市民が「横浜に路面電車の復活を」請願、議会と市当局はどう反応したのか | 横浜日吉新聞

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【コラム】横浜で「市電」が廃止されてから半世紀、復活を求める声は今もあるようです。

先週(2023年)12月15日に開かれた横浜市会(市議会)の「建築・都市整備・道路委員会」の場に「路面電車の復活について」と題した請願(せいがん)が出され、これに対して市当局と議員が意見を表明する場面が見られました。

請願は市(行政)に対して市民が意見や要望を提出できる制度で、市会議員を通じて議会に請願書を出すことができるとされています。

横浜市電保存館に保存されている横浜市電の車両(2023年7月)

今回、磯子区選出の無所属議員を通じ、神奈川区の区民から「市民の利便性向上と住環境保護のため、空気を汚さない路面電車を復活してほしい」という趣旨の請願書が出され、これを採択するかどうかで議論が行われたものです。

横浜市内の路面電車は1904(明治37)年7月に民間の「横浜電鉄」によって神奈川と桜木町(大江橋)間に設けられた路線が最初と言われており、1921(大正10)年4月には市営化。その後は「横浜市電」として運営されていくことになります。

高度経済成長期が始まりつつあった1956(昭和31)年には、北は六角橋(神奈川区)や生麦(鶴見区)から南は弘明寺(ぐみょうじ、南区)、杉田(磯子区)まで過去最長となる51キロ超の路線網を構築。

横浜市電の保存車両内に掲出されている路線図、神奈川区の六角橋や鶴見区の生麦、磯子区の杉田などに路線が伸びている(横浜市電保存館、2023年7月撮影)

港北区内路線が設けられることはありませんでしたが、当時は地下鉄ブルーラインがないなかで、神奈川区寄りに住む区民が「六角橋」の停留所(電停)から横浜中心部方面への移動手段として市電を使っていたとの思い出話も聞かれます。

しかし、「高度経済成長期に鉄道ネットワークの整備が進められるとともに自動車普及率が高まり、限られた道路空間のなかで路面電車と自動車交通との共存が交通混雑により難しくなった」(都市整備局)と1972(昭和47)年3月末までに市電の全路線が廃止となりました。

東横線の利用者には懐かしい桜木町駅の写真、かつては駅前に市電が走っていた(横浜市交通局公式サイト内「市営交通の100年(1921~2021)」の「横浜市営交通の歴史」より)

市電全廃から半世紀超を経ての“復活要望”に対し、都市整備局は「路面電車の整備には自動車交通と共存するための導入空間の確保が必要となり、主要な幹線道路でも既存の幅員では導入が困難な場所が多く、用地買収等により新たな道路空間を確保しなければならない」と説明。

そのうえで、「すでにサービスが提供されている鉄道や路線バスと競合するため、事業採算性を確保し、維持可能な運営を行っていくことは難しい」とし、「本市としては鉄道、路線バス、タクシーなどを中心とした公共交通サービスを維持充実していくことが重要と考えており、請願にある路面電車の復活を進めていく予定はない」との見解を示しました。

1965(昭和40)年時点で走っていた13系統の始発と終電の時刻表(横浜市電保存館の保存車両内で、2023年7月撮影)

議員の側からも「路面電車をつくるとなると交通渋滞が発生し、環境保護に逆行する懸念がある」(自民党)や「今の交通状況を考えれば、新たな路面電車の軌道を確保するのは困難」(民主フォーラム=国民民主党系会派)、「路面電車そのものはCO2の削減になると思うが、すぐに推進というものではないのでは」(共産党)といった意見を表明。

路面電車自体を否定する声はなかったものの、「現状では困難」との意見が大半を占めました。

横浜市電保存館の車両は車内に入ることもできる(2023年7月)

同委員会にはこの請願を紹介した議員が所属していなかったこともあり、請願採択に賛成者はなく、“市電復活”を求める議論は7分ほどで終了となっています。

もはや横浜市電の姿さえ見たことがない世代が多くなっていますが、かつて横浜市民の足を担っていた市電に対する思いは、廃止から半世紀を過ぎた経た今も市民のなかに残されているのかもしれません。

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横浜市交通局が100周年、記念サイト開設や電車ヘッドマークの掲出も(新横浜新聞~しんよこ新聞、2021年3月8日、市交通局の歴史は路面電車から始まった)

【参考リンク】

横浜市電保存館(磯子区滝頭、市電の車両が保存されている)

横浜市交通局「市営交通の100年(1921~2021)」(1921年の路面電車以降の歴史について)


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