【法人サポーター会員による提供記事です】きょう(2021年)3月23日(火)、晴れの卒業式を迎える慶應義塾大学生。横浜日吉・下田のグラウンド(下田町1)では、慶應義塾大学ラグビー部(蹴球部)の学生たちが、4年間、仲間たちと日々を過ごしてきました。

きょう(2021年)3月23日に卒業する慶應義塾大学ラグビー部(蹴球部)の5人に、4年間過ごした大学、ラグビー部、そして日吉周辺での想い出などについて話を聞いた(2021年2月7日、オンライン会議システムZoomにて収録)
早くも一昨年前(2019年)となったラグビーワールドカップ(W杯)の盛り上がりや、日吉や港北区エリアでの地域まちづくりへの貢献、さらには昨年秋からの4年生最後のシーズンとなった関東大学対抗戦(Aグループ)では、強豪・明治大学や帝京大学を破っての第3位、全国大学選手権大会では、準優勝した早稲田大学に惜しくも敗れてのベスト8という結果となるなど、地域にも大きな話題を提供してくれた慶應ラグビー部。
チームの中心となって活躍した前主将の相部開哉(あいべかいと)さんと、前副主将の三木亮弥(りょうや)さん、トップリーグに進みプレーを続ける予定の大山祥平さん、チームをマネジメントする前主務(マネージャー)として活躍した三上竜央(たつお)さんと、マネージャーの荒川瑚子(ここ)さんの5人に、慶應義塾や、日吉で過ごしたラグビー部時代についての想い出について詳しく話を聞きました。
(インタビュー実施日:2021年2月7日、オブザーバー:和田康二ゼネラルマネージャー、良塚正剛広報担当、聞き手:「横浜日吉新聞」編集部・橋本志真子)
チームに「新カルチャー」を吹かせた5人がラグビー、そして日吉を語る
――まずは自己紹介をお願いします
(相部さん)主将、ポジションはロック(フォワード)だった相部開哉です。祖父の父方の実家があるところの近く、千葉県で生まれました。育ちは神奈川県平塚市です。

主将を務めた相部さんは慶應義塾高校出身
高校は慶應義塾高校(塾高)(日吉4)出身で、法学部政治学科で4年間学びました。政治学科なので、法律というよりは政治系、日本や西洋の政治の歴史といったことについて学びました。
就職先は三菱商事株式会社(東京都千代田区)に進みます。ラグビー以外で好きなことは(という質問に)、そうですね、結構ラグビーに関係あることなのですが、筋トレが好きで結構、頻繁に行っています。日吉の印象は、高校時代に見た「銀杏(いちょう)の並木道」ですね。入学した当初から、その光景が印象的でした。

副主将を務めた三木さんは京都出身。花園でベスト8の経験も
(三木さん)副主将、ポジションはセンター(バックス)だった三木亮弥です。ラグビーは3歳の時からはじめました。京都出身で、京都成章高校(京都市)を卒業しました。
高校時代はキャプテンとして花園(第96回全国高校ラグビー大会)でベスト8に入ったことも想い出深いです。大学での学部は総合政策学部、就職先は三井住友銀行(東京都千代田区)に内定をいただいています。ラグビー以外では食べることが好きですね。
(三上さん)主務(マネージャー)を担当しておりました三上竜央です。出身地は東京、国立市にある桐朋高校出身です。

主務(マネージャー代表)を務めた三上さん。大学2年時までラグビーのプレーをしていたという
ラグビーは高校からはじめて大学でも2年までやっていました。学部は経済学部で、就職内定先は株式会社博報堂(東京都港区)です。
ラグビー以外で好きなことは、最近はスノーボードですね。高校以来やりはじめたのですけど、すごく楽しくて、今期は3回やって、これから6回行く(2月7日時点)予定です。
(大山さん)川崎市出身の大山祥平です。武蔵小杉とか新丸子の付近で育ちました。慶應義塾中等部(東京都港区)から慶應義塾高校、そして大学では経済学部で学び、ラグビー部ではプロップという3番のポジション(フォワード)でした。

トップリーグの道に進むことになった大山さんは地元・川崎出身
就職内定先は本田技研工業株式会社(東京都港区)で、トップリーグに所属する「ホンダヒート(Honda HEAT)」(三重県鈴鹿市)に入りラグビーを続ける予定です。
ラグビー以外では、最近はいろいろな本を読むことが好きですね。今読んでいるのは、(入社する)ホンダのことは全然知らなかったので、ホンダについて詳しく書いた本や、普通に小説なども読んでいます。
(荒川さん)マネージャーを務めさせていただいた荒川瑚子です。石川県金沢市の出身なのですが、もう4歳の時点で東京に来たので、石川県出身といえるのかどうか。

マネージャーの荒川さんは、念願の大学ラグビー部で活動できたことに感謝しているという
小学校で入学した慶應義塾幼稚舎(東京都渋谷区)時代には、1年生の遠足で日吉の陸上競技場に来たりと、日吉とはゆかりが深いなと感じてきました。
出身高校は慶應義塾女子高校(同港区)で、大学では経済学部で学び、不動産の森ビル株式会社(同)に内定しました。転勤がまずない、地域まちづくりを手掛ける事業内容が個人的にかっこいいなと入社を志望させていただきました。
――なぜラグビーをはじめたかを教えてください
(相部さん)父親の影響がありましたね。父は、ラグビーを「がっつり」やっていたというわけではなかったのですが、会社のラグビー部に所属してプレーしていました。
そんな父に、小学生時代にラグビースクールに連れていってもらって、そこでずっとラグビーをしていました。
スクールでは、地域の子どもたちが集まってチームを作っていたので、学校を超えた交流がとても楽しかったですね。試合に勝ったりすると「すごく楽しいな」と感じたものです。
(三木さん)(相部主将と同様に)父の影響ですね。楽しいと思ったところは、チームのみんなと一緒に勝利できたことでしょうか。一つの目標を成し遂げるために、小学生ながらでもがんばってやっているのが楽しくて。「仲間」というところが一つ大きかったですかね。
(三上さん)桐朋中学校(東京都国立市)時代、元々はサッカー部にも入っていたのですが、仲の良かった友人から、3年生の時に「ラグビーをはじめてみない?」と誘われて、(一貫校だった)桐朋高校のラグビー部に体験入部してからラグビーをはじめました。
家族がラグビーを好きとかではなかったのですが、他のスポーツよりも「情熱的」というか、「熱いスポーツ」だな、と思い続けてきたという思いがあります。
(大山さん)中学受験の前、小学校4年生の時に、等々力緑地(中原区)をホームグラウンドとしていた「川崎市ラグビースクール」に、少しだけ通いラグビーをしていました。
2人の兄がラグビーをやっていたことも大きかったですね。慶應中等部時代は、三田の綱町グラウンドでラグビーをしていました。
(荒川さん)高校時代まではテニス部に所属し、10数年以上もテニスを続けていました。大学で続けようか迷っていたのですけど、自分の中で「マネージャー業」をやってみたいという想いが高校2年生の最初くらいから実はあって、恥ずかしいので周りには言えていなかったのですが、せっかく体育会系に入るなら「日本一を目指せるところがいい」と思い大学で入部しました。
高校のテニス部の先輩が2歳上で女子マネージャーをやっていた(ラグビー部)ので、話を聞いて、最終的にここなら4年間悔いない、自分のやりたいことが貫けるな、というように感じたことも入部の大きな理由となりました。
――なぜ、慶應義塾への道を選びましたか
(相部さん)高校受験をするときに、「ラグビーをしたいな」と思って。“塾高ラグビー部の強さ”、それは1つ理由としてありました。
高校時代にはキャプテンはやっていなかったです。大学で花開いた、努力はしてきたといえるのかもしれません。
(三木さん)大学進学を考えるときに、ラグビーをもちろんやりたいと思っていて、その当時は帝京大学が何連覇もするほどに強く、進学先にとも検討していたのですが、逆に「そこを倒せる大学に行きたい」と思い、そう考えたときに、慶應のラグビースタイルに魅力を感じて、AO入試での受験を決意しました。
慶應には、ディフェンスで「魂のタックル」という伝統があって、慶應はそれをすごいウリにしていて、自分のプレースタイルにも似ていると感じたことも魅力的でした。
(三上さん)実は、高校の隣に一橋大学(東京都国立市)があって、そのラグビー部とよく練習をしていたこともあり、(同大学に)進学し、ラグビー部に入りたかったということもあったのですが。今では、ここ(慶應)でしか出会えなかった「仲間」とめぐりあえたこともあり、4年間をここで過ごせてよかったなと思っています。
(大山さん)2人の兄が慶應に進学していたこともあり、迷うこともなくそこに入りたいという感じでした。そのまま入れてよかった。慶應でみんなとの縁ができて、本当によかったと感じています。
(荒川さん)慶應には幼稚舎(小学校)から入っていたので、ラグビー部に入った理由になりますが、父がもともとラグビー好きで、(別の大学ですが)大学時代にラグビーをしていたことも大きかったかもしれません。
――ラグビーを4年間やってみて良かったことなどをお聞かせください
(相部さん)ラグビーを4年間やってみて良かったことはいろいろな経験をさせてもらえたこと。4年生の時は「主将」という役職をいただけた。下級生の頃からありがたいことに試合で使ってもらえる機会もあった。ラグビー部入ってなければできなかった経験をできたと思っています。
いろいろなことをやらせていただけたからこそ、精神的に成長できたかな。忍耐力だったり、やりぬく力がけっこうついたのかなという印象はありますね。
主将については、これまでリーダー経験があったわけでなかったこともり、最初はやりたくないと思ったのですが、監督や先輩に相談したところ、「自分の好きなようにやればいいのではないか。無理をせず、人のまねをするのではなく、自分らしくやったほうが、結果として自分も苦しめないし、そっちのほうがきっといいのでは」といってもらえたところも大きかったですね。
模索しながらスタイルを確立してきた感じで、「行動で示す」タイプ、でした。ペラペラとしゃべるほうではなく、「自ら行動」することで、ついてきてもらおうということは意識してきたつもりです。
(三木さん)慶應での4年間、というよりは、「19年間」ラグビーやってきて、すごい人として成長できたな、と。相部(主将)と同様に、いろいろな経験をできたと感じています。強いチームで高校時代からラグビーを行うことができて、キャプテンもやらせてもらえて、大学でも副将と、キャプテン時代と違う立場も経験してみて、精神的にもすごく成長できたと思います。自分でいうのもなんですけど、少し大人になれたかな、と思います。
相部(主将)は、ポジションがフォワード。自分はバックスということで、チーム全体では副将というナンバー2の立ち位置なのですが、バックスではトップに位置する役割なので、チームを運営する上で難しさを感じるシーンもありました。
試合については、全ての試合が想い出深いですね。特に4年生になってからの試合は、一試合一試合が忘れられない試合となりました。
(三上さん)先ほども触れましたが、大学4年間、ラグビー部を続けてきてよかったのは、まずは「仲間」とめぐりあえたこと。同期のメンバーたちと出会えて、4年間過ごせたのはよかったと感じています。
試合の準備であったり、選手と監督の間、トレーナーなどスタッフがたくさんいる中で、その間に立ったりと、組織の中で何かを進めていくこと、また、「本気」の人たちと一緒に、何か一つのことを、みんなで協力して進めていくことでの難しさであったり、良さであったりというのを経験できたことも本当によかったと思っています。
一番つらかったのは、3年生の時に「副務」として役割を担っていたのですが、3年間の終わりの頃に監督から、話していいのかわからないのですけど、「主務にしない」って言われてしまって。退部しろくらいのことを言われてしまい、大変ショックに感じたことがありました。
いろいろあって、そこから自分を変えて、乗り越えてこられたのではないかな、と感じています。
最後の1年間は「コロナ対策」でも様々なシーンで大変さを感じました。どういう風にしていくか、チームメイトとのコミュニケーションも大変でした。いい経験ができた4年間でした。
(大山さん)(今回インタビューに登場する)みんなと違って、責任ある立場でなかったので、プレーヤーとして自由にやらせてもらっていましたね。そこはなんとかその分、試合で頑張ろうという感じではありました。
良かったことは、4年間通じて大けがすることもなく、結構試合にもずっと出させてもらえていたことです。明治大学とか、帝京大学といった相手に勝てたりとか、格上相手に自分が試合に出て何回も勝てたというのは、自分の中でこの部に入ってよかったなと思えましたね。
特に3年生の時は、順位が下のチームにも負けてしまい、悔しい思いがありました。けど、4年生になって勝てるようになったのは、相部(主将)とか三木(副主将)とか竜央(三上主務)とか瑚子(荒川マネージャー)とか、責任ある人たちが自分たちチームをまとめて、またさらにチームだけではなく、部全体をまとめてくれたというのは、確実に一番の理由だと思います。
個人的には、ポジション柄、1年生の時に先輩のケガもあってか、長時間試合に出させてもらって、明治大学といった強豪校にもやはり勝利を収めることができたことが、今でも印象深く心に残っています。
(荒川さん)マネージャーを4年間行っているなか、主に担っていたのは、部のお金関係のことと対外的なやりとりといったことでした。

マネージャーの荒川さんは、部のお金関係のことと対外的なやりとりをメインに担当してきたという(慶應ラグビー部提供)
マネージャーが10人近くいるなかで、特に外部の方と触れ合うことが多いポジションで仕事をしていたのですが、極端にいうと、高校までテニスをやっていたときは、組織の運営というものに、こんなに裏方の方がいて、尽力されているというようなことを全く考えたことがありませんでした。
いざ大学1年生になってマネージャーをやるぞって入った瞬間から、本当に自分の世界が広がって、1899(明治32)年の創部から120年以上も続いている伝統ある組織ですし、部員も150人近くいるので、その人たちが週6日間活動するにはこんなにもお金が動いていたり人が動いていたりするんだということを目の当たりにして、本当に驚きました。
そういった人たちの想いとかを感じながら部の中にいたことで、自分の価値観とか物事の見方が大きく変わったなと思っていて、4年間で個人的には成長できた部分かなと思っています。
――日吉の街やその周辺での想い出を聞かせてください
(相部さん)高校から7年間通っていたので、一番想い出というか、とにかく、ひようら(慶應義塾大学側からみた日吉駅前の商店街エリア)のごはん屋さんにはずっとお世話になっていましたね。
高校の時から、中華の「太楼(たろう)」(日吉本町1)は、何回行ったかわからないくらい、だいぶお世話になりました。
他のお店もけっこうその、なんかタンパク質(が必要)ね、などと考えると、決まったお店にしかいかなくなってしまって。特定のお店にだいぶお世話になりました。
(三木さん)そうですね、想い出としては、ひようらでごはん食べた想い出がすごい多い。
印象深いのは、今は閉店してしまったのですが、「おもや」(日吉本町1)というお店。ここには本当にお世話になりました。メニューの量もあるし、ラグビー部についても、ものすごく応援もしてくれていたこともあり、とても印象に残っています。
(三上さん)日吉というよりは、港北区全体になってしまうのですが、小学校派遣授業(港北区体育協会・港北区と同部が実施)で、3年生の時はほとんど行かせてもらったことが印象深いです。
今年度(2020年度)の1年間は、新型コロナウイルス感染症のために授業が出来なくなってしまい、本当に残念だったのですが。
本当に小学生が大好きなので。小学生は元気いっぱいで、元気をもらっていました。
(大山さん)自分も、相部(主将)とかと同じで、ごはん屋さん、ひようらの街ですね。特に、パスタ店「ド・マーレ湘南」(日吉2)には一番行っていましたね。
基本的に量が多くて。パスタ屋さんなのに結構多い。雰囲気も部屋着で行けてしまう感じで。
最後の1年はコロナの想い出ですね。レギュラーとかはみんな寮で過ごしました。消毒液とかおいてもらったり、マスクも。コロナ前までは、食事は食堂で食べていたのですが、最後の年は部屋に持って帰って食したりと。そんな想い出が残っています。
(荒川さん)下田寮付近で毎年3月下旬の春休みに開催している「桜スポ―ツフェスタ」では、第12回目となる2019年の開催時に実行委員会メンバーとして活動させていただきました。
また4年生の時には、港北区と慶應SDM(大学院システムデザイン・マネジメント研究科)による昨年8月の「オンラインラジオ体操」に大山さん、三上主務と一緒に参加したり、同11月の「ふるさと港北ふれあいまつり2020on-line」コアデイでは、横浜アリーナのスタジオでお話をさせてもらったりと、ラグビーのことを地域の皆さんに知っていただける「橋渡し役」になれたのは個人的にはすごく想い出深いですね。
また、毎年秋に対抗戦のポスターを作っているのですが、選手も言っているとおり、ひようらの皆さんには大変お世話になりました。お店をまわって宣伝にご協力をいただいたりするなかで、いろいろな方と出会えたシーンが印象に残っています。
――これからの抱負など、最後に一言聞かせてください
(相部さん)これまでずっと「ラグビー」しかやってこなかったので、社会人は違うステージになるのだと感じています。しっかりと頑張りたいですね。

オーストラリアの大学との国際親善試合が開催されたことも(2019年9月、下田グラウンド)
高校時代から7年間、日吉の街には本当にお世話になって、特に大学ではグラウンドでの掛け声などもあり、まわりの方にはご迷惑をかけたかと思うのですが、皆様があたたかく見守ってくださり、商店街やお店の方々もすごくラグビー部によくしてくれたので、心から感謝しています。
後輩たちには、試合に勝てるよう、また頑張ってほしいですね。
商社マンとしては、海外に「全然」行きたいので、がんばって早く行けるようにキャリアを磨いていきたいと思います。
(三木さん)ラグビーを辞めるのは大きな決断でした。また戻ってしまうかも?と正直思うこともありますね。
相部(主将)も言っていましたが、自分も、「ラグビー」しかやってこなかった。ただ、ラグビーという舞台で、学んできたことというのは、おそらく社会人になってからも、何らか活かせるとは思っています。それを活かしつつしっかり社会人の一人としてコミットしていければ。
ラグビー部 慶應もそうなのですが、長い時間ラグビーをやってきたので、どのスポーツよりも思い入れはありますね。だからこそ、ラグビー部に限らず、ラグビー界に何かしらの形で貢献できればと考えています。後輩たちには「頑張って」としか言えないですね。ずっと応援しています。
(三上さん)最後の4年生の時に、コロナ禍で大変な苦労があったなか、大学選手権でベスト8となり、また試合でも、明治大学や帝京大学といった大きな試合に勝つことができて、本当に嬉しく思いました。
個人的なこれからの抱負としては、いままでただの学生だったので、社会人として世の中のためになるようなことをしていけたらと思っています。
就職先として大手広告会社(博報堂)を選んだ理由としては、ラグビー部での最後の1年間もそうだったのですが、「誰かのため」に頑張ることが好きということがありました。
「誰か」に何かを与えられる、社会人としても、世の中であったり、あまり光が与えられない人たちといったところにスポットを当てるような仕事をしていきたいですね。
(大山さん)今後、トップリーグにも参加のチームへの道を進みますが、ラグビーを続けるに至るまでもいろいろと考えて、覚悟した道なので、そこはやりきりたいなとは思っています。
何歳までプレーできるといったことは、明確にはわかりませんが、自分のやりきれるとこまでやってという感じでしょうか。
最終的には「応援してもらえる選手」で終われればいいなと思います。
(荒川さん)社会人になるにあたって、マネージャーをやってきて、形上はこうやっぱり「支える立場」だったとは思うのですが、それでももっと裏方として、私たちが部員として活動できるように尽力くださった方がいっぱいいるということが分かりました。
両親、家族についてもそうだと思うのですが、まだ「見えていないこと」もたくさんあるのではないか、と感じ、そういう人たちを大切にできるような社会人になりたいと思っています。
何事もやってみたいなとは思っているので、あまり道を決めることなくいろいろなことに挑戦していきたいですね。
――長時間にわたり、お話をお聞かせいただき、ありがとうございました。これからの卒業生の皆さんのご活躍、また慶應義塾大学ラグビー部の皆さんのさらなる「挑戦」についても応援しています。
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【参考リンク】
・慶應キッズパフォーマンスアカデミー(慶應KPA)公式サイト
(法人サポーター会員:一般社団法人慶應ラグビー倶楽部 提供)