古くから日吉に事業所を設けてきた野村総合研究所(NRI野村総研、箕輪町2)が昨年(2015年)末で撤退していたことがわかりました。2016年2月1日現在は残務処理が行われている状態だといいます。
旧アピタ日吉店などが建つ一連の区画は、岡本工作機械製作所(群馬県安中市)が本社と工場を置いていた土地で、1977(昭和52)年にサンテラス日吉(現アピタ)が建設された後、1985(昭和60)年に進出したのが当時の野村コンピューター(現NRI野村総研)でした。
ここに建てられたのは「データセンター」と呼ばれる施設で、電子データを保管する役割を担うものです。インターネット時代となって電子データの重要性が一段と高まっている現在では、日本全国いたる所に立派なデータセンターが多数設けられていますが、今から30年前は、NRI野村総研の日吉データセンターは東洋一と呼ばれる施設だったといいます。
NRI野村総研で理事をつとめる楠真(くすのきしん)氏が「ITpro(ITプロ)」(日経コンピュータ運営)というIT業界専門サイトにて「『東洋一のデータセンター』が時代遅れになった理由」(2016年1月12日公開)との見出しで日吉データセンターに関する記事を寄せています。記事では、昨年12月28日に同社役員や幹部が日吉データセンターに顔を揃え、閉所式が「ひっそり執(と)り行われた」と明かされています。
野村證券の超重要データを保管する場所だった
同記事で楠氏は日吉データセンターについて、「野村證券(しょうけん)専用のデータセンターとして建設され、以来30年に渡って野村證券の、ひいてはNRIのビジネスを支えてきました。建設時は『東洋一のデータセンター』をうたっており、当時、野村證券社長だった田淵節也さんが出席して大々的に開所式が催されました」と振り返っています。
野村證券が取り扱う大量のデータを磁気テープに保存し、日吉データセンターまで運ぶ際にはパトカーが先導したといいます。それほど重要なデータを保管しておく場所が日吉に存在していたわけです。
こうした経緯からデータセンターであるということは公(おおやけ)には明かされておらず、対外的には「日吉センター」と呼んでいたようです。日吉住民の間では「野村総研のオフィス」として認識されていたかもしれません。
外側から見ると、今もまったく古さを感じさせない建物で、耐久年数は50年以上あるとのことです。しかし、電力の供給を受けるための受変電設備の寿命が30年であり、停電させないように交換するのが難しいことから廃止を決めたといいます。閉所式に集まったNRI野村総研の役員らも「まだ使えそう」という感想を述べていたと楠氏は記事で明かしています。
NRI野村総研のデータセンター跡地は、2020年に新小学校の建設が予定されています。楠氏の記事では、「80年代の技術の粋を結集して打ち込まれた76本の杭は今後、新しい小学校とそこで学ぶ子供たちをがっちり支えていくことになります」との感想を記していました。
一方、日吉データセンターと同時に建てられた若手社員向けの社員寮についても、昨年夏に閉鎖されています。現在は敷地の一部が野村不動産による大型マンション「プラウド日吉」のモデルルームとして活用中です。
NRI野村総研の日吉データセンターは、「サーバ」と呼ばれる電子データを保管する機械が施設の大半を占めるため、働く人数自体は数十人規模だったとみられますが、同社の将来を担う若手社員が日吉住民であったことを考えると、地元への貢献は大きかったといえます。
日吉と綱島ともに、再開発によってマンションばかりが増える一方、企業の拠点や工場が撤退したり、規模を縮小したりするケースが相次いでいます。経済活動を支える企業がいなくなってしまうことで、街のポテンシャル(潜在力)が落ちてしまわないかが心配なところです。
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【参考リンク】
・「東洋一のデータセンター」が時代遅れになった理由(「ITpro」での楠真氏による記事、1ページ目のみ閲覧可能、無料会員登録すると全文が読める)