【コラム】これも市の“出先機関”の建物ゆえの宿命でしょうか。菊名6丁目の綱島街道沿いにある「港北図書館・菊名地区センター」(旧港北区総合庁舎)は、旧横浜市役所などの設計を手掛け、日本を代表する建築家の一人として知られる村野藤吾(とうご)氏(※)の作品だったことを示す新たな資料がこのほど見つかりました。一方、これまで65年近くにわたって、なぜこの事実がほとんど知られていないのかという疑問に対する答えはまだ分かっていません。
現在の港北図書館・菊名地区センターは、もともと港北区の総合庁舎として1960(昭和35)年秋に竣工した建物でした。その後は人口の急増もあって手狭となり、大豆戸町に現在の総合庁舎(区役所・消防署・公会堂)を1978(昭和53)年秋に新設したため、1980(昭和55)年8月以降は港北図書館(1~2階)と菊名地区センター(3階)として転用されたものです。

1960(昭和35)年10月に竣工し、記念式典を行った際の港北区総合庁舎(現港北図書館・菊名地区センター)。壁面と一体化させたような奥行きの薄い長方形の外窓は、村野藤吾氏がのちに手がける横浜市立大の校舎(1963年、現存)や、戦前の代表作とされる「近三ビルヂング(旧森五ビル)」(1931年、現存)などでもみられる(1961年発行横浜市総務局統計課編「市政概要 1960年版」=国会図書館デジタルコレクション=より)

上の写真から64年半を経た2025年4月の「港北図書館・菊名地区センター」、竣工当時と比べ窓のサッシが変わったり、耐震補強による柱の出っ張りらしきものが壁面に見えるが、全体的な見た目は竣工時と大きく変っていない
この旧総合庁舎は、港北区が区制20周年を迎えることを記念し、綱島街道沿いの旧港北区役所敷地を拡張して建てられた鉄筋コンクリート造り3階建ての建物で、当時の市内区役所では最大となる3300平方メートルの延べ面積。1階と2階を区役所とし、3階には400人収容の公会堂を設け、同じフロアには保健所も入りました。
市庁舎の次に港北区庁舎を依頼
1960(昭和35)年に竣工した旧港北区総合庁舎の設計者について、「村野森建築事務所東京事務所の村野藤吾氏(芸術会々員=※記事にある「芸術会々員」は日本芸術院会員の誤りとみられる)に依頼することに決定した」(1958年12月20日「横浜港北新報」)と報じられたのは竣工の2年ほど前となる1958(昭和33)年12月のことでした。
日吉に拠点を置き1953(昭和28)年に創刊した旧港北区域の地域新聞「横浜港北新報」(緑区と分離した1969年から「横浜緑港北新報」に改題し1998年まで刊行)は、横浜市役所内で総務局長や建築局長、港北区長ら7氏が副市長室に集まって区の新たな総合庁舎の概要を決めたことを伝えています。
そのうえで、「この設計にあたる村野藤吾氏は新、市庁舎の設計者で、その卓抜せる設計は広く認められており、読売会館も氏の設計によるもので、カベの美しさを出すことを特徴としていて、かつて藍綬褒章を受けている」(1958年12月20日号)と紹介しました。

1959(昭和34)年に竣工した横浜市庁舎(関内駅前の7代目)は「設計 村野森建築設計事務所」「監理 横浜市庁舎建設事務所」と紹介している(1959年12月株式会社日刊建設通信社発行、営繕協会編集「公共建築」=国会図書館デジタルコレクション=より)
記事中にある“新、市庁舎”とは、2020年まで使われた関内駅前の旧横浜市庁舎(7代目市庁舎)のことで、1959(昭和34)年9月に竣工しているため、記事が掲載された1958(昭和33)年末の時点ではまだ建設途中。
一方で市庁舎設計の業務は一段落していたとみられ、そうしたなかで市は“次の仕事”として村野氏に港北区の総合庁舎を依頼。この後には市立大学金沢八景キャンパス本校舎(1963年竣工)の設計も依頼しており、横浜市の公共施設では3つの設計を村野氏が担当したことになります。
起工式に顔を見せた村野藤吾氏
市庁舎に続いて村野氏が設計した港北区総合庁舎は、「飛躍する港北の象徴」(1959年8月6日「横浜港北新報」)として、1959(昭和34)年8月1日に港北区役所(木造2階建ての旧区庁舎)で起工式を開き、この場には村野氏も顔を見せたことを横浜港北新報が伝えます。
起工式から1年2カ月後の1960(昭和35)年10月には新たな港北区総合庁舎が完成。区制20周年の式典とともに真新しい庁舎内で落成祝賀会が開かれました。この場に村野氏が参加していたかどうかについては、確認できる資料が見つかっていません。
港北区総合庁舎の完成後は、建築業界の専門誌に「村野・森建築事務所東京事務所(※)」と「横浜市建築局営繕課」の設計・監理による建築物などとして幾度か紹介されていますが、その後は設計者について触れた資料類は見つからず、これまでに多数発行されている村野氏の作品集に載せられたことも、研究者に取り上げられた形跡も見られません。

1961(昭和36)年3月発行の季刊雑誌「公共建築」に写真付きで紹介された港北区総合庁舎、ここでは「横浜市港北総合庁舎新築工事」として「設計・監理 村野・森建築設計事務所東京出張所・横浜市建築局営繕課」などと紹介されている。左下の写真は3階の「公会堂」部分か(国会図書館デジタルコレクションより)

1963(昭和38)年1月に刊行された社団法人東京建設業協会の「主要建造物年表 昭和37年版 増補版第2」によると、「横浜市港北区総合庁舎」は施工者が西区に現在もある「紅梅組」で設計監理は「村野森建築事務所横浜市建築局」としている(国会図書館デジタルコレクションより)
また、横浜市がこれまで60年超にわたって公式に村野作品として紹介するのは、旧横浜市庁舎(関内)と横浜市立大学金沢キャンパス本校舎のみであり、規模の小さな旧港北区総合庁舎の設計を村野氏に依頼したこと自体を「なかったこと」にしたいかのよう。

「村野・森建築事務所(村野藤吾)」の作として横浜市が紹介するのは「7代目市庁舎」(関内)と「横浜市立大学金沢八景キャンパス本校舎」の2施設に限られ、旧港北区総合庁舎(港北図書館)が登場することは無い(2023年7月横浜市建築局発行「横浜市公共建築の100年」より)
関内の旧横浜市庁舎はすでに役割を終え、一部の棟は解体されましたが、2026年春に完成が予定される再開発「BASEGATE(ベースゲート)横浜関内」の実施に際しても旧市庁舎の保存を前提とした計画が組まれました。また、横浜市立大学金沢キャンパスの校舎も竣工から60年以上を経た現在も外観を保ったままで使われ続けています。それだけ重要な建物として認識されているわけです。
同じ横浜市の公共建築物でありながら、旧港北区総合庁舎の「港北図書館・菊名地区センター」だけが村野作品として公的に認知もされず、多くの人に知られることのないまま65年が経とうとしています。当時を知る人も資料も見つかりづらくなり、建物の老朽化が年々進むなかで、“ただの古い建物”として、このまま消えていく運命にあるのでしょうか。
【情報をお待ちしています】
旧港北区総合庁舎(現港北図書館・菊名地区センター)について「なぜ現在まで設計者が隠されたままなのか」という謎についてヒントとなるような資料がほとんど残されておらず、その手がかりを見つけられずにいます。旧港北区総合庁舎(現港北図書館・菊名地区センター)の建物について、何らかの情報やエピソードを知るみなさまのご連絡をお持ちしています
本記事を印刷・配布する際はPDF版(A4判・6ページ、2.0MB)をご活用ください。

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(※)この記事は「横浜日吉新聞」「新横浜新聞~しんよこ新聞」の共通記事です
【関連記事】
・<横浜市図書館>10年内に刷新や拡張、大型館も整備、1区1館の基本は変えず(2024年12月18日、図書館は再整備の方向)
・学校や庁舎など「横浜市公共建築」の100年を記録、港北区施設の歴史も掲載(2023年8月24日、こういう華やかな冊子に村野作品であるはずの「港北図書館・菊名地区センター」が載せられることは無い)
・隈研吾さんが「港北地域学」で講演、古里と建築のつながりを語る(2022年9月12日、パネルディスカッションの終盤で旧港北区庁舎が村野氏の建築と明かされ、「それは初めて聞きました」と驚いた様子が収録されている)
【参考リンク】
・港北図書館「フロア案内」(1・2階の案内図、もとは「港北区役所」だった)
・菊名地区センター「施設案内」(3階の案内、もとは「港北公会堂」と「港北保健所」だった。現「レクリエーションホール」の天井は公会堂時代の雰囲気を残す)