港北区が登場する書籍を紹介していく「港北が舞台の文芸作品」。第3回の「大倉山編」では戦中から現代までの作品を紹介した前編に続き、この「後編」では人物に焦点を当て、大倉山に在住した作家らの書籍を紹介します。(※前編の作品編「愛と悲劇と女性の舞台に選ばれた『大倉山』」もあわせてご覧ください)
後編では「人物編」として大倉山とその周辺に関係の深い10人を紹介するなかで、地元を取り上げた作品も含めて多くの著作を持つのが次の4人でした。
- 中薗(なかぞの)英助(1920年~2002年、作家、1980年代後半から大倉山在住)
- 安西篤子(あつこ、1927年~、直木賞作家、1970年代前半から十数年にわたって大倉山在住)
- 遠藤雅子(1937年~、ノンフィクション作家、1970年代半ばから大倉山駅に近い師岡町在住)
- 隈(くま)研吾(1954年~、建築家、大倉山生まれ)
加えて、戦後すぐに俳句誌「あざみ」を創刊し、昭和30年代から大倉山に拠点を移して刊行し続けた俳人の河野南畦(こうのなんけい)と河野多希女(たきじょ)の夫妻も地元に関する作品が多く見られます。
また、大倉山とその周辺に住んだり、通ったりした著名人で、伝記やエッセーの形で書籍を残したのが次の4人です。
- 磯野庸幸(つねゆき、1878年~1981年、貴族院議員・実業家、港北区役所近くの大豆戸町・吉田家に生まれる)
- 大倉邦彦(1882年~1971年、大倉精神文化研究所の創設者・実業家)
- 赤地友哉(あかじゆうさい、1906年~1984年、人間国宝の漆芸家、1960年代後半から大倉山在住)
- 梅宮アンナ(1972年~、モデル・タレント、東横学園大倉山高校=2008年閉校=を卒業)
後編は長くなりますが、上記10人の歩みと著作を順に紹介します。
最初は大倉山で晩年を過ごした作家・中薗英助です。
(※)おことわり:大倉山駅の周辺一帯に広がる「太尾町」が「大倉山1丁目~7丁目」の新町名に変わったのは2007(平成19)年から2009(平成21)年にかけてですが、当時の町域は広すぎて番地だけでは位置が分かりづらいため、本稿では太尾町時代であっても現在の町名に置き換えて使いました
終の棲家とした文学者・中薗英助
多ジャンルの書籍を60冊近く残し、2002(平成14)年に81歳で亡くなった中薗英助という作家をひと言で説明するのは難しく、あえて言えば「昭和戦後派の文学者」と呼べる存在です。
社会活動からの挫折や自らの病、そして戦中に中国大陸で過ごした日々を文学作品の題材に求める一方、実在の人物や歴史を取り上げた小説も手がけ、また、ミステリー分野では「スパイ小説」の第一人者と言われています。
中薗の作家活動について神奈川近代文学館は「記録者の文学」と呼び、「作品の根底に一貫するのは、ひとりの<記録者>という立場から、虚実見分け難い歴史の闇を通して、人間の真実の姿を見届けようという姿勢」(2012年「没後10年 中薗英助展~記録者の文学」リーフレット)が見られると分析。
「純文学・小説」「ミステリー・スパイ小説」「人物小説・伝記」「教養・エッセー」と4つのジャンルにわたる作品を残したなかで、自らが住む大倉山を舞台とした私小説的な作品集が「ギリシア通りは夢夢(ぼうぼう)と」(2000年)です。
東京と横浜とを結ぶバイパス私鉄O(※英語のオー)駅の高架線上りホームに下車して、側壁のガラス窓から窓外に視線をやると、眼下にギリシア通りが見える。
・色も形もいくらか不揃いなものも混じるけれど、白亜の大理石風建築に統一された街並が、丸い葉を梢の尖端にまでびっしりつけてそそり立った桂並木とともに、西方へ向かって三百メートルほど夕陽の中に彎曲しながら消えている。
・その名もギリシア通りと命名された商店街からほんのわずかばかり傍道をたどって入れば、いま住んでいるマンションという名の長屋に辿り着くのだけれど、その高架線ホームからの眺めには、なぜか帰ってきたという切実な想いは湧かない。O町に住みついて十年もたつのに、帰ってきたという気がしないのは、なぜだったろうか。長い旅の途中で、しばらく借りた部屋に留まっているというぐらいの気しかしなかったのだから。
(中薗英助「ギリシア通りは夢夢と」)
「私鉄O(オー)駅」や「O町」は大倉山、「ギリシア通り」が駅前のエルム通りだとすぐに分かるのですが、中薗の私小説的な作品では地名や実在の人物をあえて隠したり、変名を用いたりすることで、事実に近い題材を扱っていても、あくまでフィクションであることを示唆します。
作中で“マンション村”と表現された大倉山5丁目の工場跡地(現在のスーパー「ライフ」近く)に建てられた集合住宅群の一つ、約200戸のマンションに移り住んだのは1988(昭和63)年のこと。中薗が67歳の時で、2002年に亡くなるまで住み続けました。
なぜ晩年に大倉山で過ごすことになったのか。私小説的な前作「帰燕」(1996年)内の作品には、東京都杉並区の私鉄沿線で60代にして生涯初の一戸建て住宅を買うも、近所住民の不可思議な行動や、常に監視され続けているような雰囲気に嫌気がさし、引っ越しを決意したことが描かれています。
次に発表した「ギリシア通りは夢夢と」に収録された作品では、「O(オー)山展望台」(大倉山公園とみられる)の眺めに夫婦で満足し、この山がなかったら大倉山へは来なかったといった内容が見られ、杉並区から移って来た背景が両作品から想像できます。
エルム通りを愛し、作中にも描く
1920(大正9)年に福岡県で生まれ育った中薗は、17歳になると当時日本の影響下にあった中国大陸に渡り、北京で邦字(日本語)新聞の記者をつとめるうちに終戦。
直後には、中国で育った日本人「大陸2世」のとせ子(登世子)と結婚し、“片道の新婚旅行”となったのが、貨車や船に押し込まれての日本への強制送還でした。
戦後に再起を図った東京都内では西荻窪や吉祥寺などを転々とし、31歳で杉並区久我山に落ち着きますが、50代後半に病が続いたことから療養を兼ねて湘南の海に近い神奈川県大磯町に転居。4年後には一戸建ての購入を機に再び杉並区へ戻っており、先の作品「帰燕」につながります。
生涯に幾度も転居を繰り返してきた中薗は、引用部にもあるように、たとえ大倉山に10年住んでいても「帰ってきたという気がしない」「長い旅の途中」といった感情が常に湧いていたようです。
表題作ほか6編の作品で構成された「ギリシア通りは夢夢と」は、大倉山における1990年代後半の日々を題材に、妻「帖子」とのやり取りを中心に過去の出来事を交錯させながら、自らの人生を振り返る内容。
中薗の歩みを知らないと理解しづらい思い出話もありますが、マンション内での騒音問題や住民との難しい関係性、頻繁に歩いていた商店街の風景、地域での出会いなど文学者の目を通じて描かれた今から四半世紀以上前の大倉山における生活者像は見どころです。
大倉山に中薗が住み始めたのはちょうど「エルム通り」が完成に近づいていた頃。ギリシャを模した街並みを気に入って作中でもたびたび取り上げており、講談社現代文庫版の「北京飯店旧館にて」(2007年発売)の解説ページには、通りで撮影された中薗の写真も掲載されています。
なかでも、エルム通り沿いの駅至近に建つビルの2階にあった地中海料理店(現存せず)を愛し続け、「ギリシア通りは夢夢と」に加えて、筆者最後の“スパイ小説”と銘打った「榎本武揚シベリア外伝」(2000年)内でも同店を描きました。
大倉山が登場するこの2冊に目を通した後には、若き日の中薗が残した「彷徨のとき」(1957年)や「侮蔑のとき」(1959年)といった文学作品、「密書」(1961年)や「密航定期便」(1963年)に代表されるスパイ小説、映画「KT」(2002年)の原作となった「拉致~知られざる金大中事件」(1983年)などを読むことができれば、“記録者の文学”の真髄に触れることになるでしょう。
レモンロード側に住んだ安西篤子
中薗より7歳下にあたる1927(昭和2)年生まれの安西篤子も多作で、現在までに著書は60冊以上に達し、歴史小説と現代小説からエッセー、歴史・旅行・恋愛に関する解説書までジャンルもさまざま。初期には中高生向け小説も手掛けていました。
代表的な肩書を探すなら「歴史小説家」や「直木賞作家」が似合うでしょうか。
作家のかたわら、1980年代に当時の神奈川県知事から要請を受けて県の教育委員長も経験し、2000年代には神奈川近代文学館で運営公益財団の理事長にも選ばれています。
駅から庁舎まで、歩道がなかった当時は、幼児連れのお母さん方が沢山、通るのを、はらはらしながら眺めていた。(略)こんな有様では、いつ事故が起こるかわからないと、心配でもあった。その後、市の主催の会合に出席して、早く歩道を造ってほしいと要望したこともある。幸い、そう考える人が多かったのであろう、駅前の商店街の店主諸氏がレモン・ロード計画を発表し、その結果、店の敷地を少しづつ削って歩道を造り、現在、見るような街並になった。
(安西篤子「変化する街」=エッセー集「歴史のいたずら」第6章大倉山通信所収)
大倉山の「レモンロード」(区役所側の商店街、1984年完成)に触れたエッセーを1986(昭和61)年に残している安西は、レモンロード至近の綱島街道に面したマンションに1973(昭和48)年から15年弱にわたって住んでいました。
部屋の窓からは、港北区役所の保健所へ向かう乳幼児を連れた若い母親らの姿が常に見えたようです。
この頃、安西は50代の後半。数年後に高齢の母親が住む鎌倉へ移ることになるのですが、すでに居住歴は十年を超え、引用した文中からもすっかり“大倉山住民”の目線になっていることがうかがえます。
1965(昭和40)年に38歳で直木賞を受賞した安西は、当時“主婦作家”などと話題になりましたが、家庭ではもやもやとした感情を抱えていたようで、その後に夫や娘や息子を残して家を飛び出し、離婚して都内で一人暮らしを始めました。
大倉山に建てられたばかりの真新しいマンションを買い求めたのは、都内から両親の住む鎌倉を頻繁に訪れるには遠く、作家としては都心へ出る仕事も多いので、その「中間地点」として選ぶに至ったと書き残しています。
当時の心境としては、作家として一人生きていく覚悟を決め、再出発の地として選んだのではないか、と想像されます。
大倉山時代の安西は小説に限らずあらゆる作品・短文を書き続けて仕事の幅を広げ、「作家・安西篤子」を確立した時期でもありました。上記のエッセーもそうしたなかの一つです。
海外を転々、マンション内でも転居
安西の父は、戦前の貿易金融を担った「横浜正金(しょうきん)銀行」(※現在の県立博物館の建物が旧本社、戦後は組織が解体され東京銀行→東京三菱銀行→三菱UFJ銀行と変遷)の社員。
生まれてすぐに安西はドイツに渡り、ハンブルクやベルリンを皮切りに、東京阿佐ヶ谷、神戸市、中国の天津や上海、旧満州の営口(えいこう)、青島(チンタオ)と父の赴任地を転々としながら育ちました。
幾度目かの日本へ戻り、1941(昭和16)年に横浜第一高等女学校(現在は県立平沼高校)の2学年に編入したときは、渋谷区代々木にあった当時の自宅から通ったといいます。
10代前後の多感な時期に戦前の中国大陸で過ごした記憶はのちに憧憬へと変わり、直木賞作品の「張少子(チャンシャオツ)の話」(1964年)や古代中国が舞台の「花あざ伝奇」(1966年)に代表される中国小説に結実し、作家デビューに至ります。
ただ、国内外を転々としながら育った経験は、同じ場所に落ち着いて住み続ける気持ちの乏しさにもつながったらしく、大倉山ではたまたま別の階に空きが見つかってマンション内での引っ越しが叶ったこともあって、転居の多い安西にとっては長期といえる十数年の在住となりました。
大倉山時代は、古典や戦国期に登場する女性を題材とした歴史小説をはじめ、恋愛や結婚、さらには大相撲やプロ野球、パチンコについてなど幅広いテーマで文章を書き、サービス精神旺盛で親しみやすい作品を多数書き残しています。
一方、19歳から生活を続けた夫との確執や離婚、苦しむ子どもとの関係など、自らの境遇を投影した1980年代の現代小説「累卵(るいらん)」(1985年)や「黒鳥」(1993年=収録作の半数は大倉山時代に執筆)には、書くことで救いを求める安西の姿が見え、心に訴えかけてくるものがあります。
大倉山から鎌倉へ移った後は、実家で母と同居した日々をヒントに“高齢者の恋愛や結婚”をテーマに創作した「花ある季節」(1990年)を刊行し、テレビドラマ化されて話題になりました。
67歳時に出版されたエッセー集「生きてきて、いま」(1995年)では大倉山以降の動静が分かり、実は大倉山時代も決して“一人暮らしの作家”ではなかった事実が明かされます。
数ある安西のどの作品から読むべきか。現在では入手しづらい書籍も多くなっており、図書館などで気になった本から手にすれば、その多くが読者の期待を裏切らない一冊に仕上がっているはずです。
遠藤雅子が記録した家族の危機
中薗英助や安西篤子ほど多作ではなく、小説家ともジャンルは異なりますが、1937(昭和12)年生まれのノンフィクション作家・遠藤雅子も10冊以上の書籍を執筆しています。
昭和50年代の初めごろから大倉山駅に近い師岡町のマンションに住み始め、居住から10年ほどを経た1983(昭和58)年の出来事を書き残したのが下記の作品です。
当直医の説明に言葉をはさむ余地はなかった。受話器を元に戻した後、わたしは時計に目を移した。三十分ばかりの時間がこの間に過ぎていた。
・しかし、咄嗟に夫を診てもらう近くの病院が思い浮かばない。わたしは電話帳を取り出し、横浜の港北区内にある一般病院と救急病院の名前をメモ用紙に書き写した。簡単に四、五軒の名前が分かった。けれど、どの病院に夫を連れて行けば良いのか、どの病院が夫の症状に相応しいのか、それが分からない。何を基準に病院を決めれば良いのか、予め心得ておくべきであったかも知れない。
(遠藤雅子「生命、ありがとう~劇症肝炎から生還した夫」)
遠藤雅子は20代後半に旅人としてオーストラリアに渡り、現地で商社駐在員をつとめていた遠藤明と結婚。駐在員の妻として計10年にわたって同地で暮らしました。
30代後半に日本へ戻り、緑区を経て師岡町に落ち着き、1980年代初頭にはオーストラリアに関する書籍を相次ぎ出版。ノンフィクション作家として飛躍しようとしていた矢先に夫が突然の難病に襲われます。
この危機を細かに記録し、1986(昭和61)年に刊行されたのがルポルタージュ「生命(いのち)、ありがとう~劇的肝炎から生還した夫」で、同年末にはテレビドラマになりました。
当初は風邪だと思って寝込んでいた夫がまったく目を覚まさず、のちに死亡率8割で治療法も確立されていないという肝炎ウイルスによる病だと突き止めるのですが、最初に右往左往している様子が上記の引用部分です。
同じマンションに住んでいた横浜市立大学の医師による初期のアドバイスや、夫が当時勤めていたソニーの協力、遠藤の行動力など後方支援も奏功して夫は命をつなぎとめます。
一連の出来事は、港北区のいち家庭に突如起こった危機として、区民なら特に作品を身近に感じられるのではないでしょうか。
作中には、遠藤が専門家のいる都内の大型病院を紹介されたものの、当時は横浜市の救急車が市外に出ることを避けていたことから119番にダイヤルするのをためらっている様子が記録されています。
入院が確約されているなど特段の理由があれば都内への搬送も行っており、遠藤はのちに港北消防署の救急隊に感謝する手紙を横浜市長に送っているのですが、先に紹介した中薗英助も妻の搬送先に都内の病院を告げたところ、救急隊が拒否の色をにじませる硬い表情だった、と作品に書き残していました。
都内と関わりの強い住民が多く住む港北区らしいエピソードを在住作家が作品に残していたことになります。
その後、難病から復活した夫の遠藤明はソニーが関与するフランス料理レストランの運営会社社長に転じ、テーブルマナーの著名講師としても活躍しながら、複数の著書を出版しています。
一方、遠藤雅子は2002(平成14)年に「赤いポピーは忘れない~横浜・もう一つの外人墓地」と題した渾身のルポを発表し、保土ヶ谷区にある“外人墓地”の墓石をきっかけに、太平洋戦争中にドイツの捕獲後に隠されたオーストラリア船の行方を調べ、同船の乗員乗客がなぜか日本で抑留されていた背景を丹念な現地取材で突き止めました。
また、2005(平成17)年の冬に発達障害を持つ競技者による世界的祭典「スペシャルオリンピックス」が長野県で開かれた際には、ソニーが協力していた縁から夫婦で事務局を支え、広報役を担った遠藤雅子は大会の意義と歴史をまとめた一冊を集英社新書に残しています。
建築家・隈研吾が育った大倉山
1954(昭和29)年に大倉山で生まれた建築家の隈研吾は、今年(2024年)8月現在で約50冊の著書や共著があり、その数を毎年増やしてきました。
現在の隈は「(新)国立競技場」や「(五代目)歌舞伎座」など日本を代表する建築物に携わった“大家(たいか)”と見られるようになっていますが、代表的な著作を読めば、こうした大型建築を志向し続ける「偉い建築家の先生」のイメージと異なることに気づかされます。
(略)僕の生まれた1954年は、20世紀を支配した「郊外化」という世界史的現象が、日本で吹き荒れる直前でした。マンションなんてものは一つもなくて、駅のすぐ脇から、田んぼと畑が始まっていました。
・僕の家は駅からわずか100メートルの、駅前といっていい距離感でしたが、農家がすぐ裏にあって、その庭先の土地を借りていました。
・大家さんであるこの農家のことを、僕は「ジュンコちゃんち」と、横浜弁で呼んでいました。大倉山の山裾に、農家が一列にずっと並んで、農家の前面に田畑が広がっていました。典型的な里山の風景です。
・ジュンコちゃんち姉妹とは、年が近かったので、しょっちゅう遊びに行っていましたが、この家が境界人の僕にとっては、実に魅力的で、神話的ですらありました。そこで農業という生産行為が行われていて、生き物がいて、生命が具体的にザワザワと循環していて、大地とつながっていたからです。
・二軒しか離れていなかったのに、僕の家や、そのまわりのサラリーマンの住宅は「郊外住宅」で、そこには生命の循環は感じられませんでした。僕の家も含めて、みんな「死んだ家」のように感じました。
(隈研吾「僕の場所」)
隈が生まれ育った地と真正面から向き合った著作が2014(平成26)年に発表された「僕の場所」で、幼少期の生活がのちの“建築家・隈研吾”にどのような影響を与えたのかを知ることができる重要な一冊です。
引用部にあるように、昭和30年代前半の大倉山はまだ“里山の風景”と、隈が独特の言葉で表現する“郊外の死んだような家”が混在している時代でした。
大倉山では、昔からの農家が並んでいた山裾以外で、水害の心配が少なく宅地化できそうな駅近くの丘(通称「観音山」)は、昭和初頭に東急(当時は東京横浜電鉄など)が大倉精神文化研究所に売却しています。
日吉や綱島、菊名・妙蓮寺エリアのような東急主導の大規模宅地開発を回避できたことは、里山の環境を比較的長く残す結果につながったのかもしれません。
隈一家が住んだ駅近くの家は、土いじりが好きだった祖父が畑をつくるために“ジュンコちゃんち”から戦前に借りていた土地。そこに建てた小屋を住宅として使ったもので、分譲地ではありませんでした。
隈いわく「暗くてボロボロの、壊れかけた木造の平屋」でしたが、そこでは家族で増築計画を練って父とともに作業し、ザラザラとした畳の上では積み木で遊び、裏山には防空壕とザリガニが釣れる深い孔(あな)が残り、斜面には竹やぶが生い茂っていました。こうした幼少期に見た風景や経験はのちの建築に生かされることになります。
一つの例を挙げると、隈が海外で仕事を広げる契機となったのは、中国の北京郊外で万里の長城近くに作った「竹の家」(2002年)が高く評価されたことでしたが、竹に興味を持ったきっかけは「子供の頃の遊び場だった裏山の、あの竹林のせいかもしれない」(2008年「自然な建築」)と振り返っています。
また、隈が設計事務所を構えて間もない頃の代表作で、“脱衣所みたいな家”というコンセプトで作られた「伊豆の風呂小屋」(1988年)は2階建てと平屋との違いはありますが、どこか大倉山の家の面影を感じさせます。
「僕の場所」を読むことで隈の建築物と地元の関わりを見つけ出す手がかりとなり、大倉山住民ならではの鑑賞の楽しさが得られるはずです。
隈研吾のどの著作を読むべきか
数ある隈の著作で「僕の場所」以外に何を読むべきか、手に取る際の参考に主要書籍を紹介します。
隈の歩みと考え方を知るなら近年刊行された「ひとの住処~1964-2020」(2020年新潮文庫)や「建築家になりたい君へ」(2021年河出書房新社)が分かりやすく、エッセー的な「建築家、走る」(2013年新潮社、2016年新潮文庫)も読みやすい一冊。
大倉山時代を含めて率直な思いが語られているこれらの書籍からは“偉い建築家の先生”というイメージと異なることを教えられるのではないでしょうか。
特に中学生の読者を想定して書かれた“建築家になりたい君へ”は建築家・隈研吾の人生と思想を凝縮し、もっとも新しい世代へ伝えようとしている点で一読の価値があります。
2008(平成20)年の「新都市論TOKYO」(集英社新書)から断続的に続く清野由美(ジャーナリスト)との街歩き分析シリーズで、最新作となる「変われ!東京~自由で、ゆるくて、閉じない都市」(2020年集英社新書)では、都市と社会に対する隈の“檄文”に驚かされます。
2016(平成28)年の「なぜぼくが新国立競技場をつくるのか」(日経BP社)はタイトル通りの内容が詰まった単行本ですが、さまざまな批判を受けたことに対する辛い思いを最後に一瞬だけ吐露しているのがめずらしく、国家的なプロジェクトを担った重圧と苦労が伝わってきます。
建築に興味を持つなら、歴史と基礎を学べる「新・建築入門~思想と歴史」(1994年ちくま新書、2022年ちくま学芸文庫)や「日本の建築」(2023年岩波新書)は入門書として役立つでしょう。
隈ならではの建築思想に触れられる「反オブジェクト~建築を溶かし、砕く」(2000年筑摩書房、2009年ちくま学芸文庫)や「負ける建築」(2004年岩波書店、2019年岩波現代文庫)、「自然な建築」(2008年岩波新書)、「小さな建築」(2013年岩波新書)といった一連の新書・文庫もあわせてチェックしておきたいところ。
隈が32歳時に発表した著書デビュー作「10宅論~10種類の日本人が住む10種類の住宅」(1986年トーソー出版、1990年ちくま文庫)は一読すると、自分はさておき思わず知人の家などを分類して当てはめてみたくなり、出版から38年を経た今でも十分楽しめる一冊。中国でも翻訳されて好評を得ているようですが、日本で手に入りづらくなっているのは残念です。
※参考:横浜日吉新聞で2022年9月12日に掲載した「隈研吾さんが『港北地域学』で講演、古里と建築のつながりを語る」では当日の内容を収録しています。また、隈研吾建築都市設計事務所の公式サイト内には全著作の紹介ページがあります
俳人夫妻と70年続いた俳句誌「あざみ」
ここまで2人の作家とノンフィクション作家、地元生まれの建築家の4人を紹介してきましたが、加えて記憶に残しておきたいのは大倉山で長年活動を続けた俳人で、1913(大正2)年生まれの河野南畦(こうのなんけい)と、1922(大正11)年生まれの河野多希女(たきじょ)です。
同じ師に入門していた2人が結婚し、南畦が師の系統を継いだ新たな俳句結社「あざみ」を磯子の地で立ち上げ、同名の俳句誌を創刊したのは1946(昭和21)年3月のこと。
戦後の紙不足やGHQ(連合国軍総司令部)の検閲で一部修正を命じられるなど苦労を重ねながらも発行にこぎつけ、全国で5000部を完売したといいます。
俳人夫妻が大倉山へ転居してきたのは1961(昭和36)年5月。先ほど紹介した隈研吾宅とは目と鼻の先という場所で5年ほど暮らしました。
今ほど人口が多くなかった当時、普段は大手銀行につとめるサラリーマンだった俳人の姿を、小学生時代の隈研吾が“近所のおじさん”として目にしていたのではないか、などと想像してしまいます。
- 森の緑がとどく近さの雨の日曜(1961年、河野南畦)
自宅は大倉山駅からほど近い場所なのに、俳句に読むほど野趣にあふれている、当時はそんな環境でした。
5年後の1966(昭和41)年には現在の大綱小学校に近い大倉山3丁目に移り、この地で「あざみ」を運営し、俳句誌の定期刊行も続けられます。
- 梅白む吹かれし脚は重ねしまま(1968年、河野多希女)
こちらは1968(昭和43)年に多希女が読んだ句です。多希女も11冊の句集があり、朝日新聞社から俳句鑑賞のエッセーも出版している俳人。大倉山梅園に夫・南畦と出かけるも、この頃の南畦は身体の自由がきかなくなりつつあったことを作品を通じ伝えています。
無数の作品を世におくり出し、主宰者として「あざみ」を率いてきた南畦は1995(平成7)年に亡くなりますが、多希女が主宰者を継いで運営が続けられることになりました。
2006(平成18)年に高齢となった多希女に代わり、三代目の主宰者に就いたのが河野薫。慶應大学時代から「俳句研究会」で作品を発表し、2004(平成16)年に出版した自身初の句集に「大倉山」と名付けた俳人です。
- 梅の香や背に見し抒情亡父(ちち)・母に(2004年、河野薫「句集 大倉山」)
長男として、俳人の両親が守ってきた結社と俳句誌を受け継ぎ、十数年にわたって運営を続けてきましたが、72年・833回におよぶ「あざみ」の刊行は2018(平成30)年5月号を最後に終えました。
俳句誌「あざみ」の一部は横浜市立図書館が所蔵し、古い号を中心に国会図書館デジタルでも公開されており、大倉山での60年以上にわたる親子二代の活動と作品を振り返ることができます。
※参考:河野南畦と河野多希女、河野薫については、「わがまち港北2」(平井誠二・林宏美、2014年)の「第171回 春の訪れ~河野南畦さんと大倉山・綱島」で地元との関係などが詳しく触れられています
磯野庸幸と関東大震災時の大豆戸町
ここからは大倉山とその周辺で過ごした4人の著名人と著書を磯野庸幸(つねゆき)、大倉邦彦、赤地友哉(あかじゆうさい)、梅宮アンナの順で紹介します。
最初は明治期の大豆戸町で生まれた磯野庸幸です。
上郎、村田をはじめその他横浜の親戚の者は皆、大豆戸の家を頼って避難してきたのでその数は四十人を超していた。
・余震は間断なく続いた。情報もまったくとだえ、人々は不安の時を過ごした。こうなると決まって流れるのはいろいろなうわさである。吉田の家では庭に仮り小屋を建て、蔵から刀をとり出し、男たちはそれを腰にさし、竹ヤリを備えて日夜寝ずの警戒を続けた。
(略)
・こうした大人たちの心配や不安をよそに子供たちは田んぼのイナゴとりなどに興じ、親類の子供同士仲がよかった。田んぼのずっと向こうにそびえるいつも変らぬ富士山の姿が、いらついた人々の心をなごませてくれた。
※上郎=上郎清助(こうろせいすけ、吉田吾山の二男で磯野庸幸の次兄、のちに貴族院議員)らとみられる。「村田」は不明、4人いた姉の嫁ぎ先か
(磯野庸幸「我が人生~歩み続けて百年」)
磯野庸幸(つねゆき、もしくはようこう)は、現在の港北区役所に近い大豆戸町の出身で、1981(昭和56)年に102歳で亡くなるまで明治から昭和の3つの時代を横浜正金銀行員・実業家・政治家として生き、100歳を迎える年に神奈川新聞社から自叙伝「我が人生~歩み続けて百年」(1978年)を出版しています。
現在は富士食品工業が置かれている周辺で古くから暮らし、醤油醸造を営んでいた“堀上(ほりあげ)吉田家”で、庸幸は14代目とされる吉田吾山(吉田三郎兵衛)を父として1878(明治11)年に誕生。
結婚を機に伊勢佐木町で歌舞伎小屋「蔦座」を経営していた磯野家へ入ったため、苗字が変わっています。
上記の引用は45歳時に関東大震災(1923年9月1日)で被災し、市内中心部から大豆戸町の実家へ避難した際の様子を振り返ったもの。
堀上吉田家は庸幸の長兄である徳次郎(のちの15代吉田三郎兵衛)が継いでおり、庸幸から見て2人の兄や4人いた姉の家族らが一同に集まって避難生活をおくったようです。
震災後の火災で焦土と化した横浜中心部と比べ、まだ大倉山駅もなく数えるほどの農家が点在するだけだった大豆戸町では被害が比較的軽かったとみられる一方、刀や竹やりで武装して警戒したというあたりに、震災後の不安が郊外の農村部にもまん延していたことがうかがえます。
自叙伝では、幼少期は近くに小学校がなく篠原町の篠原学校(後に「大綱村立尋常第一大綱小学校」=現在の篠原北1丁目、富士塚2丁目と錦が丘の境目付近にあった)まで通ったことや、大豆戸町の実家付近が変化していく様子なども振り返っており、大正期の横浜中心部風景や日露戦争への出征といった話を含め、郷土資料としても価値のある一冊です。
※参考:堀上吉田家が醤油醸造を営んでいた話は、2024年4月12日に新横浜新聞で掲載した記事「大豆戸町にシニア向け複合施設が完成、医療・介護・住宅や交流カフェも」のなかでも触れています
大倉邦彦の伝記に意外なエピソード
磯野庸幸より4歳下で、ほぼ同時代を生きたのが大倉精神文化研究所の創設者・実業家の大倉邦彦(1882年~1971年)です。
太尾町に大倉山という駅名や地名をもたらすに至った“大倉山の元祖”といえる存在ですが、「大倉山記念館を建てた実業家」ということは広く知られていても、どういう人物かについての理解度合いは地元でもさまざまです。
大倉は自らの考えや思想については講演や著書などで多く残した一方、自身の歩みを伝記などとして記録することを好まなかったと言われています。
それでも、没後二十年超を経た1992(平成4)年には、大倉精神文化研究所が生前の大倉を知る関係者から膨大な原稿と資料を集める形で「大倉邦彦伝」を編み、世に発表しました。
重量約1.6キロ、計1050ページ超におよぶ本書は気軽に読める伝記とはいえませんが、幅広い関係者が寄稿したことで、研究者に限らず実業界も含めてさまざまな立場から見た話と資料が集まっており、大倉の人間像に迫っていく楽しさがあります。
伝記から見つかったユニークなエピソードの一例を挙げると、次のような内容です。
- 大倉は大倉山の「そば店」からの出前を好み、同店が定休日で用事がない場合は研究所に来なかったといい、定休日にどうしても研究所へ行かなければならない時には夫人手づくりの弁当を持参するも、その中身も「そば」だったとか。食すスピードもまわりが驚くくらいに速かったといいます。
- 柔道や剣道といった日本の武道を愛する大倉は、野球やテニスといった球技には馴染めなかったらしく、研究所のテニスコートは主に所員が愛用していましたが、弓道場などの建物を建てるために壊すことになった際、所員が躊躇(ちゅうちょ)するなか、大倉が有無を言わさず最初の鍬を入れたとか。
- 元所員でのちに土地会社を営んだ実業家は、大倉から“日本の地形上から下流の河口にある都市は必ず平均に十年に一度は大量の土砂が流れ込んで捨て場に困るので、今のうちに沼地を買っておくといい”というアドバイスを受け、借金して実際に買っておいたところ5年後には現実となり、買値の5倍から10倍で売れたという思い出を明かしていました。
伝記では大倉の思想で中核を成す「宇宙心」について、「宗派は、単なる衣にすぎず、その内容はただ一つであり、宇宙心以外にはないのであるから、いずれの宗派から入ってもいつでも最後には、宇宙心に辿りつく」という大倉が好んだ例え話を紹介するなどして解説を試みようとしていますが、経験の長い所員でさえ真意を平易な文章で説明することは困難だったようで、苦闘した様子が文中からも伝わってきます。
大倉が研究と実践の場として、精神文化研究所を創設してまで普及を試みたのは、思想の難解さと奥深さが理由の一つにあったのかもしれません。
2021年には伝記をもとに「マンガで学ぶ 大倉邦彦物語~社会のために尽くした実践躬行(じっせんきゅうこう)の人」が発行されました。
漫画版では、生まれた佐賀県での幼少期や、中国・上海にあった戦前の大学「東亜同文書院」を経て、大倉洋紙店の婿養子として事業を大きく発展させつつも、肉親の相次ぐ死と離婚に直面し、教育者となっていくまでの過程が描かれており、こうした歩みを知ったうえで、超大作の「伝記」に挑むと理解がより深まるはずです。
※参考:2021年12月27日に新横浜新聞が掲載した記事「情熱家が歩んだ大河のような90年、大倉山の元祖をマンガ伝記に凝縮」では「マンガで学ぶ 大倉邦彦物語」を紹介しています。また、略歴は大倉精神文化研究所の公式サイト内に掲載されています
人間国宝となった漆芸家・赤地友哉
大倉山には「漆器」をつくる著名作家も住んでいました。1974(昭和49)年に“人間国宝”として国から認定された漆芸(しつげい)家の赤地友哉(あかじゆうさい、1906年~1984年)です。
赤地は、檜(ひのき)や杉などの木を薄く切って輪状に巻き付け、何重にも組み合わせて器をつくる「曲輪造(まげわづくり)」の第一人者と言われています。
大倉山に住んでいた68歳の時には、器に漆(うるし)を塗る技術「髹漆(きゅうしつ)」で人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定されました。日本の漆芸家を代表する一人です。
石川県の金沢で生まれた赤地は、16歳で地元の塗師(ぬし=漆芸家)に弟子入りして漆塗りを学び、22歳で上京。結婚後は現在でいう渋谷区広尾に一家で長く住んでいました。
漆芸家として評価が高まりつつあった57歳時の1963(昭和38)年、今の住所でいえば大倉山6丁目の太尾堤緑道に近い場所に転居します。
大倉山では78歳で亡くなるまで20年超にわたって暮らし、芸術選奨文部大臣賞を受賞した「曲輪造平棗(まげわづくりひらなつめ)」(1966年)などの作品を生み出しました。
かつて日吉を拠点に発行していた地元雑誌「とうよこ沿線」が1980(昭和55)年7月号に掲載した「有名人沿線人物地図」には、在住18年を経た赤地が「東横線の乗客は心地がいい。人品よし、マナー良し、だ。だから、東横線に乗るとホッとするねえ」というコメントを寄せており、沿線をかなり気に入っていた様子が伺えます。
赤地の代表的な作品は現在も国立工芸館などが所蔵していますが、自らが歩みや作品について語った文章や書籍類はほとんど残されておらず、唯一といえる一冊が1979(昭和54)年に講談社が発行したガイドブック的な「人間国宝シリーズ23~赤地友哉」(岡田譲編)です。
同書では、東京国立近代美術の元館長で美術評論家の岡田譲が編集者となり、赤地の作品を解説するとともに、大倉山の自宅内とみられる仕事場で作品を制作するまでの工程を写真で紹介。
曲輪の素材と道具類に囲まれた狭い畳の部屋にあぐらをかき、50におよぶ工程を黙々と一人でこなしていく赤地の姿は、人間国宝がどのように作品をつくっていたかを知る貴重な記録となっています。
※参考:赤地友哉の代表的な作品の画像は、日本工芸会の公式サイト内や独立行政法人国立美術館の所蔵作品検索システムに掲載されています。また国立工芸館は1961(昭和36)年の作品「曲輪造彩漆鉢(まげわづくりさいしつはち)」を解説する動画も公開しています
東横学園大倉山高に通った梅宮アンナ
大倉山編の最後に登場するのは1972(昭和47)年生まれの梅宮アンナです。現在もモデル・タレントとして活動する梅宮は、かつて大倉山1丁目にあった女子高「東横学園大倉山高等学校」(2008年4月閉校、校舎解体後はマンション「インプレスト大倉山」に)を卒業しています。
梅宮アンナは、昭和の著名俳優・梅宮辰夫(1938年~2019年)の一人娘であることや、1990年代半ばの20代前半から10歳年上のタレントと交際し、父の辰夫がそれを反対する姿勢を示したこともあって、テレビや雑誌の“芸能ニュース”が連日取り上げ、その名が広く知れわたることになりました。
そうした騒動も一段落した30代直前の2001(平成13)年、自らの歩みを振り返るエッセーとして出版されたのが「『みにくいあひるの子』だった私」です。
よし、私は東横学園大倉山校に入って、あの制服を着るんだ!
・十六歳といえば、一般的にはまだ学校に通っている年代。惰性で塾通いは続けていたけれど、渋谷の街を歩くたびに、あれほどいやだった女子高生の制服がやたら気になるようになった。
(略)
・全国的に見れば、横浜も大きな都会だけど、生まれたときから渋谷の周辺しか知らず、小・中学校があった目白ですら、寂しいところという印象があった。横浜の中心から離れた東急東横線の大倉山は、とんでもない田舎に思えた。
・それがいやだったのではなく、私の目にはむしろ新鮮に映った。
(略)
・学校は山の上にあり、かなりの急坂をのぼっていかなければならない。雪が積もると歩けなくなるから、学校が休みなる。私はこれも気に入った。
・学校の環境も、前の学校とは正反対、生徒の中には、ヤンキーもいれば、優等生もいるし、いろいろな人がいて、それが日本の平均的な高校の姿だったと思う。先生と生徒の距離もぐっと近い。
(略)
・自分の意思で選び、自分なりに努力して入った学校だから、よけいに心地よく感じたということはあるかもしれないけど、とにかく大倉山は別天地だった。
(梅宮アンナ「『みにくいあひるの子』だった私」)
梅宮は、豊島区目白にある小・中・高・大の一貫校へ小学校から通っていたものの学校には馴染めなかったらしく、中学卒業時には恨みと決別を示すためか制服を切り刻んだといい、上の高校へは進学しないことを決めています。
卒業後は語学学校に通ったり、学習塾へ通ったりと本人いわく“プータロー生活”を続けるなかで、東横学園の制服に出会い、自ら進んで猛勉強して大倉山高校を受験。同級生とは1年遅れの高校生活を始めることになりました。
東横学園は東急グループが関与する学校法人が運営し、梅宮が受験した1990年代は、世田谷区の東横学園高校(通称等々力校、現在は共学の「東京都市大学等々力高校」)と東横学園大倉山高校(通称大倉山校)の2つの女子高を持ち、“大倉山校”はもともと、1940(昭和15)年に開校した「大倉山女学校(のちに大倉山高等女学校)」と戦後に合併して誕生したものです。
平成が始まって間もない1990年代初頭の大倉山は、かなり市街地化していたはずですが、学校の場所が綱島街道沿いで師岡町寄りの丘の上という環境もあるのか、渋谷で生まれ育った梅宮には“とんでもない田舎”に見え、それが新鮮だったようです。親が敷いたレールから初めて離れた解放感もあったのでしょう。
全校生徒あわせても500人前後しかいなかった東横学園大倉山高校は、アットホームな雰囲気があり、梅宮には居心地の良い学校だったらしく、本書内に同級生との写真を掲載するなど楽しそうに思い出話を綴っています。
東横学園大倉山高校の年譜には、梅宮辰夫が文化祭で講演したという記録も残っており、当時の生徒の親世代を大いに喜ばせたはずです。
“大倉山”の名が付けられた唯一の学校が閉校してから15年以上が経ち、今ではフィクションの世界で「大倉山小学校」(池井戸潤「ノーサイド・ゲーム」)とか、「大倉高等女学校」(古市憲寿「ヒノマル」=前編で紹介)とか、「大倉山高等女学校」(小林尽「夏のあらし」=前編で紹介)といった形で使われるようになっています。
1990年代に東横学園大倉山高校へ通った梅宮の思い出話は、リアルな記憶の一つとして、今では地元でも懐かしさを感じるのではないでしょうか。
※参考:戦前の「大倉山高等女学校」が「東横学園大倉山高等学校」に変わった経緯については、「わがまち港北2」(平井誠二・林宏美、2014年)の「第142回 舞台は大倉山高等女学校~高野平の物語」に掲載されています。東横学園大倉山高等学校の思い出を記録したブログ「校長日記<嗚呼大倉山五十年>東横学園大倉山高等学校」も貴重な記録です
紹介した10人中5人が中国に関わる
後編では大倉山に住んだり通ったりした10人の作家や俳人、建築家、芸術家、著名人などを紹介してきましたが、“大倉山関係者”という以外に一つだけ共通項が見られたのは「中国」というキーワードです。
- 磯野庸幸(実業家・政治家):日露戦争時に中国東北部へ出征
- 大倉邦彦(実業家・精神文化研究所創設者):明治期に中国・上海の大学へ通う
- 中薗英助(作家):太平洋戦争敗戦前に北京で邦字(日本語)新聞の記者をつとめる
- 安西篤子(作家):太平洋戦争敗戦前に父親の転勤で天津や上海、青島など中国国内を転々
- 隈研吾(建築家):2000年代に中国・北京郊外で建てた作品が高い評価を受ける
終戦前までは日本が中国大陸で影響力を行使していた歴史的背景が大きいとはいえ、のちに戦後生まれの隈研吾も関わっています。これは単なる偶然なのか、大倉山と何らかの関係があるのか無いのかは、見つけられていません。
また、今回紹介した10人以外で、終戦後に「巣鴨プリズン」で過ごすことになった日々を「泣き笑いスガモ日記」(1953年)や「マンガで綴るスガモプリズンとGI」(1994年)というタイトルで出版した1921(大正10)年生まれの藤木二三男(ふみお)が大倉山で暮らしていた形跡は見つかったのですが、確証が取れず、紹介はできませんでした。
引用・参照した書誌の詳細
(※)書誌詳細やリンク先は2024年9月時点のものです。
- ギリシア通りは夢夢(ほうぼう)と(中薗英助):初出「群像」1998(平成10)年3月号、同2000(平成12)年3月号など、2000(平成12)年講談社(単行本)。本稿は2000(平成12)年6月発行の講談社(単行本)第1刷を引用した【出版社品切れ/横浜市図書館貸出有/大倉精神文化研究所附属図書館貸出有】
- 榎本武揚シベリア外伝(中薗英助):初出「別冊文藝春秋」1997(平成9)年冬号(218号)~2000(平成12)年冬号(230号)(219号、228号除く)、2000(平成12)年文藝春秋(単行本)。本稿は文藝春秋(単行本)の2000(平成12)年5月発行の第一刷を参照した【出版社在庫不明/横浜市図書館貸出有・港北図書館所蔵】
- 変化する街(安西篤子):初出1986(昭和61)年掲載誌紙不明、1988(昭和63)年読売新聞社「歴史のいたずら」(単行本)所収。本稿は読売新聞社「歴史のいたずら」(単行本)の1988(昭和63)年3月発行第一刷を引用した【出版社在庫不明/横浜市図書館貸出有/大倉精神文化研究所附属図書館貸出有】
- 生命、ありがとう~劇症肝炎から生還した夫(遠藤雅子):1986(昭和61)年新潮社(単行本)。本稿は新潮社(単行本)の1986(昭和61)年9月発行の5刷を引用した【出版社在庫不明/横浜市図書館貸出有】
- 僕の場所(隈研吾):2014(平成26)年大和書房(単行本)。本稿は大和書房(単行本)の2014(平成26)年4月発行第1刷を引用した【出版社ほか入手可能・デジタル版あり/横浜市図書館貸出有・港北図書館所蔵/大倉精神文化研究所附属図書館貸出有】
- 俳句誌「あざみ」(あざみ社):1946(昭和21)年3月(創刊号)~2018(平成30)年5月号(最終号)(通巻第833号)【出版社入手不可/横浜市図書館(1963年~1988年の一部/その他の号は「あざみ編集部」で要検索)貸出有/国会図書館デジタル公開(1946年~2000年の一部)】
- 我が人生~歩み続けて百年(磯野庸幸):1976(昭和51)年7月~11月神奈川新聞「わが人生」連載、1978(昭和53)年神奈川新聞社(単行本)。本稿は神奈川新聞社(単行本)の1978(昭和53)年1月発行版を引用した【出版社入手不可/横浜市中央図書館館内閲覧のみ】
- 大倉邦彦伝(財団法人大倉精神文化研究所):1992(平成4)年大倉精神文化研究所(非売品)。本稿は大倉精神文化研究所(非売品)の1992(平成4)年3月発行版を参照した【出版者入手不可/横浜市図書館貸出有・港北図書館所蔵/大倉精神文化研究所附属図書館貸出有】
- 人間国宝シリーズ23~赤地友哉(岡田譲編):1979(昭和54)年講談社(単行本)。本稿は講談社(単行本)の1979(昭和54)年11月発行の第1刷を引用した【出版社入手不可/横浜市図書館貸出有/国会図書館デジタル公開】
- 「みにくいあひるの子」だった私(梅宮アンナ):2001(平成13)年講談社(単行本)。本稿は講談社(単行本)の2001(平成13)年3月発行第三刷を引用した【出版社ほか入手可能・デジタル版あり/横浜市図書館貸出有】
(※)この記事は「横浜日吉新聞」「新横浜新聞~しんよこ新聞」の共通記事です
【関連記事】
・<港北舞台の文芸作品3>愛と悲劇と女性の舞台に選ばれた「大倉山」(前編)(2024年8月26日)
・連載「港北が舞台の文芸作品」の一覧(2024年6月~)