資がなくなってくると、温泉旅館街は衰退を始めます。さらに1938(昭和13)年には鶴見川の大洪水が起こり、戦争と災害によって大きな打撃を受けます。

かつて吉田さんは2022年3月に港北区主催の「港北地域学」第4回講座で「東京大空襲と綱島温泉」とのテーマで講演を行っており、その際の映像は「港北映像ライブラリ」に残されている

決定打となったのは、1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲に関連して綱島が空襲を受けたことで、樽町の旅館を中心に焼失し、いったんは温泉街が無くなってしまいました。

ただ、幸いなことに戦後は再び温泉街として復活を果たします。高度経済成長期の前くらいには、いたるところに温泉旅館が建つことになり、戦前期は約40軒だったのが戦後は80軒以上に増えました。

日帰り温泉「東京園」は新綱島駅の建設工事と再開発にともない2015年5月に無期限休業となり、その後に建物も解体された(映写スライドより)

しかし、これもモータリゼーションの影響で衰退を始め、10年前ですが私も大好きで通った日帰り温泉「東京園」も残念ながら閉まってしまいました。今現在は綱島駅の周辺が温泉街だったという歴史は無くなっています。

一方、その痕跡として石碑はまだ残っています。歴史のうえに現在があって未来がある、と考えますと、街の今後を考えていくなかで、綱島のアイデンティティーである「桃と温泉」や、石碑・歴史にも目を向けていくことが重要になるかと思います。

とりとめのない話となりました。ご清聴いただきありがとうございました。

)1935(昭和10)年ごろ、綱島の温泉組合では「綱島を宝塚のような一大エンタテインメントの地に」と東京横浜電鉄(現東急)とともに、綱島だけでなく日吉や樽、大曽根にいたるエリアで遊園地や運動場、劇場などを整備していく大構想を打ち出したが、1937(昭和12)年の日中戦争開戦や1938(昭和13)年の鶴見川大洪水で立ち消えとなった。詳細は吉田さんによる2022年の講演をレポートした横浜日吉新聞の記事「<港北地域学>綱島温泉の始祖『樽町』はなぜ温泉街が発展しなかったのか」に掲載

「<東横線100周年レポ(5)>大倉山・菊名・妙蓮寺の長い歴史に育まれた個性」につづく

)この記事は「横浜日吉新聞」「新横浜新聞~しんよこ新聞」の共通記事です

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【東横線100周年フォーラム~登壇者】綱島駅・ 吉田律人さん(横浜都市発展記念館主任調査研究員)(2025年6月24日)

<東横線100周年レポ(3)>東急発祥の地に選ばれた「日吉」が持つ歴史的な価値(2025年9月8日)

横浜日吉新聞の「綱島温泉」に関する記事の一覧

「東横線100周年フォーラムレポート」の記事一覧(全8回)(全レポート)

【参考リンク】

「東急東横線100周年フォーラム~沿線5駅の“未来を語る”」特設サイト(当日の動画も公開予定)


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