日吉本町から下田町にかけての日吉台に18ホールのゴルフコース建設計画があった――。そんな話が今月号(2017年1月)の港北区によるイベント情報紙「楽・遊・学(らくゆうがく)」に掲載されています。同紙の連載企画「シリーズわがまち港北」の第217回で「東京オリンピックで日吉ゴルフコース」と題し、公益財団法人大倉精神文化研究所の研究部長である平井誠二さんが取り上げたものです。
同連載によると、1940(昭和15)年に開催が予定されていたものの日中戦争の長期化で中止となった「東京オリンピック」では、日吉にゴルフコースの建設計画が存在していたといいます。
五輪の開催にともない「駒沢ゴルフコース」(現・駒沢オリンピック公園総合運動場)を閉鎖する方針が決まり、その代替地として日吉が浮上。18万坪(59万4000平方メートル)という広大な土地に18ホールを備える構想を描き、東急電鉄は1938(昭和13)年に「株式会社日吉ゴルフ倶楽部」という法人も立ち上げています。
東急による日吉ゴルフ倶楽部は700人の会員を集め、建設に必要な土地の9割の売買契約をまとめたとのことですが、日本が五輪開催を辞退したことにより、土地は宙に浮いてしまいます。
執筆者の平井さんは、「慶應義塾大学は昭和13年9月20日に下田の土地19,800坪余の購入を決め、昭和15年に野球場を開設します。これは、夢に終わったゴルフコースの跡地開発だったのでしょうか? この謎解きが筆者の夢です」と結んでいます。
幻に終わったこのゴルフコース計画は、慶應大が下田町1丁目一帯に野球グラウンドやサッカー場を開設したこととの関連はあったのでしょうか。今後の研究が待たれます。
【参考リンク】
・シリーズ「わがまち港北」第217回「東京オリンピックで日吉ゴルフコース」(PDF、「楽・遊・学」2017年1月号)
・慶應義塾史跡めぐり第88回~下田グラウンド(「三田評論」2014年3月号、大澤輝嘉氏)
・シリーズ「わがまち港北」第196回「球春到来!!-港北区と野球の関係・その1」(慶應下田町グラウンドに関するエピソードなど)
・東京オリンピック、1940年~幻のオリンピックへ(アジア歴史資料センター)