[PR]日吉「たつ吉」が創業50周年、半世紀の歴史継ぎ“地域に感謝”と島名さん | 横浜日吉新聞

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法人サポーター会員によるPR記事です】日吉駅前の和食料理店が創業50周年。半世紀の歴史を継ぐ日々の中、“地域への感謝”の想いを語ります。

1975(昭和50)年3月20日に初代店舗をオープン。現在は日吉駅前の老舗和食店として知られる「たつ吉本店」(現在の「遊ZENたつ吉」本店)は、今年(2025年)で創業50周年を迎えました。

創業50周年を迎えた日吉駅前「たつ吉グループ」の“二代目女将(おかみ)”として活躍する島名貴子さん。「これからも地域の皆様に感謝し、100周年を目指して歩んでいきたい」と意気込む(2025年4月)

創業50周年を迎えた日吉駅前「たつ吉グループ」の“二代目女将(おかみ)”として活躍する島名貴子さん。「これからも地域の皆様に感謝し、100周年を目指して歩んでいきたい」と意気込む(2025年4月)

現在、日吉駅西口から徒歩1分の普通部通りからバスロータリーに入ったところにある「遊ZENたつ吉」本店と、隣接地にある「そば処たつ吉」、日吉「普通部通り」の駅前側にある「中国名菜龍華(りゅうか)」の3店舗を、いずれも有限会社河合商事(日吉本町1)が「たつ吉グループ」店舗として、地域に密着した経営を行っています。

「遊ZENたつ吉」本店は日吉駅西口から徒歩約1分、普通部通りとバスロータリーの間にある。社員・スタッフ有志の皆さんが50周年を祝し記念撮影を行った(2025年4月、たつ吉グループ提供)

「遊ZENたつ吉」本店は日吉駅西口から徒歩約1分、普通部通りとバスロータリーの間にある。社員・スタッフ有志の皆さんが50周年を祝し記念撮影を行った(2025年4月、たつ吉グループ提供)

同社の社長で“二代目女将(おかみ)”として活躍している島名貴子さんは、50周年の節目を迎えられたことについて、「今までご来店いただいた、大勢のお客様と、50年の間に携わってくださった、多くの皆さまのおかげで、この晴れの日を迎えることができました」と、これまでの来店客、また同店にかかわった一人ひとりへの感謝の想いを語ります。

「たつ吉」の源流は、島名さんの祖父・故・河合龍三(りゅうぞう)さんが1929(昭和4)年に創業した「綱島製パン」(旧「ツナシマパン」=綱島西1・「パン工房・洋菓子ロアール」=箕輪町2、現在は廃業)。

「たつ吉本店」がオープンした1985年3月の直後、箕輪町にかつてあった釣り堀で、今は亡き父・河合隆雄さんやきょうだいと(同5月、たつ吉グループ提供)

「たつ吉本店」がオープンした1985年3月の直後、箕輪町にかつてあった釣り堀で、今は亡き父・河合隆雄さんやきょうだいと(同5月、たつ吉グループ提供)

ロアールで勤務していた龍三さんの二男・故河合隆雄さん(有限会社河合商事前会長)が、同じく同社で勤務していた島名貴子さんの母で、「たつ吉グループ」の“初代女将”となる河合愛子さんと結婚。

愛子さんが、普通部通りにかつてあったロアール(現在の「中華名菜龍華」の場所)の店舗跡地で、「たつ吉本店」を1975年3月にオープンしたことが同店の源流となっています。

現在の「中国名菜龍華(りゅうか)」の場所に「たつ吉本店」が所在していた頃、“初代女将(おかみ)”の河合愛子さん(たつ吉グループ提供)

現在の「中国名菜龍華(りゅうか)」の場所に「たつ吉本店」が所在していた頃、“初代女将(おかみ)”の河合愛子さん(たつ吉グループ提供)

創業半世紀を超えた「たつ吉グループ」の歴史

元々「たつ吉」は、セルフで「焼き鳥」を楽しめるような、“気軽に立ち寄れるお店”として人気を博したといい、1978(昭和53)年に現在地に新本店を拡張オープン。

1983(昭和58)年には新本店の4階建てビルを新築し、同年に、2号店として存続していた旧本店の場所(普通部通り)で「そば処たつ吉」を開店します。

現在の「中国名菜龍華」があった場所(元本店)に「そば処たつ吉」が1983年7月にオープン。後に現在地に移転している(たつ吉グループ提供)

現在の「中国名菜龍華」があった場所(元本店)に「そば処たつ吉」が1983年7月にオープン。後に現在地に移転している(たつ吉グループ提供)

初代女将の河合愛子さん。「居抜き」で入ったという旧ビル(現在の本店)に移転した「たつ吉本店」の店頭で(1987年4月、たつ吉グループ提供)

初代女将の河合愛子さん。「居抜き」で入ったという旧ビル(現在の本店)に移転した「たつ吉本店」の店頭で(1987年4月、たつ吉グループ提供)

「そば処たつ吉」は1993年に現在地に移動した(左)(1995年11月、たつ吉グループ提供)

「そば処たつ吉」は1993年に現在地に移動した(左)(1995年11月、たつ吉グループ提供)

「たつ吉」本店ビルが新たに建てられ、リニューアルオープン。この頃から島名貴子さんもグループ内での勤務を急きょ、また少しずつスタートしていったという(1996年10月、たつ吉グループ提供)

「たつ吉」本店ビルが新たに建てられ、リニューアルオープン。この頃から島名貴子さんもグループ内での勤務を急きょ、また少しずつスタートしていったという(1996年10月、たつ吉グループ提供)

1993(平成5)年には、「そば処たつ吉」が現在地(現在の本店の隣)に拡張移転し、創業の地には新たに、中華料理店「中華名菜龍華」がオープンしたといいます。

東京都心での大手電機メーカーでの勤務経験などを経て、1996(平成8)年頃に実家である同グループ店舗で、急きょ働くことになったという島名貴子さん。

1992年9月、山梨県笛吹市「浅間園」への慰安旅行。河合愛子さん、そして亡き隆雄さんの姿も(たつ吉グループ提供)

1992年9月、山梨県笛吹市「浅間園」への慰安旅行。河合愛子さん、そして亡き隆雄さんの姿も(たつ吉グループ提供)

「まだ若かったので、仕事の後ボーリング大会などもやっていました」と島名貴子社長。当時は社内が若さと活気に満ちていた。ボーリング大会の後、当時勤務していたアルバイト店員が作ったという社内チラシにはその時の様子が描かれている(2006年12月、たつ吉グループ提供)

「まだ若かったので、仕事の後ボーリング大会などもやっていました」と島名貴子社長。当時は社内が若さと活気に満ちていた。ボーリング大会の後、当時勤務していたアルバイト店員が作ったという社内チラシにはその時の様子が描かれている(2006年12月、たつ吉グループ提供)

2015年9月は「フットサル」と「バーベキュー(BBQ)」で社員・スタッフがレクリエーション。時代とともに社内の交流手段も形を変えて行われてきた(たつ吉グループ提供)

2015年9月は「フットサル」と「バーベキュー(BBQ)」で社員・スタッフがレクリエーション。時代とともに社内の交流手段も形を変えて行われてきた(たつ吉グループ提供)

2004(平成16)年に、初代女将の河合愛子さんが店を突然引退、以降、島名貴子さんが二代目の女将として、経営の中心的な役割を担(にな)ってきました。

数々の試練を乗り越え今日まで経営してきたと、“半世紀”を刻んだ同店の歴史、その足跡を振り返ります。

最も辛かった「新型コロナ禍」を乗り越えて

1997年9月に入社、かつてホテルニューオータニ(東京都千代田区)で料理人として修業した経験を持ち、現在、メニュー開発・作成や、店舗運営の一切を任された統括マネージャーとしても活躍している、夫で取締役の島名正人さんとともに、“二人三脚”で各店舗の運営を行ってきた島名貴子さん。

50年の歴史の中で、“最もつらかったこと”として思い起こすのは、2020年春以降、とりわけ飲食業界を苦しい状況に追い込んだ「新型コロナ禍」時代だったと語ります。

最大のピンチ「新型コロナウイルス禍」時代に、島名貴子さんの母校でもある日吉台小学校(日吉本町1)の児童たちが考え制作したという「店舗PRチラシ」を掲出していた(2021年2月、たつ吉グループ提供)

最大のピンチ「新型コロナウイルス禍」時代に、島名貴子さんの母校でもある日吉台小学校(日吉本町1)の児童たちが考え制作したという「店舗PRチラシ」を掲出していた(2021年2月、たつ吉グループ提供)

多くの飲食店が倒産、また閉店といった事態もまだまだ多く目の当たりにすることもある時代背景の中、「物価高や人手不足といった、飲食業界にとっての、本当に厳しい状況が続いています」と、昨今の厳しい経済情勢を嘆きます。

とりわけ、厳しかった「コロナ禍」中の出来事は、店舗運営の歴史上での“最大の危機”として深く印象に残っているといるとのこと。

<small>現在の「そば処たつ吉」前で。島名貴子さんは、同店が現在の「中国名菜龍華」の場所にあった頃、浜銀通りにあった「ケンタッキーフライドチキン」でアルバイトをしていたところ、「辞めて自分の家の手伝いをしなさい」と初代女将の河合愛子さんに言われ、やむなくそば屋の手伝いを始めたというエピソードがあるという(2025年4月)</small>

現在の「そば処たつ吉」前で。島名貴子さんは、同店が現在の「中国名菜龍華」の場所にあった頃、浜銀通りにあった「ケンタッキーフライドチキン」でアルバイトをしていたところ、「辞めて自分の家の手伝いをしなさい」と初代女将の河合愛子さんに言われ、やむなくそば屋の手伝いを始めたというエピソードがあるという(2025年4月)

「新型コロナウイルス感染対策として、多くのお客様が会合や宴会を中止にせざるを得ず、店舗の営業がとにかく辛く厳しいものでした」と、当時、取り組んだテイクアウト用に開発したオリジナル弁当を、常連客や友人らが買いに来てくれたこと、また、“雇用を守った”社員全員が一丸となり、自社での配達や、外部イベントや催事での販売に誠意取り組んだことを懐かしみます。

多く来店客や地域の人々の支援、また社員・スタッフの努力により、「新型コロナ禍」を乗り越えることができた「たつ吉グループ」。

「日吉普通部通り」に現在ある中華料理店「中国名菜龍華」前で。店舗の運営を支えてくれている妹の岡部亮子さんと。これからも地域社会に溶け込み、日吉周辺地区の“地域まちづくり”やさらなる発展にも寄与していく予定(2025年4月)

「日吉普通部通り」に現在ある中華料理店「中国名菜龍華」前で。店舗の運営を支えてくれている妹の岡部亮子さんと。これからも地域社会に溶け込み、日吉周辺地区の“地域まちづくり”やさらなる発展にも寄与していく予定(2025年4月)

同店を取り巻く地域社会や、来店する人々への「感謝」の想いを抱きながら、島名貴子さんは、これからも、同店を支える社員・スタッフとともに、新たな未来を見据えた“静かな挑戦”を続ける店舗としての役割を果たしていきたい考えです。

)記事の掲載内容については、直接「たつ吉グループ」にお問い合わせください

【関連記事】

和食の老舗「たつ吉」グループ、創業半世紀へ向け二代目の女将が奮闘中(2018年3月29日)

【参考リンク】

たつ吉グループ公式サイト(有限会社河合商事)

法人サポーター会員:たつ吉グループ~有限会社河合商事 提供)


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