高田の地に住み半世紀、元小学校校長の栗原さんが伝え続ける戦争と平和

横浜日吉新聞
高田西に住む栗原茂夫さん

高田西に住む栗原茂夫さん

高田の街から自らの戦争体験を語り継ぎ、平和の大切さを訴え続けているのが横浜市の小学校校長だった栗原茂夫さん(高田西)です。81歳になった現在も精力的に講演をこなす一方、70代の半ばにインターネットでの発信方法を一から学習。投稿した内容を一冊の本にまとめ上げるなど、戦争の実体験を次世代へ伝えることに情熱を注ぎます。半世紀近く住み続ける高田を拠点に、“伝道師”としての活動範囲は広がり続けています。

昭和10(1935)年に栗原さんが生まれたのは南国の島・サイパン。高田の地へたどり着くまでには、長い苦難の道を歩んできました。

サイパン島はアメリカの自治領となっている北マリアナ諸島の中心地。今では近隣のグアム島とともに、日本人には身近な南国のリゾート地として知られていますが、第二次世界大戦前には日本が統治し、米軍と対峙する最前線として悲惨な戦地となったことさえ忘れられつつあります。日本本土へ爆撃を行う拠点として使われていた事実も、知る機会は少なくなりました。

サイパンのサトウキビ畑(栗原さん提供)

サイパンのサトウキビ畑(栗原さん提供)

開拓移民として移ったサイパン島で、サトウキビ畑の開発を担う父や母、3人の弟とともに、一家6人で幸せな暮らしをしていた栗原家でしたが、南国のゆったりとした島が急変したのは昭和19(1944)年、栗原さんが小学校3年生の頃だったといいます。飛行場の近くにある小学校へは通えなくなり、ジャングルの中を“臨時教室”として何とか授業が続けられるという状態です。

その年の6月、島は米軍から激しい空爆を受け、栗原一家も含めた現地の住民は洞窟のなかで暮らすことを余儀なくされます。逃避行の途中では、小学生だった栗原少年の近くで砲弾がさく裂。奇跡的にケガこそなかったものの、これ以来、栗原さんは難聴のハンディを抱えて生きていくことになります。

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生まれ育ったサイパンを離れ、本土で苦難の出発

サイパン島に上陸する米軍(栗原さんの「とうよこ沿線」での連載ページより、原典:東海大学・鳥飼行博研究室所蔵)

サイパン島に上陸する米軍(栗原さんの「とうよこ沿線」での連載ページより、原典:東海大学・鳥飼行博研究室所蔵)

洞窟内では、住民が飢えと異常な暑さによる喉の渇きに耐え続ける極限生活を続けるなか、米軍は既にサイパン島へ上陸していました。栗原さん一家も死を覚悟して洞窟内にとどまりましたが、米国兵に発見され、現地の収容所に入れられてしまいます。

一方、水と食料を求めて外へ出た父と叔父は、以後行方が分からないまま。当時、民間人であっても日本兵と同じような服装をする決まりがあり、「父たちが外へ出た後、乾いた銃声が2発聴こえました。誤って米兵に撃たれたのかもしれません」と栗原さんは振り返ります。

収容所での生活は1年半続き、その間に栄養失調で二人の弟を相次ぎ失ってしまいます。敗戦により、一家6人で幸せに暮らしたサイパンの地を離れざるを得なくなり、残された母と次男の3人で浦賀港に上陸。家も家族も失った末、日本本土で苦難の生活が始まりました。

教員として出発した地・高田にずっと住み続ける

栗原さんが赴任した当時の高田小学校、木造校舎の小さな学校だったという(栗原さん提供)

栗原さんが赴任した当時の高田小学校、木造校舎の小さな学校だったという(栗原さん提供)

日本へ還り着いたものの、大黒柱であった父の行方はわからず、育ち盛りの2人の少年を抱えながら母親が日夜働き続け、栗原さんを大学まで進学させたといいます。「私自身も高校時代からアルバイトばかりしていました。とにかくお金を稼ぐために何でもやりました。高校は平塚市にありましたが、鶴見まで通って糖蜜工場で働いていたこともありました」。

「学校の先生になってほしい」という母親の期待を背負った栗原さんは、横浜国立大学で教員免許を取得。教員として初めて赴任したのが高田小学校(高田町)でした。昭和34(1959)年、当時は農村部にある1学年1クラスの小さな小学校だったといいます。苦しかった戦争を体験したことで、「平和な日本の将来を託された子どもたちの命をしっかり守っていこう」と誓い、日々懸命に教鞭をとり続けます。

高田小学校での栗原さんの授業風景、当時は1クラス50人を超えていたという(栗原さん提供)

高田小学校での栗原さんの授業風景、当時は1クラス50人を超えていたという(栗原さん提供)

そうした熱意が伝わり、5年後に転勤で高田小を去る際には、生徒の父母から「うちの土地を貸すので、先生の家を建てるのに使ってほしい」との話が持ち上がったといいます。思い出が詰まった高田の地を終の棲家に決めた栗原さん。転勤で何度か勤務校が変わっても、高田との関係は途切れることなく現在まで続いています。

「近所には昔の教え子もたくさんいまして、町内会の集まりなんかでは今も『先生』と呼ばれるのは少し恥ずかしいのですが……。戦後、本土に自分たちの家を持てず、家族で転々としてきましたので、ここに家を持てたのは本当に嬉しかったです。家を建てることを何度も夢に見ていたくらいでしたから」。

1枚の家族写真と母の手記をもとに戦争体験を発信

母が遺した手記と1枚の家族写真を足掛かりに2012年には1冊の本にまとめた

母が遺した手記と1枚の家族写真を足掛かりに2012年には1冊の本にまとめた

保土ケ谷区の初音ヶ丘小学校で校長をつとめた後、1996年に教員を定年退職した栗原さん。70代の頃、日吉でパソコン教室を行う「えんせんシニアネット」の代表で、地域情報誌「とうよこ沿線」の編集長である岩田忠利さんと出会い、自らの戦争体験をまとめて本格的に発信することに踏み切りました。

母親が死の間際に書き残したノート30ページ超の手記と、サイパンで平和に暮らした頃に撮られたわずか1枚の家族写真をもとに、自らの記憶をたどります。戦争に関する文献や資料にもあたりながら、インターネットで手記を公開。これが大きな反響を呼び、1冊の書籍『ドキュメント少年の戦争体験』(2012年12月刊行)にまとめ上げました。

その間にも、サイパンへ修学旅行へ行く県内高校から依頼されて事前学習の講師をつとめたり、「港北区まちの先生」として区内小学校や会合などで体験を語ったり、世代を超えて戦争の悲惨さと平和の重要性を伝え続けています

「サイパン島で洞窟のなかに隠れていた時、米兵から“デテコイ、デテコイ、ミソ(水)アリマス”という投降の呼びかけが何度もあり、教員時代から生徒たちにこの時の様子を語ってきました。これを何十年経った今でも覚えてくれたんです。この先も、一人でも多くの人に伝えていくのが私の使命だと思っています」。

悲惨な戦争を実体験した世代が年々減っていくなかで、戦争を肯定するかのような風潮さえ出ようとしています。だからこそ、次の世代へ戦争の恐ろしさと平和の大切さを伝え続けなければならないという栗原さん。その情熱は、これからも途切れることはありません。

【関連記事】

<コラム>引き裂かれた日吉村、次に来たのは大迷惑な日本海軍とアメリカ軍(2016年1月10日、サイパンなどから飛び立った飛行機が日吉周辺を爆撃した)

【参考リンク】

ドキュメント 少年の戦争体験(「とうよこ沿線」で連載してきた栗原さんの手記)

サイパン・テニアン島の玉砕戦(東海大学・鳥飼行博研究室によるサイパン島などにおける戦史研究)


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