5年を一つの区切りとしたい――。プロアイスホッケー・横浜グリッツ(GRITS)の創設時からチームを率いてきた浅沼芳征監督が今年(2025年)3月までのアジアリーグ2024-25シーズン限りで退任を決めました。苦難が続いたチームの草創期から現在までの歩みとアイスホッケーやチームに対する思いを尋ねました。
土台が築かれ、良いタイミング
――横浜グリッツのアジアリーグ参入5年目を迎えた2024-25シーズンは、創設メンバーとして残っていた小野航平(GK・#38、36歳)、熊谷豪士(DF・#54、36歳)、濱島尚人(FW・#51、39歳)の3選手が相次いで引退を決め、時間の流れを感じつつも、浅沼監督は残ってくれるはず、との願望を持っていたのですが
もう5年が経ちましたので、一つのいいタイミング、自分のなかでは区切りの時期だと思っています。チームの土台が築かれ、課題も浮き彫りにはできたのではないでしょうか。
この先、どういう形になるかは分かりませんが、横浜グリッツへの協力は惜しまないつもりです。
――2020年の参入時を思い返すと、仕事とプロ選手を両立する「デュアルキャリア」を実践するチームは当時ほとんど無く、加えて新型コロナ禍でのスタートでした。アジアリーグの5シーズンで29勝124敗という通算成績を見ても大変な監督生活だったかと思います。チームに携わったきっかけは何だったのですか
通算で30勝に届いてなかったですか……。もともと、慶應義塾大学スケート部ホッケー部門(アイスホッケー部)の後輩だった御子柴高視(現横浜グリッツゼネラルマネージャー=GM)と臼井亮人(現横浜グリッツ社長)が「首都圏にプロチームを」とアジアリーグへの参入を目指して動き始めており、2018(平成30)年ごろにアドバイスを求められたことが関わるきっかけだったと思います。
その後、当時集まっていた選手らで練習試合に挑むことになったのですが、「浅沼さん、ベンチワークできますよね」と、いつの間にかベンチを任されるようになっていました。
慶應時代はアイスホッケー漬け
――横浜グリッツが慶應大学アイスホッケー部のOBから始まったという所以ですね。浅沼さん自身は慶應との関わりは慶應義塾高校(港北区日吉)からですか
そうです。地元の東京都町田市で少年野球をしていた頃の先輩が早稲田実業に進んでアイスホッケーへ移ったことに影響を受け、自分もアイスホッケー部のある高校を探して慶應高校に進みました。
高校時代はいつも朝4時40分過ぎに横浜線の始発で町田の家を出て、東神奈川の「神奈川スケートリンク(横浜銀行アイスアリーナ)」や、当時横浜駅近くにあった「ハマボール」のリンクで練習したあと、重い荷物を持って東横線に乗り、朝8時20分までに日吉へ登校するのですが、とにかく眠くて……。
そんな毎日だったためか、高校2年生を二度おくる羽目になりました。今もそうですが、慶應高校ではいくらスポーツを頑張っていても、勉強しない者は容赦なく留年させる環境です。部員の不勉強が続いて部自体が活動休止に追い込まれた年もあったので、この時は休部を命じられなかったのは幸いでした。
大学は商学部に進んだのですが、アイスホッケー中心の生活はまったく変わらず、こちらも5年間の学生生活となり、慶應では高校時代を含め計9年間にわたってプレーすることになりました。いつの間にか“同じ学年”になってしまった後輩たちはやりづらかっただろうなと思います。
――電通に就職したのは1993(平成5)年、すでにバブル経済が崩壊していた頃です
卒業後は実業団(当時は日本リーグ)に進めないものか、と夢を見ましたがダメでしたね。スポーツビジネスに携わりたいとの思いから電通を受け、面接ではアイスホッケーの魅力を延々と語りました。世の中はバブル崩壊で苦しくなりつつあった時代でしたが何とか滑り込めました。
入社後の赴任地はアイスホッケーの中心地・北海道の札幌市。東京生まれの“アイスホッケー人”にとって、またとない場所です。すぐ地元のクラブチームに入れていただき、東京本社へ戻った頃には電通にアイスホッケー部が結成されていましたので、こちらにも参加しました。
母校の監督就任と実家の継承
――その後、母校の慶應大学でアイスホッケー部の指導者となります
当時コーチをつとめていた御子柴(現横浜グリッツGM)が監督に進言したようでした。大学の先輩でもある長谷川勉監督(当時)から、「お前は大学時代“やんちゃなプレーヤー”で監督に心配ばかりかけたのだから、ここで恩返しをしなければどうするんだ」と言われ、確かにそうだとコーチを引き受けたのが2003(平成15)年です。
コーチ時代の選手には、アジアリーグへの参入を目指す新チーム「スターズ神戸」で社長をつとめる黒澤玲央もいました。彼は卒業後に栃木日光アイスバックスで運営業務を担いながら選手としてもプレーしています。来年はアジアリーグ公式戦でグリッツとスターズの“港町対決”が実現してほしいですね。
長谷川監督の後を継いで大学の監督に就いたのが2010(平成22)年、その時のキャプテンが氏橋祐太(横浜グリッツ創設時に入団、2023年3月現役引退)でした。
氏橋は複数のプロチーム(アジアリーグ)から誘いがあったのに、卒業後は大学院へ進学して大手企業に就職しています。プロ選手は不安定との思いがあったようで、のちにグリッツではデュアルキャリア(プロ選手と仕事の両立)を実践してくれました。
――2013(平成25)年には20年間勤めた電通を退職し、町田市で実家の酒店「蔵家」を継ぎました
電通には自分の仕事を代わってくれる人材はいくらでもいますが、実家の酒屋を継げるのは私か弟しかいません。いざ会社を辞めてみると、経営者は孤独を感じることもあり、最初は後悔もしていましたね。
そんななか、地元で法人会や商工会などの活動をしていたことがきっかけで、当時サッカーのJ3だった「FC町田ゼルビア」(現在J1リーグ)の社外取締役に就き、2015(平成27)年から3年ほど広報やグッズ販売などに携わっています。プロサッカーの世界はまったくの素人でしたが、電通時代の経験を地元のスポーツ界で生かせました。

同じ港北区の日産スタジアムで開かれた横浜F・マリノスの主催試合にゲストとして訪れた横浜グリッツの公式マスコットキャラクター「グルーガ」、この日の対戦相手だったFC町田ゼルビアのファンにも熱烈な歓迎を受けていた(2024年6月)
デュアルキャリアの伴走者に
――そして2019年ごろから本格的に横浜グリッツの活動に関わるようになります
監督を引き受けたのは、デュアルキャリアを実践するプロチームだったことが大きかったですね。
プロ選手も365日24時間ずっと練習ばかりしているわけではありませんので、20代~30代のエネルギーに溢れてる頃なら社会と向き合う時間はあるはず、という考え方からデュアルキャリアのチームとして発足したのですが、クラブ活動ではなくプロ選手なので、限られた時間でプロのレベルを維持しなければらない厳しい環境です。
そんな大変な環境下でも頑張ろうという選手たちの伴走者になりたいとの思いがありました。
一方、アイスホッケーの技術面は、御子柴GMが高校時代の同級生で、北米NHL(ナショナルホッケーリーグ)でも145試合に出場した経験を持つマイク・ケネディ(Mike Kennedy、2020~22)をヘッドコーチとして呼んでくれました。
――今はアイスホッケー界でもデュアルキャリアを実践するチームが出てきましたが、選手たちは慣れるまで大変だったのではないですか
デュアルキャリアの形は人それぞれですが、朝の練習(氷上で練習するのは週に3~4日、午前中の数時間)が終わると、すぐに車のなかでパソコンを開いて仕事している選手がいたり、移動中の飛行機や待ち時間にカタカタやっていることも多かったですね。一人ひとり環境は異なりますが、皆が互いの環境をリスペクトし、刺激しあっていました。
仕事のプレゼンやアイデアなどを聞かれると、こういう方法もあるんじゃないか、と選手にアドバイスすることもありましたね。
他のチームよりコミュニケーションの時間は短いのですが、貴重な時間をどう生かすかはビジネスの世界でも大事です。
「それでもプロか!」苦い大敗
――そして、アジアリーグ最初の試合は2020年10月10日・11日、敵地の北海道苫小牧市で国内最強と言われた王子イーグルス(現レッドイーグルス北海道)に大敗する苦いスタートでした
初戦は「1-8」、2戦目は「0-12」という結果です。米国で活躍し期間限定の形で加わっていた平野裕志朗(#9・FW、2020~2021)の個人技で1点取るのがやっと。「お前らそれでもプロか」という厳しい声も浴びました。
この時、選手が揃っておらず3セットも満足に組めない状態。DF(ディフェンス)の数が足りず、普段はFW(フォワード)の選手を急きょDFとして登録をしたほどです。DFでキャプテンの菊池秀治(#8、東北フリーブレイズ→会社員、2020~2023引退)はシュートが当たって出血するなか、何針か縫って出場を強行しました。
試合後に菊池が皆の前で「これがプロのスピードなんだ、忘れてはいけない。このままのペースでやっていたらダメだ」と悔しさで涙を流していたことが印象に残っています。
――初年度は10月の開幕から14試合を消化し、勝てないまでも延長戦に持ち込むなど選手も揃って良い兆しが見えてきたなか、今度は「緊急事態宣言」でまったく試合ができなくなりました
今しか経験できない正念場、とにかくいつでも試合ができるよう準備だけはしておこうと選手に言い続けてはいたのですが、心が折れそうになりました。多くの人が集まることを避けなければならず、練習も満足にできません。選手らも在宅勤務で交流が途絶え、悶々としていました。
外では集まれませんので、私の自宅でホームパーティーしたり、蔵家で運営している“角打ち店”を貸し切って集まったり、オフアイスでさまざまな話ができたことはよかったと思っています。
選手の懐かしエピソード
――初のシーズンは最終盤の2連戦だけ再開し、0勝16敗という成績で終わることになるのですが、当時所属していた選手で何かエピソードはありますか
そうですね、梅野宏愛(#72・FW、2020~23→サンエスオルクス=名古屋オルクスへ)はチーム発足初期から練習生として帯同していたのですが、あるとき練習中に気合が入りすぎたのか平野裕志朗と殴り合いを始めたんです。これだけガッツあるなら、と選手として加わってもらいました。
ロマン・アレクセエフ(Roman Alekseev、#27・DF、2020~21)は「サハリン」(2019年までアジアリーグ所属)で6年間にわたって活躍した実績のある選手で、菊池も一緒にできることを喜んでいたのですが、家族を置いて単身で日本に来ていて、翌年はウクライナのチームからオファーがあり家族とともに行ってしまいました。
ロシアと戦争が始まったとき、彼はロシア側のベラルーシ出身なので心配になって連絡したら、スポーツ選手ということで無事出国できたと言っていました。今は地元でプレーしているそうです。
ヘッドコーチのマイク・ケネディはどうもストレスを貯める傾向があって、当時の試合中はベンチから審判と話す際に必ずマスクしなければならない規則だったのに、マスクを下げて大声で抗議するので、いつもヒヤヒヤしていました。2シーズンで2回は退場を命じられているはずです。

初年度から2シーズンにわたってヘッドコーチつとめたマイク・ケネディ氏、コロナ禍だった当時はベンチのスタッフに課せられていた“マスクルール”を破って声を出し、退場を命じられることもあった(2021年10月、新横浜)
マイクは一生懸命でアイデアマンだし、今のチームだったらいい形で貢献できたんだろうと思います。そして、マイクの通訳を担ってくれたロマンと角舘信恒(#11・FW、王子イーグルス→会社員、2020~2024)のストレスもすごかったのではないかと思います。
川村一希(#10・DF、2020~23→東北フリーブレイズへ)は初年度にDFが足りないのでFWから急きょコンバートとなったのですが、その後にDFとして他チームへ移ったのは彼の能力が認められたようで嬉しかったですね。
他チームからの移籍は進化
――2年目(2021-22シーズン)は待望の初勝利を含め、2勝をあげることができました
2シーズン目は栃木日光アイスバックスから岩本和真(#13・FW、2021~)と秋本デニス(#19・DF、2021~22)、東北フリーブレイズから鈴木ロイ(#61・FW、2021~)の3人が加わってチームが引き締まりました。他のチームからグリッツを選んで移ってくれたのは一つの進化だと思います。練習生から加わった石井秀人(#20・FW、2021~)も4ゴールを決めました。
秋本デニスはストイックな選手で、この年加入したキム・ユンジェ(Yoonjae Kim、#90・DF、2021~22→東北フリーブレイズへ)がデニスのもとへ“弟子入り”し、あまりの厳しさに1日で音を上げたなんてこともありました。
――そして3年目(2022~23シーズン)、開幕戦で念願のホーム初勝利を達成するなど11勝をあげ、最下位脱出も叶っています
チームの転機となったシーズンで、選手が勝ち方を理解できるようになってきたと感じました。これまでは1点取られるとシュンとなっていたのが、耐えていれば必ずチャンスが来るという考え方に変わっています。
GK(ゴールキーパー)に関西大学から石田龍之進(#32、2022~24→オーストラリアリーグへ)が加わり、小野航平(#38、2020~25引退)、黒岩義博(#45、2020~23→ラトビアトップリーグへ)とともに3人体制となり競争が生まれました。
デンマークリーグにいたアレックス・ラウター(Alex Rauter、#9・FW、2022~)と、北米プロリーグ3部相当「ECHL」出身のティム・シュープ(Tim Shoup、#77・DF、2022~23)が加入。ひがし北海道クレインズからは泉翔馬(#5・FW、2022~)と蓑島圭悟(#65・DF、2022~)が移ってきたことでチームの厚みが増したうえ、早稲田大学から杉本華唯(#21・FW、2022~)、明治大学からは三浦大輝(#74・DF、2022~)と新人の入団も大きかったですね。
アレックス・ラウターのリーダーシップはすごいし、今も率先してハードワークを続けてくれます。日本を好きになってくれたのも嬉しかったですね。
油断から「対策」に変わる
――4年目(2023~24シーズン)は4勝とあまり勝てませんでしたが、東北フリーブレイズからGKの古川駿(#34、2023~)、レッドイーグルス北海道からは日本代表もつとめる大澤勇斗(#14・FW、2023~)の2選手が移籍加入し、戦力的にはさらに充実して勝つことがめずらしくはないチームとなりました
前年までは各チームがグリッツに対してどこか油断していたのが、「これは侮れない」と本気で対策してきた面はあったと思います。
特に前年勝ち越した東北フリーブレイズにはまったく勝てなくなって、創設メンバーでこの年からフリーブレイズに移籍していた矢野倫太朗(#14・FW、2020~23→東北フリーブレイズ→栃木日光アイスバックス)なんて、グリッツ戦になると点を取るんですよ。
4勝のうち、優勝した韓国のHLアニャンや上位のレッドイーグルス北海道に初めて勝てたことはチームの可能性を感じさせたのですが、この年は悔しかったですね。

4年目(2023-24シーズン)にホームの新横浜でレッドイーグルス北海道に初めて勝ち、ジェフ・フラナガンHC(ヘッドコーチ、2022~24)と渋谷一樹AC(アシスタントコーチ、2022~24)とともに喜ぶ浅沼監督(2023年12月、新横浜)
――そして5年目の今シーズン(2024-25)、日本代表監督もつとめ、岩本和真キャプテンの叔父でもある岩本裕司さんをヘッドコーチに招き、10勝22敗と一定の成果が見えました
これまで4シーズンは英語圏のヘッドコーチだったので、初めて日本語でコミュニケーションが取れるようになりました。また、チームとしての決定力も上がったと感じます。
今季の新人賞をとったGKの冨田開(#31、2024~)はプロ経験がないものの、北米でのプレー経験が長く、同じGKの古川が知っていたのでアクセスして入団につながりました。
ヘッドコーチが日本人になったので、次は外国人監督を招いてもいいのではないかな、と個人的には思っています。
諦めなかった2人に感謝
――チームとしては順調に成長している一方、経営面では参入初年から新型コロナ禍で大変だったのではないでしょうか。今はユニフォームに著名企業のマークもみられますが、1~2年は広告も非常に少なかったと思います
ユニフォームの胸の部分が象徴的かもしれません。最初はDFの熊谷が副社長をつとめる会社や、蔵家(浅沼監督が経営する酒店)さえも広告を出していました。
3年目から始まった韓国遠征では、遠征費を切り詰めるため格安航空のチケットを取って行ったり、あるときは慶應関係者の父親が空港に勤めているというので用具の重量超過分をまけてもらったりと、経営陣の苦労は大きかったと思います。
私も電通勤務時に営業経験はありましたので、スポンサー営業に回りました。
そんな状況でしたが、なにより、臼井社長と御子柴GMが横浜グリッツを存続させたことが一番の功績だと思っています。船出の時から新型コロナ禍で世の中の動きが止まり、アイスホッケーどころではないという状況でも彼らは決して諦めなかった。
いつギブアップしても不思議ではない一番苦しい2年間を諦めなかった本気度が広く伝わり、今につながりました。夢を与えてくれた2人には本当に感謝しています。
――これからの横浜グリッツへメッセージをお願いします
この先は、惰性で続けるのではなく、さらにドライブをかけてチームを良くしていき、アイスホッケーのプロ選手が夢を持って活躍できる場になってほしいと思っています。
――長時間にわたってありがとうございました。次のステージでもご活躍を期待しています
(※)この記事は「横浜日吉新聞」「新横浜新聞~しんよこ新聞」の共通記事です
【関連記事】
・【5年目総括】<横浜グリッツ全成績>5シーズン目は10勝22敗で終える、5位脱出は叶わず(新横浜新聞~しんよこ新聞、2025年3月24日)
・【4年目総括】<横浜グリッツ>アジアリーグ4季目は4勝、5位で全日程を終える(新横浜新聞~しんよこ新聞、2024年3月25日)
・【3年目総括】執念の横浜グリッツ、最後は連勝で“初づくし”のシーズン締めくくる(新横浜新聞~しんよこ新聞、2023年3月7日)
・【2年目総括】横浜グリッツの「2シーズン目」が終了、2勝あげるも新年から調子つかめず(新横浜新聞~しんよこ新聞、2022年3月14日)
・【1年目総括】<横浜グリッツ>120日ぶりの試合が最終カード、初年度は勝利つかめず(新横浜新聞~しんよこ新聞、2021年3月29日)
【参考リンク】
・横浜GRITS「浅沼芳征 監督 退任のお知らせ」(2025年4月10日発表)
・町田市「リカーポート蔵家」(本店には横浜GRITS仕様の自動販売機が置かれている)