43年前、人間国宝によってデザインされた港北公会堂の「緞帳(どんちょう)」が持つ価値や地域と結ばれた糸を再び確認できる機会となりました。
日本を代表する染色作家・芹沢銈介(せりざわけいすけ)氏(1895~1984年)がデザインした緞帳をテーマに研究活動を続けてきた区民グループ「芹沢銈介緞帳プロジェクト」は、今週(2021年)12月12日(日)にイベント「芹沢銈介~知られざる港北の宝」を港北公会堂で開き、4点ある緞帳下絵など関連作品の展示と、3氏による講演を通じ、同公会堂の緞帳と地域のつながりをあらためて示しました。
イベントでは、芹沢銈介氏が技法を生み出した「型絵染(かたえぞめ)」を体験できるワークショップを行うとともに、舞台上では「釈迦十大弟子尊像」や「型絵染彩色仏画」、「梵字二題(阿・吽)」といった芹沢氏の作品17点を展示。
さらに緞帳の「下絵」4点と、モチーフとなった「鶴見川流域絵図」もそれぞれ公開され、1984(昭和59)年の映画作品「芹沢銈介の美の世界」も上映されています。
83歳時の作品「力は衰えていない」
午後から始まった講演では、芹沢作品を多く所蔵する日本民藝館(目黒区)の学芸員・村上豊隆さんが「染色家・芹沢銈介の人と仕事」との演題で登壇。
村上さんは祖父母が港北区大曽根に住んでいた縁があり、「生まれた時から毎年のように訪れ、正月の初もうでは師岡熊野神社へ行っていた。祖父母が亡くなった後にしばらく住んでいたこともある」といい、「それだけに公会堂の緞帳を知っていただく機会がないものかと思っていた。今回のイベントは我が事のように嬉しい」とあいさつ。
緞帳については、「61歳で人間国宝となった芹沢だが、公会堂の緞帳は83歳時の作品で、88歳で亡くなっているため、まさに晩年の作といえる」と紹介し、「さわやかでのびのびとした明るい作品で、多くの人を魅了した。晩年の仕事ではあったが、生涯にわたって意識と力が衰えていないということが、緞帳からも分かるのではないか」と解説。
「芹沢の仕事は常にごまかしのない彼自身の“正しさ”を目指していた。緞帳もそうした仕事の結晶だ。今回、あらためて地元の方々が『陽に萌える丘』を大事にしたい、という思いが結実した日となった。港北区のシンボルとして大切に緞帳を守っていただければ」とメッセージをおくりました。
なぜ鶴見川の下絵が選ばれたか?
続いて登壇した大倉精神文化研究所理事長の平井誠二さんは、緞帳の下絵について、208年前の江戸時代・1803(享和3)年9月に作成され、綱島東の池谷(いけのや)家が保管し続けてきた「鶴見川流域絵図」をモチーフにしていることから、同絵図と緞帳下絵との関係を考察しました。
芹沢氏は1976(昭和51)年に港北区役所が発行した昔話集「港北百話」に転載された絵図を参照したと言われており、平井さんは「緞帳のほうが形が横長で縦横の比率が異なり、描かれている範囲が微妙に違う。芸術作品として流域絵図をモチーフにしているが、模写をしているわけではないことが分かる」と説明。
緞帳のデザインに合わせて川の名を書き込んでみると、流域絵図と同じように矢上、早渕、鳥山、折本、砂田と各支流も描かれており、「緞帳が港北区域の地図になっていることが分かる。今の私たちが使っている地図と同じ向きだ。緞帳の下絵は、流域絵図がもとになっているのが明らかになった」と述べました。
一方、緞帳の下絵をデザインした当時の芹沢氏は大田区蒲田に住んでおり、「実際に港北区を見て回ったということは無かったようだが、もし(綱島東の)池谷家で実際に『鶴見川流域絵図』を見ていたら、どんな作品を作っていたのだろうか」との想像を披露。
加えて「(当時の池谷家当主だった)池谷光朗さんは、多数の農具や民具を収集していたので、民芸品のコレクターとしても名高い芹沢氏が池谷家へ来て、農具・民具を見ていたらとても喜び、芸術的な感性を刺激されたのではないか。こんなことを想像するとワクワクする」と話しました。
また、「鶴見川」や「遺跡」(当時は港北区内だった現都筑区の「大塚遺跡」がモチーフ)、「土器」と「柳」(2点はモチーフ不明)という4つの下絵が提示されたなかで、鶴見川が選ばれたことについては、「港北区で起きていた直近の大きな水害が(公会堂が開館する2年前の)1976(昭和51)年で、区民にとって水害はリアルタイムで体験している現実だった。過去でありながら“今”も描かれている鶴見川が選ばれたのではないか」と考察。
そのうえで、「緞帳には古代から港北に住んでいる人々の歴史や思い、団結といったものが描かれている。中身の面からも港北の宝だ」と力を込めていました。
人間国宝に依頼するまでの秘話
公会堂の緞帳デザインを芹沢氏に依頼したのは、江戸時代から続く下田町の旧家・田邊(たなべ)家で12代当主だった田邊泰孝(やすたか)さん(1921~2013年)でした。講演にはその孫で、現在は「日吉の森庭園美術館」の学芸員をつとめる田邊陵光(たかみつ)さんが登壇しています。
田邊さんは、「港北公会堂が開館した1978(昭和53)年は自分はまだ8歳だったので、実はあまり覚えていない。祖父が亡くなる前に自叙伝『陰徳(いんとく)積めば陽報(ようほう)あり』を出版しており、このなかから当時のいきさつを紹介したい」として、泰孝さんが緞帳デザインを依頼するまでの経緯を振り返りました。
これによると、当時、港北区消防団の団長をつとめていた泰孝さんは、区助役との雑談からオープンを控えた公会堂の緞帳制作が暗礁に乗り上げていることを知り、自身が入会していた日本民藝協会でつながりのあったアジア民俗学者の金子量重(かずしげ)さんに「芹沢先生にデザインをお願いできないか」と相談。
金子さんからは「本気でやってほしいのなら『こんなものが良い』というアイデアを持ってきなさい」と、デザインのたたき台となる図案を考えるよう言われたといいます。
そこで文献や資料を片っ端から調べた末に泰孝さんがたどり着いたのは、1976(昭和51)年に出版されていた「港北百話」の鶴見川流域絵図。「これなら公会堂にふさわしい」と提示したところ、芹沢氏側からは「何とかやってみよう」という返答でした。
芹沢氏が提示した条件は、費用はキャッシュ払いの“言い値”にすることと、緞帳の織りは京都の名門・川島織物に委託することの2点。川島織物(現・川島織物セルコン)は宮内庁の仕事も受ける「名門中の名門」(泰孝さん)であり、港北区が直接依頼した際には一度断られていたものの、芹沢氏の指名には断ることができなかったといいます。
ちなみに芹沢氏への依頼料は「当時の行政が何とかしたので金額は分からない」といい、下絵の依頼料は泰孝さんが負担したとのことです。
芹沢氏が二晩徹夜して仕上げたという下絵4点から、鶴見川をモチーフにした「陽に萌える丘」を選択。下絵に芹沢氏のサインを依頼したものの一度は断られたため、「緞帳の上下左右が分かるように」と理屈を付けて泰孝さんが重ねて頼み込み、「せ」の字を書きこんでもらったとのことで、この字は今でも緞帳の右下に残されています。
落成式が10月8日に迫るなか、当時の續橋(つづきはし)一男区長(1978年2月~79年6月)や助役らとともに奔走し、落成式の5日前に公会堂へ緞帳を搬入。「取り付けると一気に格調高い華やかさに包まれ、区長も大満足だった」と書き残しています。講演で孫の陵光さんは「文面から見てもうれしそうな雰囲気が伝わってくる」と振り返りました。
芹沢夫妻も出席して公会堂の落成祝賀会が行われ、芹沢氏との間を取り持った金子量重(かずしげ)さんが除幕式の後に下記のような緞帳の解説文章を配ったといい、これを朗読しました。
(略)この下絵は、港北を育ててきた祖先の努力と実り豊かな土壌の上にすこやかに伸びゆく、明日の姿を表現したものであります。太くたくましい川の流れは、燦然と降り注ぐ太陽の光に七色に輝き、それを囲む丘には、美しい花が咲き乱れております。力強い線と豊かな色彩で描かれたこの緞帳の模様こそ、永久に栄える港北区の象徴として、輝き続けることでしょう。
43年前のいきさつを紹介した陵光さんは、「祖父をはじめ当時の人たちが思い描いていたような港北区になっているのだろうか、とたまに思う。今、どういう思いなのか聞いてみたい」と感想を漏らし、「緞帳は街のシンボルとして、誇りに思っていただければ」と述べて講演を締めくくりました。
2度の延期を経ての開催実現に感謝
イベントを主催した「芹沢銈介緞帳プロジェクト」で代表をつとめる大野玲子さんは、「なぜ港北公会堂の緞帳に人間国宝の芹沢銈介さんが関わることになったのか、そうした素朴な疑問から活動が始まった」といい、「緞帳と地域との関わりをもっと多くの方に知っていただければ、との思いが今日のイベントに結び付いている。相次ぐ延期で3度目のトライとなったが、辛抱強くお付き合いいただき感謝している」と話します。
43年後の現在では、“知る人ぞ知る”という存在になっていた港北公会堂の緞帳。新型コロナウイルス禍という予想外の困難に見舞われながらも粘り強く待ち続け、イベントを通じて緞帳の価値を広く共有できたことで、緞帳と地域とのつながりは、今後も区民の間に生き続けることになりそうです。
【関連記事】
・人間国宝が残した“鶴見川の緞帳”、12/12(日)に公会堂で「知られざる港北の宝」(2021年12月3日、イベント開催前の告知記事)
【参考リンク】
・2021年2月の『楽遊学(らくゆうがく)』は芹沢銈介「緞帳プロジェクト」の特集です(港北区連合町内会、2021年2月25日、同プロジェクトの詳細を掲載)
・芹沢銈介緞帳プロジェクトの公式サイト(12月12日のイベント紹介)