【法人サポーター会員による提供記事です】女性経営者が一代で築いたカルチャーセンターが、「日吉」らしい文化や芸術、幼児教育や語学など、多彩な講座を開講しています。
現在開講中のものだけでも、その数約260講座、月間の受講者数は約1300人という規模で運営している「カルチャー日吉」(株式会社カルチャー日吉、日吉本町1)は、日吉駅西口から徒歩1分。
英語をはじめとした語学や、絵画や書道、ホビー・クラフト、音楽、フラワーアレンジメント、体操やダンス、教養・実務といったジャンルを取り揃え、0歳児の赤ちゃんから幼児、小・中・高・大学生、社会人や主婦、90代のシニアに至るまで、幅広い受講者層、そして年齢層に向けた講座を開講しています。
この「カルチャー日吉」を立ち上げたのが、横浜市出身・在住の高松汀子(ていこ)さん。
1996(平成8)年の秋に同校を立ち上げた際は、講師が10人、生徒がわずか3人という状況でした。
「一人ひとりの講師や、生徒を“大切に”していたことで、今日に至ることができました」と、延べ受講者数は6000人を越えるまでに成長してきたという20年余りの同校のあゆみを振り返ります。
教育への熱き情熱を抱いていたという高松さんの母の影響を受けながら、自身、「まさかの」カルチャーセンターの運営に携わることになった偶然、そのきっかけとは何だったのでしょうか。
アメリカで高松さんが感じた、「日本」が知られていない現実
1960年代、アメリカ・ミシガン州への移住により学んだ英語、そして語学力のみならず、「海外での日本」の存在感にショックを受けた高松さんが、この日本に持ち帰ったもの、それこそが発端となった「カルチャー日吉」の歴史となっています。

高松さんが青春時代を過ごした横浜共立学園中学・高校(中区)。当時の友人たちと今でも定期的に再会しているという(同校のサイトより)
高松さんは横浜市磯子区育ち。ある意味「横浜らしい」根岸森林公園や、山の手の風景に慣れ親しんで育ったといいます。
中学・高校は横浜共立学園(中区)に進学。「えんじ色がアクセントとなっている、今と変わらぬセーラー服で通いました」と、学生時代を懐かしみます。
実は、高松さんの母(故・小島美江=よしえさん)も同校の卒業生。「袴(はかま)姿で通学していたと聞いています。関東大震災(1923年=大正12年)の際には、京都に移住するなど苦労した母。教育には、惜しみなくエネルギーを注いだ人でした」と、母の存在や考え方に、大きな影響を受け育ったといいます。

2004年頃の高松さん(カルチャー日吉で撮影、同校提供)
母がよく語っていた「教育は、それを受けた者に、一生宿る」という言葉。高松さんには、今も、母の言葉が心に刻み込まれていると語ります。
女子大卒業後、同郷だという芳広さん(現同社取締役会長)と結婚した高松さん。芳広さんが仕事でアメリカ・ミシガン州(デトロイト郊外)に赴任していた先へ追いかけるように移住します。
慣れない環境からスタートしたアメリカで、「憧れだった“栄光の国”らしい、映画で見るような素晴らしさに触れた」反面、「日本について知っている人は、私の周りには誰一人としていなかったんです。日本について、全く知識のない人々との出会いは、私にとって何とも言えず、大きなショックを受けました」と、いかに当時、日本が世界で知られていないかという現実を突き付けられたといいます。
帰国後の出会いから、アメリカの教師を招く事業を立ち上げ
アメリカ移住から4年後、日本に帰国した高松さんは、移住経験も活かしたつながりから、日本に在住する外国人と日本人との国際親善や相互理解を深めるボランティア団体「横浜国際婦人会」(1929年創立、中区)に所属します。
ここで出会った女性・アリス・ハリントンさん(アメリカ出身)とともに、アメリカ人に訪日してもらい、日本の良さを伝える活動を行う「ペースインターナショナル」(PACE=「Program for Academic and culture exchange」の意味)を1983(昭和58)年に立ち上げます。
「後の起業につながる運命的な出会いでした」と語る高松さん。2人は、「日本とアメリカでのそれぞれの経験を通し、お互いの国を理解し、そこに友人がいれば、戦争を回避することに対し、強い心を持つことができたはず」と考えていたといいます。
アメリカ人に日本を知ってもらう最も効率的な方法として、アメリカの若者に大きな影響を与える、アメリカで教鞭(きょうべん)に立つ「教師たちへの教育が一番」と考え、日本を訪問してもらい、勉強会の実施や京都の和風旅館への宿泊、能登半島での漁業体験と、「観光では体験できない“経験”を提供する約2週間のプログラム」を13年ほど運営したとのこと。
この活動を通して、1994年(平成6年)に、現在のカルチャー日吉がある「日吉教養センタービル」の当時のオーナーと知り合ったという高松さん。
「ペース(PACE)の事業では、東京、横浜で、英語で案内をできる主婦の方々に、多く協力をいただいていたんです。現在のカルチャー日吉でも、当時協力してくれたメンバーがスタッフとしても活躍してくれているんですよ」と、アメリカとの縁、アリスさんとの縁、そして日吉や同ビルとの出会いについても、「全てがつながっているんですね」と、高松さんは今に至る歩みを、一言ひとこと、力強く振り返ります。
「一人の講師、一人の生徒を大切に」独立系運営で20余年
知り合った当時、日本語学校の校長を務めていたという日吉のビル・オーナーは、現在のビルでの事業運営を高松さんに強く打診し、これを受け留める決意で「カルチャー日吉」を1996年に設立します。
母・美江さんから教育の大切さを教えられてきていたこと、また語学力を活かし、アメリカ人や、国際的なネットワークを活かした人々のつながりを大切にしてきたこともあり、「まずは英語の講座を中心にスタートしたんです。日本の英語、英会話教育に疑問を持ち続けてきたこともあるので、“独自の”英会話上達法を採り入れたプログラムを組んでみたら、これが好評を博しました。生徒も、講師も、だんだんと増えてきたんです」と、特に“原点”である語学、そして国際感覚を磨き、日々の生活に生かす講座を、続々開講してきたとのこと。
「自分が幸せになりたければ、まずは家族の幸せを望み、その思いを拡散することにより、世の中の幸福度があがる」という理念を、「起業理念」、そして「企業理念」としてきたという高松さん。
わずか数名の生徒からスタートしたという同校は、「例え、受講者が1人きりであっても」講座は閉校しないことがモットー。
言葉通り「一人ひとり」を大切にする理念は、日吉の地域に根差し、どの大手企業の傘下にも入らない「独立系」の地域密着型カルチャースクールとして、日吉周辺の人々に広く、そして深く親しまれてきました。
国籍、年齢、性別、そして文化の垣根を越えて「学べる場」を
「生徒の要望に柔軟に対応し、老若男女が集え、国籍、性別、文化の垣根をも越えて学べる場としての存在を確立するために、もっともっと、講師や生徒の皆さんとともに成長していきたい」と、これからの目標についても言及します。
新しい風をこのスクールにも吹かせていきたいと語るその目には、かつてアメリカに渡り、「日本を全く知らない」人に出会った際に感じた「諦めない心」、さまざまな国、境遇、国籍の人々と出会ってきた日々への感謝、そして「自己を磨く」ことで、仲間を作り、それを地域社会に還元していきたいとの“この街” への想いがあふれているかのよう。
「私ももう70歳を超えましたが、“カルチャー”から、さらに踏み出した“教育分野”にチャレンジしたいという構想のもと、文化や教養の普及に努め、『人と人とが出会う場』『生涯学べる場』として、カルチャー日吉の存在感を増していきたい」と語る高松さん。
同校の歴史とともに通い続ける生徒や講師、スタッフの“熱き想い”にも日々支えられながら、一経営者としての高松さんの新たな挑戦が、これからもこの街で続いていきそうです。
【参考リンク】
・カルチャー日吉~Culture Hiyoshi SchoolのFacebookページ
(法人サポーター会員:株式会社カルチャー日吉 提供)