【コラム】巨大住宅地に「港北ニュータウン」という名が付けられたように、平成の初期までセンター北や南などの都筑区域は同じ港北区内でした。そんな時代の姿を少しだけ思い出せる場所が高田西にあるといいます。これに気付く人はほとんどいないのではないか、と思えるほどの密かな歴史スポットですが、横浜市道路局が小冊子で紹介しました。
同局の橋梁(きょうりょう)課がこのほど公開した小冊子「はしのはなし~第六稿・魅力ある親柱特集(中編)」によると、このスポットは、高田西1丁目と新吉田町の新吉田第二小学校付近を結ぶ早渕川にかかる「稲坂(いなさか)橋」です。
車も通れる「御霊(ごりょう)橋」と「中里(なかざと)橋」の中間に架けられた稲坂橋は、見た目こそ立派ですが、歩行者専用ということもあってか、近所に住む人の“専用橋”といった雰囲気が漂っていて、それほど目立つ存在ではありません。
しかし、この稲坂橋の隅にある「親柱(おやばしら)」に目をこらすと、千葉県と東京都を合わせたような形の石材が高田側と新吉田側の双方にくっついているのがわかります。
これが1994(平成6)年に都筑区が分区する前の“大きな港北区時代”の形をデザイン化したもので、都筑区が誕生した後も石材として、橋にその形を残し続けています。
稲坂橋が完成した1982(昭和57)年の港北区は、緑区が分区(1969年)してからしばらく経っていたとはいえ、まだ区域が広かった時代。
その後に港北区と都筑区に分かれたものの、かつて「都筑(つづき)郡」に入っていた高田や新吉田エリアで、都筑区と一緒だったころの姿を残し続けているのは、何かの偶然なのでしょうか。
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【参考リンク】
・横浜市道路局橋梁課「はしのはなし」(「第六稿 魅力ある親柱特集(中編)」に今回の稲坂橋を紹介)
・稲坂橋(高田西1~新吉田町)の場所(グーグルマップ)