港北区が登場する書籍を紹介する「港北が舞台の文芸作品」。第5回の日吉編では関係する作品や作家・著名人が多いため、街の歴史をたどりながら戦前・戦後・現代と3回に分けて紹介します。今回は「戦前編」です。
日吉が“住宅地・学校の街”に変わる契機となったのは今から100年近く前の1926(大正15)年2月。当時は木々が生い茂るだけだった丘陵地を切り拓き、東京横浜電鉄(のちの東京急行電鉄=以後は東急と表記)が駅を開業したことでした。
東急が開発した駅前の「日吉台」へ移り住んだ新住民をはじめ、軍需工場となった岡本工作機械製作所(箕輪町2、現在はプラウドシティ日吉と日大高校・中学校)で働いたり動員されたりした人々、慶應義塾大学(予科)や高校、東京綜合写真専門学校、日本大学高校・中学などに通った経験を持つ学生・生徒などが多くの文章や作品を残しています。
今回は戦前の様子が描かれたそれらの一部を取り上げました。最初に駅が開業する前の様子を知ることができる貴重な一文から紹介します。
赤門坂の家を見つけるだけで一苦労
私が武蔵山の家を見つけるのは随分かかりましたよ、やっと中原町と日吉がわかった、それからまた二里奥(※1)だというでしょう? 三人挽の人力車(※2)に乗って行きましたね、日吉から一里ばかり行くと醤油を作っている家があったんです、雨が降って六七寸ものぬかるみ路でねえ(以下略)
(歴代横綱物語~当時を語る武隈親方)
(※1)二里:一里が約4キロメートルなので約8キロメートル
(※2)三人挽:前後を計3人で押し挽きする人力車
日吉駅が開業する前から暮らしていた“地元住民”で、もっとも著名な存在が大相撲で県内初の横綱となった「武蔵山」(本名・横山武、1909年~1969年)ではないでしょうか。
駅開業の少し前、1925(大正14)年ごろに出羽海(でわのうみ)部屋の武隈親方(第9代=両國勇治郎)が日吉村字(あざ)駒林(現日吉本町2丁目付近)に住む当時15歳だった横山武の自宅を訪ねた際の記憶について、十数年後に語ったのが上記の一文です。
のちに横綱に昇進した武蔵山が「育ったところが、田舎ですから」(1938年1月「相撲」)と語っているように、今は住宅が密集する「赤門坂」(丘の上にある日吉本町1丁目と丘の下に位置する同2丁目を隔てる急斜面の坂道)の付近にあった家でさえ、見つけるのが困難で、駅も綱島街道もなかった当時の日吉周辺は訪ねづらい場所だったことがうかがえます。
※参考:武蔵山については横浜日吉新聞で2019年3月12日に掲載した記事「日吉が生んだ母思いの横綱『武蔵山』に迫る、綱島諏訪神社の草相撲で力育む」もあわせてご覧ください
第二の田園調布になり損ねた日吉台
東急による日吉台の分譲地は、駅が開業した年の1926(大正15)年10月から販売を始めたものの最初は見向きもされず、慶應大学の誘致が決まってから売れ始めたことは広く知られていますが、分譲地自体が持つ特徴はあまり伝わっていません。
現在の東横線日吉駅前は、商店街である。道路だけは駅舎を中心に末広がりで田園調布のたたずまいと類似している。第二の田園調布にならなかったのは、開発が理想の住宅地をつくるのではなく鉄道経営に従属するものであったからだ。
(猪瀬直樹「土地の神話」)
作家で元東京都知事の猪瀬直樹は1988(昭和63)年に連載した「土地の神話」で、英国ロンドン郊外のガーデンシティ(田園都市)を目指して居住者のために鉄道駅が設けられた田園調布(多摩川台)と比較し、日吉(日吉台)は横浜までの鉄道敷設が先にあり、その需要開拓として住宅開発や大学誘致が行われたものだと指摘します。
つまり日吉台は“中途半端な田園調布”になってしまったわけですが、その背景には、当初は住宅が売れなかったことや、鉄道延伸を優先したい当時の東急の事情もあったようです。

1937(昭和12)年9月25日の読売新聞夕刊に掲載された東横・目蒲電鉄(のちの東急電鉄)田園都市課による日吉台の土地を再売出するとの新聞広告。“益々発展せんとする学園都市”と銘打ち、慶應予科生4000人が通うことまで書かれており、閑静な住宅地というより賑やかなイメージ
最初は田園調布をイメージする「田園都市」の名で売り出された日吉台ですが、慶應の誘致成功によって駅前の宅地を分割して商店街に変えるなど、いつの間にか「学園都市」というキャッチコピーで売られるようになりました。
(※)最初の日吉台分譲地は日吉駅前から放射状に広がり、現在の住所では「日吉2丁目」の一部と「日吉本町1丁目」の大部分。駅前の「浜銀通り」を境に住所は分かれるが、東急(かつての田園都市株式会社、目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄)によって一体的に宅地開発された。元の地名(小字)は「北原」「東原」。駅前広場が狭いのは開業当時は駅の乗降客が極端に少なく、鉄道を重視しなかったためとの指摘がある
“日吉1期生”が呆れる駅前の田舎ぶり
慶應大学がキャンパスを設けてからも、駅の周辺が市街地化したわけではありませんでした。
(略)東横電車に宣伝を頼まれたわけでもないが、日吉台はまさにハイキングとやらの好適地であろう。嘘と思ったら来てごらんなさい。坊主頭で塾生の、外的内的充実ぶりを御参考までに。
(略)
内証の話だが、やりきれない、と思う。これは敢えて僕の謂(いい)ばかりでないのであって、実際、すってんてんの田舎村日吉台には、料理の下手糞な飯のまずい食堂と一度で用のない洋服屋のほか、何もありゃしないのだから、血の若い者にとって、油を売るなど及びもつかぬのが当然に相違ない。第一、ピクニックも何も、日毎では倦怠を通りこして嫌厭を覚える、と云ってしまうとニベもないが、事実、そう云いたくなる程慥(たしか)に不貞腐れているのである。
(柴田錬三郎「日吉あれこれ」)
1934(昭和9)年、慶應義塾大学が予科(大学本科へ進む前に一般教養課程を学ぶ戦前の旧学校制度)用に日吉キャンパスを設けた際の“日吉1期生”で、のちに人気作家となる柴田錬三郎(れんざぶろう、1917年~1978年)が18歳時に書いた一文。活字となった柴田の初作品とされています。
1950年代後半に剣豪小説・時代劇の「眠(ねむり)狂四郎」シリーズを生み出し、“柴錬(しばれん)”の名で広く知られた直木賞作家は、郷土の岡山県から慶應医学部の予科に17歳で入学後、すぐに文学部へ移っており、その頃に文学部発行の文芸誌「三田文学」(1910年~)から原稿執筆を促されて投稿したものです。

“柴錬(しばれん)”の愛称で知られ、人気作家だった柴田錬三郎は慶應日吉キャンパスの1期生。1966(昭和41)年に小説誌で連載した随筆「わが青春無頼帖」では、当時日吉の商店街で唯一の食堂だったという「白十字」で働いていた女性との思い出を書き残しており、同名のタイトルが付けられた中公文庫に収録されている(2020年9月中公文庫「わが青春無頼帖 増補版」より)
柴錬のいう“すってんてんの田舎村日吉台”では、慶應予科の開校直後から女性が接客する「カフェー」や「バー」の出店を厳禁するという「女人禁制の発令」(読売新聞1934年9月15日号)を当時の川崎警察署が発出。(※当時の日吉駅周辺は橘樹(たちばな)郡日吉村で横浜市には入っていない)
慶應の学生を見込んで駅周辺に出店を決めていた経営者らが警察の厳しい態度に土地や契約を破棄する動きも加速し、「日吉台『男護ヶ島』、忽(たちま)ち大動乱、サービス・ガールは逃げ出す」「同学園の移転で発展しかかった日吉台は寂れる一方」(同9月16日号)とも報じられました。
柴錬も上記の原稿内に「色気離れた日吉の丘に、誰が植えたかオハラハー姫小松」などと、当時流行していた「鹿児島おはら節」を模したざれ歌を書き残しており、実際に“女人禁制”の規制は生きていた様子です。

日吉キャンパスの周辺1キロ以内は舞踊場、芸妓(げいぎ)屋、待合茶屋、カフェ、バー、料理屋、遊技場(麻雀、撞球=ビリヤード、射的場)は原則として許可しない、という警察の「風紀取締規則」が出されたことを報じる1934(昭和9)年9月15日の読売新聞朝刊の記事には“女人禁制の発令”という見出しが付けられた。大学当局と「慎重研究の結果」発出したものだといい、「頗(すこぶ)る痛烈を極めたもので当局の意気込みが察知される」と評している
そんな環境ゆえか日吉1期生は体力を持て余し、なかには東急の推奨する「ハイキング」でも実践したのか、日吉台の山林に分け入って食べもしないタケノコを掘り尽くして地元住民とトラブルになり、学校当局が補償金を払ったという話(慶應義塾予科会会誌第17号)も聞かれました。
戦前の日吉駅前で学生向けの象徴的な店とされた書店の「丸善」(1954年撤退、2023年再出店)でさえ、オープンは開校翌年の1935(昭和10)年4月まで待たなければならず、日吉1期生は書店さえもない街で最初の年を過ごしたことになります。
「三田と比較して、建物は白亜(はくあ)で、スチームと云う結構な(これは見逃すべくして忘却すべからざる)設備」(柴田錬三郎「日吉あれこれ」)だという最新の校舎(現在は慶應高校が使う第一校舎)で学べたことは、当時何もなかった日吉の街へ通う慰めとなっていたのかもしれません。
※参考1:2024年6月27日に掲載した本連載の第1回「<港北が舞台の文芸作品1>若さと虚無を描いた芥川賞3作家の“慶應日吉三部作”」では日吉キャンパスに関する作品を中心に紹介しており、ここで登場する芥川賞作家の堀田善衛は、柴田錬三郎が直木賞を受賞した同じタイミングで芥川賞を受賞しています。
※参考2:「丸善」については、約70年ぶりに日吉で“再出店”となった際に掲載した「日吉東急で『丸善』が3月1日(水)開店、創業の地は“横浜”、慶應とのつながりも」(2023年3月)という記事があり、記事中では触れていませんが、日吉再出店に際して、かつて販売していた“洋書”を扱うのか否かを尋ねる問い合わせを多数受けたとか。洋書を扱う丸善が日吉に出店していた期間は戦中をはさんで20年弱(1935年~1954年)に過ぎませんが、当時の慶應関係者に大きな影響を与えていたことがうかがえます
宮内省公認の歌人が見た地元住民
日吉台には柴田錬三郎のような十代後半の若い学生が毎年やってきただけでなく、本来の開発目的である“東急住宅地・日吉台”に移り住む新住民も少しずつ増えつつありました。
日吉台に居を移してから彼是十年になるが、トカク村の事、村の人には近づくホドよい結果を見ないのがこれ迄の例なので、常に僻けているが、お寺だけはツトメをしたいと思っている。
(略)ドコのおフクロかは知らんが、太ったのが余のソバの座布団に尻を落付たが、合点がいかぬという顔付で・旦那は台(住宅地)のヒトかね……台も此頃では大分屋敷が多くなったなあ……旦那の宗旨は何ですえ……此処も本寺も天台だぜ……
と念の入った事を問いかけて来る(略)(外山且正「西光院のお十夜」)
これは1942(昭和17)年1月に発行された「大乗」という浄土真宗本願寺派の雑誌に掲載されたエッセー。筆者の外山且正(とやま・かつまさ、1884年~1946年)は、戦前の宮内省(現宮内庁)に置かれた「御歌所(おうたどころ)」で寄人(よりうど)という職をつとめた歌人です。
“宮内省公認”という高い位にあった歌人の外山は、1932(昭和7)年ごろに東横線をはさんで箕輪池(箕輪町の綱島街道沿い、埋め立て後に「日吉台学生ハイツ」→2018年から伊藤忠商事日吉寮)を見下ろせる日吉本町1丁目に分譲地を購入し、都内から移り住んでいました。

外山と海軍大将の山本五十六(いそろく)は新潟県・長岡中学時代の学友で、のちの1943(昭和18)年に山本が戦死した際には偲ぶ歌を寄せており、外山の居住地は「港北区日吉本町一七四八」と紹介されている(1943年5月29日読売新聞夕刊)
現在も日吉本町駅近くにある天台宗の「西光院」(日吉本町5)へ法要に訪れた際の出来事を書き残したのが上記の短文です。
当時は農家が大半だった「村の人」とはできるだけ接触せずに暮らしていた“台(日吉台)”の新住民でしたが、地元民が集結する寺を訪れると遠慮のない物言いが続き、辟易(へきえき)とした思いを綴ったエッセーとなっていました。
日吉にはその後もさまざまな歌人・俳人・詩人をはじめとした文化人が住むことになるのですが、その元祖といえる存在が外山で、地元の“農民”をどう見ていたかを書き残した点でも貴重な一文です。
土地成金の父兄らに憂慮する校長
都会から“台”に移り住んだ新住民と、日々都心部から通ってくる慶應予科生らの存在がきっかけとなって、駒林や矢上と呼ばれた駅周辺に古くから住む農民の生活も少しずつ変えつつありました。
(略)西は一帯の別荘地であって十年前坪三円から七八円のものが、今日では二十三円から七十円というから驚いて仕舞う。駅前に丸善支店がある、此所は特別の坪百円というから全く人を食っている。
・これ等土地の所有者は誰であろう悉く私の学区の父兄である。十年前までの百姓が一躍して土地成金となって先祖伝来の田畑を売って小金を懐にして働かずに飲み食うことの出来る者となり、乃至は地所を賃貸して遊んで暮らせる。そこへ有閑……富豪の者がこの別荘地に吾も吾もと引っ越してきた連中とである、何十軒というアパート、カフェー、仕出し屋、食堂とこれ等の人達は手軽にライスカレーだ、洋食だ安くても定食だと、一家揃って都会人の生活そのままである。
(陶丘化「郷縣(くに)の子供とこちらの子供」)
陶丘化(すえ・きゅうか、1880年~1960年)という筆名で、秋田県の地元新聞「秋田魁(さきがけ)新報」に書かれた1937(昭和12)年の文章に日吉駅前の現状が触れられています。
筆者は陶観光(すえ・かんこう)という一風変わった本名なのですが、日吉に長年住んだ人なら「どこかで見たことがある」と感じるかもしれません。
陶は日吉台小学校(当時の名は日吉台尋常小学校)で第六代の校長(1933年~1940年)をつとめた教育者でした。
「かすみにほほえむ桜花」「いらかの日々にそびえ立ち」という歌詞で今も歌い継がれる同校校歌の作詞を担当し、楽譜や歌詞の脇には「陶観光」の名を見ることができます。
戦前に同校へ通った児童なら、戦後に封印された校歌3番の「日本精神を教訓とし 日の旗高くあおぎ見て 正しく強くやさしさに 努めはげまん我が友よ」という歌詞の記憶も残っているかもしれません。同校の校章は、陶校長時代に3番の歌詞をもとにデザインされたと言われ、戦後に一部改変のうえ現在も使われています。

今から半世紀以上前の1973(昭和48)年に発行された日吉台小学校の「創立百周年記念誌」には、現在は歌われなくなり、歌詞を見ることもなくなった校歌の3番まで掲載されている。作詞は当時の陶観光(すえ・かんこう)校長が担った。同校長時代に定められた校章は中央の桜花は日本精神を現わしたものだといい、下部にあった剣の部分は戦後に削除されたものの、現在まで使われている
秋田県角館市出身の陶は、かつて活躍した故郷でしか流通していない新聞ということもあってか「十年前までの百姓が一躍して土地成金」「先祖伝来の田畑を売って小金を懐にして働かずに飲み食うことの出来る者となり」「地所を賃貸して遊んで暮らせる」といった日吉台の実情を吐露。
それが「悉(ことごと)く私の学区の父兄」が関わっているといい、地域を代表する学校の校長としてやりきれない思いを綴っています。
陶が指摘する「一躍して土地成金」「働かずに飲み食うことの出来る者」「賃貸して遊んで暮らせる」「有閑……富豪の者」といった現在でも時おり見かける層の住民に加え、文化人や知識人、経営者や高所得サラリーマンといった“台”の新住民も交えて発展していった日吉の街。
今も「上の人(赤門坂の上にある日吉台周辺に住む人)」と「下の人(赤門坂の下のエリアに住む人)」などという言葉が日吉住民の間で密かに使われているのは、丘の“上”に暮らす「日吉台住民」と“下”の「日吉住民」は生活スタイルも考え方も違うのだということを暗に伝えているのでしょうか。
戦時を象徴する岡本工作機械の進出
赤門坂の“上”で日吉台の街が形づくられつつあった頃、駅から少し下った箕輪町の農地では戦争を背景とした開発が始まります。
それが1942(昭和17)年の「株式会社岡本工作機械製作所」の進出です。現在は1300戸超の大規模マンション「プラウドシティ日吉」と箕輪小学校、日大高校・中学校(いずれも箕輪町2)として使われている場所は、すべて岡本工作機械製作所の本社工場でした。

1936(昭和11)年に当時の陸軍が撮影したとされる日吉駅周辺の航空写真。現在に続く日吉台住宅地の骨格ができつつあり、慶應日吉キャンパスにも第一校舎と第二校舎(いずれも現存)、陸上競技場などが見える。写真下部の岡本工作機械製作所の工場予定地はまだ田畑しか見えない(1936年8月14日撮影の国土地理院空中写真を横浜日吉新聞が加工)
1926(大正15)年、広島県呉市の海軍工場出身で英国への渡航経験も持つ岡本覚三郎(かくさぶろう=公成という通称名も、1888年~1964年)が東京都目黒区の自宅で始めた同社は、歯車工作機械のメーカーとして成長。
昭和十年代以降は、戦争で海外から工作機械の輸入に制限をかけられたことを背景に、岡本工作機械は軍から従来の十倍という生産を要請されます。そこで、急きょ箕輪町の農地を買収して工場を新設し、創業者の岡本もある時期から箕輪町内に移り住みました。
(略)機械工場は骨組みだけ、仕上げ工場は骨組みの最中で、現在の安斉のガソリンスタンド(※1)の裏が山になっていたので、その山を崩して土を運び、埋め立てをしていた。付近は茅ぶきの農家で、一面田んぼと畑ばかり。桃の木や柿の木が植えられ、綱島駅近くまで見とおせて人家はあまりなかった。(元製造部部長代理執筆「開戦、日吉工場へ」)
私たちは昭和一七年一一月、ほぼ完成した日吉工場へ移った。(略)移転して間もないころは、夜、屋外へ出ても真暗闇である。宿直のときのことであるが、洗い場あたりで大きな黒い塊が右へ左へ動く。周辺の山林から出てきたムジナ、狸の類であった。(元人事課長執筆「矢口のドブ、日吉のムジナ」=※2)
(※1)箕輪町1丁目の綱島街道と一本橋(川崎市幸区南加瀬)方面へのバス通りが分かれる日大高校入口交差点で現在も営業する「ENEOS(エネオス)日吉SS安斉商店」のこと。人口が増えた今は車と人の停滞スポットとしても知られる
(※2)矢口は岡本工作機械が東京都蒲田区(現大田区)矢口に1935(昭和10)年から置いていた製造工場(敷地約1000平方メートル)のこと。下水の排水がなく、道端に溝を付けた「ドブ」に流していたという
1985(昭和60)年に制作された記念誌「岡本工作機械製作所五十年の歩み」には、本社工場を置いた箕輪町が野山と田畑が広がる地だったころの思い出話が収録され、その進出は軍需拡大による急なものであったことも伝えます。
戦後の宅地・学校・スーパーへの転換・再開発によって、朝夕は狭い歩道に人と自転車がひしめき、バスと車が渋滞する現在のような姿になるとは夢にも思わなかったでしょうし、なにより数年先に戦争で環境が激変することさえ予測できなかったはずです。
女子挺身隊や学徒動員で2000人が働く
当時の岡本工作機械で働いていた社員が残した先ほどの手記の続きを読んでみましょう。
(略)昭和一七年の秋には青年学校の東寮二棟、西寮の寄宿舎が四棟完成、第一工場も完成し、生産も本格化した。
・一二月頃、米軍の飛行機が富士山の方から飛行機雲を残しながら東京方面へ飛んでいった。
・職場も毎日戦争同様で、日の丸鉢巻きをつけての作業であった。
・女子挺身隊や学徒動員、それに一般入社の人たちを合わせると、二〇〇〇人は超えたであろうか。青年学校の校庭(現日大高校グラウンド)が、朝礼のときには溢れていた。そしてそのなかから招集を受けた人たちが、本館前の神社境内で壮行式を受け、青年学校音楽部を先頭にバンザイバンザイと見送られ正門を出ていった。
・昭和二〇年に入ると、毎日のように米軍機の空襲があり、一日に数回に及ぶこともあって、そのたびに安斉(※1)の裏手の防空壕に逃げ込んだ。夜は夜で灯りが外へ漏れると危険なので、各寮は黒いカーテンをさげた。それでも夜間空襲警報が出されると、防空壕へ逃げ込んだりしたものである。(元製造部部長代理執筆「開戦、日吉工場へ」)
(※1)箕輪町1丁目の日大高校入口交差点にある「ENEOS日吉SS安斉商店」付近とみられる
・戦争が敗色を濃くしてきた頃には、工場から出征する人たちがふえ、連日のように壮行会が開かれるようになった。銃後は敗戦を感じとる余裕すらなく、聖戦完遂ということでひたすら生産に邁進することに青春を賭けたのである。こうした産業戦士たちの心情は、まさに極限まで達した精神の昇華であった。(元人事課長執筆「矢口のドブ、日吉のムジナ」)
青年学校とは、工場などに勤務しながら学ぶ戦前の学校制度で、国が戦時下で若い男子を労働力として使いたい思いがあったのか、この頃には12歳から19歳の働く男子は就学が義務化されていました。岡本工作機械でも“会社立”として社内に青年学校を設け、寮も用意し、若い社員の住居と教育も担っています。
また、手記では触れられていませんが、一般社員向けには、日吉台で東急が宅地開発をしていなかった中央通りの先(日吉本町2丁目側)に岡本工作機械が独自に土地を借り、分譲して社員に貸していた記録も残ります。それだけ従業員の数が急激に増え、住居の必要にも迫られていたようです。
1944(昭和19)年3月に港北区内居住の「女子挺身隊(若い女性で組織された勤労組織)」が入職した月には、会社が綱島温泉の料亭を借り上げたというので、既にこの頃は24時間体制での勤務が常態化していたのかもしれません。

大空襲に見舞われる前年の1944(昭和19)年に当時の陸軍が撮影したとされる日吉駅周辺の航空写真。慶應日吉キャンパスには藤原工業大学(現理工学部)の木造校舎らしき建物群も見えるが、翌年の空襲では日吉台小学校の木造校舎とともに焼失。写真下部の岡本工作機械製作所の工場付近は建物が密集し、いかにも攻撃目標になりそうだが、接収が想定されていたためか日吉キャンパスの第一・第二校舎とともに焼失を免れている(1944年10月15日撮影の国土地理院空中写真を横浜日吉新聞が加工)
政府が統制する徴用工場として「皇国4043工場」なる秘匿名に変えられた同年翌月には、甲府女子挺身隊や谷村工商勤労学徒(山梨県)、小田原女子勤労報国隊、その後には福島女子挺身隊も入職したと記録され、同年9月には工場防衛のため陸軍部隊一個中隊(150人程度か)の駐屯も始まったといいます。
そして、十代が集まる慶應日吉キャンパスがそうであったように、岡本工作機械からも多くの若者が戦場へ旅立ったことが先の手記でも触れられています。
終戦後、軍需工場だった岡本工作機械は米軍に接収され、一部のみが半年ほどで返還される一方、今度は“皇国4043工場”から「ウイレイ・B・ブルークス兵舎」なる名に変えられ、1957(昭和32)年3月まで12年近くにわたって占領され続けました。
それでも青年学校の部分だけは、神奈川区で戦火に遭って移転先を探していた日本大学高校(旧日本大学第四商業学校=日大四商)へ1947(昭和22)年11月という比較的早い段階で譲渡が実現しています。
これは同様に接収された日吉キャンパスが慶應大学に全面返還された1949(昭和24)年10月よりも2年早い時期で、青年学校の部分だけは、軍需工場ではなく教育機関であったことを占領軍が認めたのかもしれません。
思わぬ形で日大高校を誘致できたことは、戦後の日吉の街が発展するうえでも幸運だったのではないでしょうか(同校に関する文章やエピソードは次回の「戦後編」で紹介します)。
そして、企業としての株式会社岡本工作機械製作所は、本社工場の接収を受けながらも同業企業と合併するなどし、苦境を脱して戦後復興を遂げ、昭和期は日吉エリアを代表する企業の一つでした。
ただ、石油危機に端を発した昭和50年代の経済不況下で同社の業績も低迷。1977(昭和52)年には本社敷地の一部にテナントビルを建てて「アピタ日吉店」(2015年11月閉店)を誘致して同店を核とした大型ショッピングセンター「サンテラス日吉」を開店し、土地活用による収益の多角化を模索します。
他の敷地も1985(昭和60)年に野村コンピューター(現・NRI野村総研)、1986(昭和61)年には興亜火災(現・損保ジャパン日本興亜)へと相次いで売却し、最後に残った本社ビル部分もサンテラス日吉の駐車場に変え、2003(平成24)年6月には群馬県安中(あんなか)市に本社も工場も完全に移しました。

サンテラス日吉(アピタ日吉店)解体後の旧岡本工作機械製作所の敷地、左奥が損保ジャパン日本興亜の研修施設、真ん中奥は日大高校・中学校の校舎、右奥は野村総合研究所(NRI野村総研)のデータセンターと社員寮(2016年9月)
戦前から60年超にわたって箕輪町を本社としてきた岡本工作機械ですが、現在は群馬県を拠点とする東証スタンダード(旧東証2部)上場企業として健在です。
青空高く 富士の嶺を
港北ここに 仰ぎつつ
抱負大きく 前進の
みなぎる生気 日々にあり
伝統ながき 岡本工作機械
(1985年「岡本工作機械製作所五十年の歩み」より)
今は同社で使われているかどうかは分からない社歌ですが、箕輪町から岡本工作機械の痕跡がほぼ消えてしまった今となっては、歌詞に残された「富士の嶺」(現在も箕輪町の高い場所からは富士山が見える)や「港北」といったキーワードは貴重な記録です。
※参考1:慶應日吉キャンパスと戦争の関わりについては、2023年6月5日掲載の記事「日吉最古の校舎が伝える『キャンパスの戦争』、慶應塾高・阿久澤さんが歴史本」や、本連載の第1回「<港北が舞台の文芸作品1>若さと虚無を描いた芥川賞3作家の“慶應日吉三部作”」(2024年6月27日)もあわせてご覧ください。
※参考2:日吉周辺の学徒動員については2024年5月7日に掲載した記事「戦前は西口ヨーカドー付近にあった『東京園』、綱島温泉をめぐる3つの意外な歴史」でも触れています。綱島温泉は学徒動員の宿舎としても活用されました
日吉2丁目に住んだ経営者宅にも空襲
日吉台の住民から見た戦争はどのようなものだったのでしょうか。ある著名な経営者が戦災時の出来事を文章に残していました。
空襲がはげしくなったある日、たまたま家にいる時に日吉一帯が空襲をうけた。近くの慶応義塾大学をはじめとして方々に火の手が上がった。私の家もいよいよ危うくなった。そのうちに庭に焼夷弾が落ちて、庭内の樹木が所所火を出しはじめた。家には私と妻と娘しかおらず、燃え出しそうにも、近所の人は自家を防ぐのに懸命になっていて、助けに来てくれなかった。
・私はとにかく家族と協力して、バケツ・リレーで火を消していたが、そんなことではとても消せなかった。そこで火たたきに水をふくませて木を叩いているうちに、柄が抜けてしまった。今度は防空頭巾を水にしませて消しているうちに、近所の人が消しに来てくれて、ようやく無事に消し止めた。
(天野修一「鈍根運(どんこんうん)~天野修一自伝」)
筆者の天野修一(1890年~1976年)は、タイムレコーダーで知られる東証プライム(旧東証1部)上場の老舗企業・アマノ株式会社(港北区大豆戸町)の創業者です。
海軍技師だった経験を生かし、1931(昭和6)年に東京・蒲田で創業後、1939(昭和14)年から菊名駅西口に近い大豆戸町に現在も本社とする横浜工場を設けました。
大豆戸町に進出した当初の天野は工場付近に住んでいたようですが、翌年以降に浜銀通りから近い日吉2丁目の東急分譲地で住み始めており、会社が菊名駅付近なので通勤にも適していたのでしょう。
自伝に書かれている空襲は、1945(昭和20)年4月2日の日吉だけで約50戸が焼かれ10人以上の死者を出した際のものか、日吉台小学校や慶應キャンパス内の藤原工業大学校舎が焼かれた4月15日の“川崎大空襲”時のものかはわかりませんが、日吉台の住宅街も標的となっていたことを伝えます。
天野の家から近い同じ日吉2丁目には、随筆家で朝日新聞社の社員でもあった李家(りのいえ)正文(1909年~1998年)も1941(昭和16)年ごろから住んでいました。
李家の自宅は東急の分譲地からわずかに外れていますが、風流のある竹垣の家を建てていたといい、「垣根があってはさあ空襲というときに、じゃまになるというので、惜しげもなく、それを取り払って、燃料にしてしまった」(1962年「たてもの曼陀羅」)と振り返っています。
戦争が激しくなるにつれ、日吉台周辺の生活環境も大きく変わりつつあったようです。
同じ町内でも「こんな寂しい土地」
天野や李家が住んだ日吉2丁目でも、現在の「日吉公園」に近い丘の上部、川崎市中原区井田2丁目との市境近くに居を構えたのが、のちに東京芸術大学の教授もつとめ、「人間国宝」に認定される陶芸家・加藤土師萌(はじめ、1900年~1968年)です。

毎日新聞社が1967(昭和42)年3月に限定2000部のみで発行した「人間国宝~重要無形文化財を保持する人々」(毎日新聞社人間国宝編集委員会編)には日吉の自宅兼陶房とみられる場所で一服する加藤土師萠の姿が記録されている(国会図書館デジタルコレクションより)
愛知県瀬戸市に生まれた加藤は、本名を一(はじめ)といい、“土(やきもの)の新しい芽となるように”と陶磁器研究家からおくられた「土師萌」という雅号を終生使いました。作品に向かう真摯な姿勢だけでなく生活態度からもハジメならぬ“マジメさん”と呼ばれたとか。
26歳で岐阜県多治見市の陶磁器試験場に招かれ、美濃焼の発展に貢献した「岐阜県における国宝的存在」(岐阜県議会)として同県内で巻き起こる慰留の声を振り切り、個人作家として独立するため日吉に陶房を設けたのが1940(昭和15)年1月、加藤が40歳の時でした。
夜は実際寂として声なく静けさを破るに東横の電車の音あるのみ。家族をこんな寂しい土地へ移住させるのが可哀想になってきた。小さい自己の仕事のため妻子に辛い寂しい想いをさせるのは辛いことだとつくづく考えた。
(加藤土師萌「日吉新居生活日誌」=朝日新聞社「加藤土師萌作品集」)
住宅が密集する現在の日吉2丁目では想像が難しい感情ですが、1940年当時は加藤の住んでいた多治見と比較しても「こんな寂しい土地」だったようです。
そんな場所ゆえか、加藤の「日吉窯」が空襲の被害に遭ったという記録は見つけられませんでした。
天野や李家と、加藤が住んだのは現在では同じ日吉2丁目ですが、戦前は住宅地の「日吉台」を離れると環境が大きく異なっていたことがわかります。
農地を求め赤門坂へ来たスター俳優
日吉台と日吉の違いで言えば、演劇界の名優・井上正夫(1881年~1950年、本名小坂勇一)の日吉移住も象徴的といえます。
愛媛県出身の井上は明治30年代後半に上京して人気俳優となり、大正期からは映画やラジオドラマにも出演。大衆向けの「中間演劇」を生み出し、56歳となった1936(昭和11)年には後進の指導養成を兼ねた劇団「井上演劇道場」を創設しました。
日吉本町2丁目の「赤門坂」中腹付近にあった当時築100年以上のワラ葺き屋根の家と、560平方メートルほどの畑を購入したのは60歳を迎えた1941(昭和16)年。
かつてのスター俳優も還暦を迎え、時には好きな農作業を楽しみたい思いもあったのでしょう。日吉台の分譲地から300メートルも離れていない場所ですが、住宅街とは環境がまったく異なっていた様子です。
こんど引っ越しました私の家はコウいう百姓家(ワラ屋根の家と畑のある絵が描いてある)でして、ひと間しきゃ有りません。所は横浜市でも田舎で周囲は百姓家でありますが只今のところでは安全な所であります。然し海軍省が引っ越してくる噂もあり、既に海軍第八分室と申して国民学校をそれにあて大分海軍兵も参り日々地下(壕)を掘ったり大きな建築をしたりいたしておりますれば、追々には立ちのきとなる覚悟はいたしております。(後略)
・三月六日 井上正夫
・坂本御前様 御尊下
(上田雅一「名優 井上正夫伝 舞台大変」より)
井上が渋谷区穏田(おんでん=現在の原宿周辺)に持っていた自宅から“疎開先”の日吉へ移ったのは首都圏の空襲が本格化する直前の1944(昭和19)年のこと。
関西にある寺の住職に宛てた同年3月の絵手紙には「海軍省が引っ越してくる噂」や「日々地下(壕)を掘ったり大きな建築をしたり」といった話題に触れ、既に日吉台小学校(当時は日吉台国民学校の名)へ海軍の一部が詰めつつあったとも書かれています。
(略)土に親しむ家として東横沿線日吉駅の奥に草家を買い求め、畑づくりなどをはじめていたので、身の廻りの品々だけは疎開しておいたお陰で、丸裸の難だけは免れることができたのです。私達夫婦もそこにわびしい疎開ぐらしをしていたので、直接の被害は受けなかったのですが、その疎開先の附近にも亦焼夷弾を見舞われて、草屋根に飛んで来る火の粉と大格闘を演じた夜もあったのです。
(井上正夫「化け損ねた狸」)
かつて住んだ渋谷の家は空襲で焼かれつつも、日吉に疎開していたので自身は大きな被害を受けなかった、と著書で述べています。
ただ、井上の家と畑は、空襲で校舎を焼かれてしまった日吉台小学校から200メートルも離れていない場所。木造校舎が全焼するくらいの空襲だったので、火の粉が降りかかり、危機も感じたことでしょう。

1947(昭和22)年に刊行された井上正夫の著書「化け損ねた狸」(右文社)には、日吉本町の自宅前で農作業姿となった井上の写真が掲載され、足下にはニワトリ、右後方には「井上演劇道場」の表札も見える(国会図書館デジタルコレクションより)
戦時を日吉で乗り切った井上は、1950(昭和25)年2月に68歳で亡くなるまで、赤門坂近くで農作業をしながら東急電車で都内の劇場へ通って現役の俳優を続け、日吉の自宅は“演劇道場”として多くの弟子たちも集いました。
夫妻には子がいなかったため、妻の没後には家が無人化。名俳優の記憶を残すべく文化財として保存を求める声は強まりましたが、井上側と妻側の遺族で話がこじれて叶わず、1951(昭和26)年に全国の有志が制作費を出し合って建てた石碑だけが今も残されています。
とかくプライバシーを重視する傾向の強い日吉居住者では痕跡が残った稀有なケースで、これも戦前の日本社会に影響を与えた名俳優ならではといえそうです。
※参考1:日吉の空襲被害と地下壕や海軍の動向については、2016年1月10日に横浜日吉新聞で掲載した「<コラム>引き裂かれた日吉村、次に来たのは大迷惑な日本海軍とアメリカ軍」にまとめています
※参考2:本連載の第3回「<港北舞台の文芸作品3>多彩な芸術家が言葉を紡ぎ残した大倉山の10人【後編】」には、大倉山出身の建築家・隈研吾の家は医師だった祖父が農業を楽しむために購入していたものであったことや、鶴見川に近い大倉山には人間国宝の漆芸家・赤地友哉(あかじ・ゆうさい)が移り住んだことなどを取り上げています
写真撮影ガイドが残した日吉の昔
今回の連載「日吉・戦前編」のタイトルロゴに使った写真は、1941(昭和16)年8月に刊行された「東京近郊撮影地ガイド」(冬木健之介、玄光社刊)という写真入門書に掲載された日吉本町2丁目の「金蔵寺」付近を写した作品を加工したものです。
撮影入門者向けの同書では、日吉駅前から普通部通りを経て日吉台小学校、赤門坂を経由して金蔵寺に至り、ここで何枚かの写真を撮って掲載。
筆者は「充分に農村風景の情緒を満喫することができる」として、綱島台から綱島駅付近も交え、撮影旅行に適した「日吉・綱島コース」を地図入りで伝えます。
当時の日吉エリアを象徴するような写真が幾つか掲載されていましたので、「戦前編」の最後に紹介します。

日吉台小学校から赤門坂にかけて撮られたとみられる1枚、「坊やは御機嫌」というキャプションが付いている。日吉台の住宅地を離れるとすぐ草木が生い茂っていた様子(1941年8月「東京近郊撮影地ガイド」=国会図書館デジタルコレクションより)
今回引用した書誌の詳細
(※)書誌詳細やリンク先は2025年2月時点のものです
- 歴代横綱物語(加藤進):1938(昭和13)年博文館、本稿は同年12月発行版の「第三十三代・武蔵山武、当時を語る武隈親方」から引用した【出版社ほか入手困難/神奈川県立図書館で貸出有/横浜中央図書館館内のみ閲覧可/国立国会図書館デジタルコレクションで公開】
- 土地の神話(猪瀬直樹):初出1988(昭和63)年1月15日号~10月7日号「週刊ポスト」、1988年小学館(単行本)刊、1992(平成4)年小学館ライブラリー版「土地の神話~東急王国の誕生」、1993(平成5)年新潮文庫版、2002(平成14)年小学館「日本の近代 猪瀬直樹著作集(第6巻)」所収、2013(平成25)年小学館文庫版。本稿は2013年2月発行の小学館文庫版初版第一刷を引用した【出版社(小学館文庫版)在庫不明/横浜市図書館に各種版を所蔵】
- 日吉あれこれ(柴田錬三郎):初出「三田文学」1935(昭和10)年6月号、1990(平成2)年集英社「柴田錬三郎選集 第18巻(随筆・エッセイ集)」所収。本稿は同年8月発行の第一刷「柴田錬三郎選集」から引用した【出版社在庫不明/横浜市図書館に柴田錬三郎選集を所蔵】
- 西光院のお十夜(外山且正):初出「大乗」(大乗社)1942(昭和17)年1月号、本稿は同誌を引用した【出版社ほか入手困難/国立国会図書館デジタルコレクションで公開】
- 郷縣(くに)の子供とこちらの子供(陶丘化):初出「秋田魁新報」夕刊1936(昭和11)年11月~1937(昭和12)年5月(掲載日不明)、1937年8月「一人一文」(秋田活版所、中島耕一編)所収、本稿は同書を引用した【出版社ほか入手困難/国立国会図書館デジタルコレクションで公開】
- 語り継ぐ岡本(岡本工作機械製作所の社員・元社員寄稿):1985(昭和60)年6月「岡本工作機械製作所五十年の歩み(記念誌)」所収、本稿は同記念誌から引用した【非売品のため入手困難/神奈川県立川崎図書館で貸出有/横浜中央図書館館内のみ閲覧可】
- 鈍根運~天野修一自伝(天野修一):1963(昭和38)年1月天野特殊機械(東洋経済新報社製作)、本稿は同書を引用した【出版社ほか入手困難/神奈川県立川崎図書館で貸出有/横浜中央図書館館内のみ閲覧可/国立国会図書館デジタルコレクションで公開】
- 日吉新居生活日誌(加藤土師萌):初出不明、本稿は1974(昭和49)年11月朝日新聞社刊「加藤土師萌作品集」(800部限定版)の解説「加藤土師萌の人と藝術」(九原常雄)から引用した【出版社ほか入手困難/国立国会図書館デジタルコレクションで公開】
- 名優 井上正夫伝 舞台大変(上田雅一):1993(平成5)年創風社出版。本稿は同年11月発行の第一刷を引用した【出版社ほか入手可能/横浜市図書館貸出有】
- 化け損ねた狸(井上正夫):初出1947(昭和22)年右文社、1980(昭和55)年井上正夫生誕百年祭実行委員会復刻版。本稿は1947(昭和22)年9月発行の右文社版を引用した【出版社ほか入手困難/神奈川県立図書館で貸出有(復刻版)/横浜中央図書館館内のみ閲覧可(右文社版)/国立国会図書館デジタルコレクションで公開(右文社版/復刻版)】
- 東京近郊撮影地ガイド(冬木健之介):1941(昭和16)年玄光社。本稿は同年8月発行版を引用した【出版社ほか入手困難/国立国会図書館デジタルコレクションで公開】
(※)この記事は「横浜日吉新聞」「新横浜新聞~しんよこ新聞」の共通記事です
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