「人のつながり」重視し創業40年超、日吉の税理士法人が描く“シェア”の理念

横浜日吉新聞

法人サポーター会員による提供記事です】創業40周年を昨年(2017年)迎えた老舗の税理士事務所が、日吉周辺の地域に密着し、事業を拡大しています。

税理士法人青木会計(前身は青木廣志税理士事務所)は、1977(昭和52)年9月以来創業40年超となった。2016年にホテルニューグランド「ペリー来航の間」で開催された記念パーティーには約70名が一同に会した(同税理士法人提供)

税理士法人青木会計(前身は青木廣志税理士事務所)は、1977(昭和52)年9月以来創業40年超となった。2016年にホテルニューグランド「ペリー来航の間」で開催された記念パーティーには約70名が一同に会した(同税理士法人提供)

日吉駅から徒歩約4分。現在、東急東横線の線路沿いにオフィスを構える税理士法人青木会計(日吉本町1)は、1977(昭和52)年9月に、前身の青木廣志(ひろし)税理士事務所として創業して以来、記帳や相続・贈与税申告、確定申告や医療経営支援、建設業経営支援、助成金の申請に関する相談や、手続きについての支援など、地元・日吉から横浜、神奈川、東京、そして千葉に至る顧客からの支持を受け、事業の幅を広げてきました。

人とのつながりが、税理士としての仕事を行う上で一番大切だと思っています。人は、まさに“石垣”。業績が伸びたとしても、働く人々に“シェア”し還元されていかなければ、その会社や組織は続かなくなってしまいます」と、代表で創業者の青木廣志さんは、“人”や、“人”とのつながりを大切にしながら、税理士として、また税理士法人の代表者としての日々を歩んできたといいます。

特に、企業経営のサポートには力を入れており、従業員の採用から記帳、社会保険労働保険手続、売掛金の回収、登記など、多種・多様な中小企業経営者が抱える諸問題の解決に尽力する姿勢を評価され、2013年には中小企業経営力強化支援法にもとづく「経営革新等支援機関」として国から認定を受けています。

税理士法人青木会計代表で創業者の青木廣志(ひろし)さん(右)は、専門学校での指導を経て税理士に。同法人では、現在社員・スタッフを募集している(同税理士法人提供)

税理士法人青木会計代表で創業者の青木廣志(ひろし)さん(右)は、専門学校での指導を経て税理士に。同法人では、現在社員・スタッフを募集している(同税理士法人提供)

また、そんな中小企業経営者らの期待に応えるべく、現在地に移転する前まで事業所を置いていた箕輪町での事業者団体「箕輪町商工会」(事務局:箕輪町3、飯山清志代表)での行事の運営サポートや、勉強会を通じた交流にも参加し、会員企業の税務・会計面での支援を行っています。

夏・秋まつりや、運動会など、「ふるさとを感じられるところが箕輪町の良いところ。街の人々もとても優しいところが魅力です」と、日吉、とりわけ箕輪町の人々との交流、そして“地域での活動”には、心から感謝しているといいます。

青木さんは、日吉周辺地区での税理士活動を行うのみならず、昨年(2017年)6月からは、神奈川県・山梨県の税理士からなる、東京地方税理士協同組合(西区)の副理事長、神奈川県弁護士協同組合(中区)の監事としても職責を果たしています。

“人財”や保険を扱う会社も興すなど、新たなビジネスへのチャレンジを今も大切なことと位置付けている青木さんが歩んできた、税理士としてのこれまでの歩み、そしてこれからの未来とは。

社員の待遇向上や福利厚生には特に力を入れています」と、税務会計の仕事に就きたい人を歓迎しているという青木さんや、青木さんを支える税理士、そして税理士を志す若手社員・スタッフらにも日々伝えているであろう“熱き想い”について、詳しく話を聞きました。

ふるさと山形から上京、初めて大学で「勉強らしい勉強」に熱中

青木さんは山形県山形市生まれ。蔵王山の麓(ふもと)で育ちます。小学校は1874(明治7)年創立の歌人として知られる齋藤茂吉(1882~1953)の母校としても知られる伝統校・蔵王第二小学校を卒業。蔵王第一中学校山形県立上山(かみのやま)高校(1993年に上山明新館高校に改称)の商業科に学びます。

青木廣志さんは山形県生まれ・育ち。ソニー株式会社や会計事務所勤務を経て独立。現在、東京地方税理士協同組合の副理事長、神奈川県弁護士協同組合の監事としても活躍している(同税理士法人提供)

青木廣志さんは山形県生まれ・育ち。ソニー株式会社や会計事務所勤務を経て独立。現在、東京地方税理士協同組合の副理事長、神奈川県弁護士協同組合の監事としても活躍している(同税理士法人提供)

当時は戦後の第一次ベビーブーム。「金の卵」として、中学校卒業後、同級生の多くは集団就職して東京に出るか、大人気だったという工業科に進学しようとしていた時代。「当時、あまり人気がなかった商業科に進学しました。バレーボール部に熱中し、勉強はあまりしませんでした」と、ふるさと・山形での青春時代を、懐かしいまなざしで振り返ります。

6人兄弟の末っ子だったという青木さん。「一番上の兄が、中学校を卒業してからすぐ東京に出ていたのですが、東京で学問の必要性を知った兄から、“大学に行くべきだ”と、教育の大切さを切々と訴えられたんです。それで、兄を頼って、東京に出て、大学に進学する決意を固めました」と、青木さんは、川崎市多摩区にある専修大学に進学、商学部で4年間学びます。

兄の想いも背負っていたからか、「大学時代、初めて“勉強らしい勉強”をしたと思います」と、大学で、公認会計士や税理士になるための勉強を重ねていくうちに、「師に恵まれ、仲間もたくさんできました。彼らには“負けたくない”という想いも芽生え、勉強にも熱中することができたんですよ」と、今の素地を作った大学時代の“学びの成果”についても熱く語ります。

専門学校、大手メーカー勤務後、“独立”目指し会計事務所へ

大学卒業後は、柏木実業専門学校(大和市)で講師を務めた青木さん。「クラブ活動の先輩を頼り、2年間勤務しました」と、簿記・税務会計を同校で指導します。

税理士法人青木会計のサイト。人とのつながりを重んじてきた青木さんらしい「Face to Faceを大切に」との文言が綴られている

税理士法人青木会計のサイト。人とのつながりを重んじてきた青木さんらしい「Face to Faceを大切に」との文言が綴られている

25歳で税理士試験に合格したという青木さん。「机上で教えるばかりでなく、実際の経理・会計の実務を知りたい」という想いも強まり、高度経済成長期の波にも乗り事業を急拡大していたソニー株式会社に入社、本社経理部(当時、東京都品川区)で税務申告、役員会資料、有価証券報告書作成の業務に従事します。

大企業で経理の実務を学ぶことができたものの、受験雑誌の企画で、会計士や税理士として合格した人々による合格者座談会に招かれた青木さんは、「仲間たちが、自由に、自分の意志で独立していく姿を見て、楽しそうだなぁ、と率直に感じました。ソニー時代の上司や同僚には、“なぜ辞めるのか”と不思議がられましたが」と、同社を1975(昭和50)年末で退職。翌年1月から、千葉県木更津にある当時約60人規模の会計事務所での勤務の道を選びます。

転機は入所後1年半、上司とぶつかりいよいよ日吉で「独立」

千葉県に“引っ越してまで”新しい職場環境を探し、勤務に邁進していた青木さんですが、転機は入所後1年半でやってきます。

 横浜ベイシェラトンホテル&タワーズでの2017年確定申告打ち上げ会。職員間の意思疎通を高めるため、福利厚生には力を注いでいる(同税理士法人提供)

横浜ベイシェラトンホテル&タワーズでの2017年確定申告打ち上げ会。職員間の意思疎通を高めるため、福利厚生には力を注いでいる(同税理士法人提供)

なんと、そんなことが起こるのか、という事態に見舞われたという青木さん。

「当時の所長と、貸し倒れの認定について意見が全く対立。回収できるか、できないかという判断を、信じてもらえなかったことが悔しく感じられてしまい、退所することを決めました」と、まさに“初めての人生の挫折”を経験してしまうのです。

これがきっかけとなり、妻の実家がある日吉で起業することに。思わぬかたちでの“夢の独立”を果たすことになった経緯について語る青木さんは、この街・日吉との出会いや、この街で起業することになったことについての感謝の想いを、今も抱き続けているといいます。

綱島から箕輪町に事務所を移転、今もつながる「商工会」との出会いも

晴れて独立したものの、「一般家庭で妻が育ったこともあり、とりわけ大きな縁故や地縁血縁があったわけでもなく、独立当初の生活はそれは大変なものでした」と、厳しかった独立直後の生活を振り返る青木さん。

税理士法人青木会計は綱島で事務所を構えていた時期もある。鶴見川河川敷で開催された「2016年横浜駅伝」出場時に(同税理士法人提供)

税理士法人青木会計は綱島で事務所を構えていた時期もある。鶴見川河川敷で開催された「2016年横浜駅伝」出場時に(同税理士法人提供)

専門学校勤務時代のつながりから、社団法人全国経理学校協会(現在の公益社団法人全国経理教育協会、東京都豊島区)の検定試験の委員を務めることができた青木さんは、知り合った受験業界の先生からの原稿執筆の依頼もあり、なんとか収入を確保することができたといいますが、「生活的には苦しかった」という当時の想いを吐露します。

しかしながら、日吉で地道に税理士としての活動を行っていくうちに、少しずつ税務署や、青色申告会での記帳指導の仕事も増え、「幸い、紹介の紹介も増えて、職員を採用するまでになりました」と、イトーヨーカドー綱島店(綱島西2)至近に事務所を拡張移転。

さらに事業が拡大し手狭になったことから、1985(昭和60)年頃に箕輪町2丁目の日吉ハイツ内に事務所を移転。「この時に箕輪町商工会に入会しました」と、箕輪町とのつながりを今も大切にしている理由がここにあると、青木さんは、“人とのつながり”の大切さを今も感じる理由としての、同商工会の存在についても言及します。

愛すべき日吉の街で、“人とのつながり”の大切さを伝える日々

その後も“新しい挑戦”の手を緩めない青木さんは、1987(昭和62)年に人材派遣、生保代理店部門としてビジコ・ジャパン有限会社(日吉3)を設立し、代表に就任します。

2001年から同事務所で勤務している税理士の國谷(くにたに)玲子さん。父であり、上司でもある青木廣志さんの思いを継いで活躍している(同税理士法人提供)

2001年から同事務所で勤務している税理士の國谷(くにたに)玲子さん。父であり、上司でもある青木廣志さんの思いを継いで活躍している(同税理士法人提供)

2000年春には、日吉本町1丁目の現在地に事務所を移転。税理士法人の事業拡大や社員・スタッフの人材育成に努めるばかりでなく、2005年から3年間、母校・専修大学への日本税理士連合会(東京都品川区)の寄付講座の講師、2010年から2年間、専修大学大学院の特殊講座の講師を務めるなど、広く社会での税理士や会計業務を普及させるための活動も行っています。

バブル崩壊直前だった時代、規制緩和で昇り調子だった企業も、今は事業を縮小する時代。「特に支援する企業は、医療関係から社会福祉法人、NPO法人と、時代を反映してか変化してきていると思いますが、業務に幅もより広がっているのも事実です」と、日吉周辺地区に密着し、より多くの企業や個人の“お金や税制面”でのサポートをしていきたいと意気込む青木さん。

「所長は、いつも娘4人、孫10人、たくさんの人に囲まれ生活をしています。人や縁を何よりも大切にする人間だと思います」と青木さんの実娘で、2001年から同事務所で勤務している税理士の國谷(くにたに)玲子さんが語るように、いつも朗らかに、笑顔を絶やさない青木さんの「眼」には、確かに“人の生き様”そして“人の幸せ”についての洞察が成されているようにも映ります。

創業40年パーティーで孫たちに囲まれる青木廣志さん。新しい未来へと進む若手“人財”とともに、これからも税理士としての歩みを続けていく(同税理士法人提供)

創業40年パーティーで孫たちに囲まれる青木廣志さん。新しい未来へと進む若手“人財”とともに、これからも税理士としての歩みを続けていく(同税理士法人提供)

創業40周年パーティーでは、横浜・山下公園前(中区)のホテルニューグランド「ペリー来航の間」で、社員・スタッフやその家族約70名が集まり、その歩みを労(ねぎら)いあった税理士法人青木会計が、これから目指すものとは。

「税務会計を担当させていただくべき中小企業の経営は、より厳しくなっています。より社員間の意思疎通をはかり、働き方の改革も実践、“人とのつながり”をより大切にしながら、重要な情報を自ら集め、“持続可能な”経営改革について思慮できる“人財”を育成し、事務所もより成長していきたいですね」と青木さん。

ふるさと・山形のイメージすら抱くことができる、山や丘の緑あふれる景色や、「優しい人が多い」という、箕輪町などでの人々とのつながりに住みやすさを感じる日吉の街が大好きだという青木さんは、これからも、生涯をこの“愛すべき街”日吉周辺、箕輪町を起点としての、神奈川県内外にも広がる税理士としての先達としての歩み、仕事やそれにまつわる想いを“シェア”する大切さや理念を、多くの後進たちに伝え続けていくに違いありません。

【関連記事】

明治時代から箕輪町で老舗の歴史継ぐ飯山さん、商工会や剣道で“地域をつなぐ”日々(2018年2月9日)*現在の箕輪町商工会会長・飯山清志さんの父・登さんの時代から同商工会とつながったとのこと

【参考リンク】

税理士法人青木会計のサイト

税理士法人青木会計 資格者のご紹介(青木廣志代表、國谷玲子税理士のプロフィール)

横浜経理サポートセンター(ビジコ・ジャパン有限会社・税理士法人青木会計)

法人サポーター会員:箕輪町商工会 提供)


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